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黒谷 金戒光明寺

Kurotani601金戒光明寺は承安5年(1751)、法然善上人が教えを広めるために比叡山から降りて最初に草庵を結んだ場所である。当地に光を照らしたことから金戒光明と言う名前が生まれている。

幕末期、会津松平家の武士集団が此処を本陣とし、新選組と共に攘夷のテロ活動で吹き荒れる京の街を護った。
広くて奥の深い寺域の黒谷、金戒光明寺で彼らの残した痕跡を追ってみた。

◇自然の立地から要塞づくり
徳川家康は幕府を盤石なものにする為に、京の東の厳しい崖と言う地形的な背景から、京に事が起きた時に備えるための城塞とし軍隊が配置した。
黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。
因みに山内の西翁院にある淀看(よどみ)の茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。また、黒谷古地図によると浪華城遥矚(ようしょく)とあり大坂城まで見えたという。

◇会津藩駐屯する
黒船来航を機に開国か或いは攘夷か国論が揺れる中、国内はテロ活動で荒れた。権勢を誇った徳川政権も地盤が揺るぎだした。安政の大獄の終焉でテロ活動があちこちで生まれ、治安が悪化する。
特に加茂川、高瀬川の周辺では暗殺された人々の晒し首や屍体が毎日のように並べられ、安政の大獄が跡を引き血が血を呼んだと言われている。京も暗殺や強奪が日常化し手の付けられない状態になった
そんな荒れた京に守護職拝命について危険な任を引き受けるのは薪を背負って火中に飛び込むようなものだと、反対もあったが、松平容保は受け入れ、文久2年(1862)閏8月京都守護職を任じられた。
江戸を出発した一行は、24日京に入り、三条大橋で町奉行に出迎えられる。 容保は本禅寺で旅装を解き、礼服(麻裃)に改め、大勢の藩士を従え東山の山裾金戒光明寺に入った。 この行列を見ようと集まった京の町衆は蹴上(けあげ)黒谷まで、両側びっし りと隙間なく並び馬上の容保を見上げる行列は一里を超えたと言われている 約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できた。 ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。 この現状を何とかしたいと京の治安維持に会津藩主松平容保以下正規兵1000名が京の町衆の期待感をこもった熱い 眼差しを浴びながら、黒谷に入った。

◇新選組の活躍

文久3年2月後を追うように、江戸で集められた清川八郎率いる浪士組が京に入ったが、朝廷の為に働くと生麦事件で 政情不安な江戸に戻ってしまう。これに意を唱える一部残った近藤・芹沢等は黒谷で京都守護職松平容保に拝謁 (はいえつ)がかなった。 『新選組』の命名とともに、京都守護職の命により、市中取締に当たる。 都大路を縦横無尽に走り廻り、治安は回復した。この間、新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝 達が毎日のように行われ連携を取りながら、必死になって幕府を 支える。 「池田屋事件」など倒幕の志士を襲撃捕縛に成功する新選組が評価される。時代の経過と共にでのなどで個別の 戦いの時代から「禁門の変」など組織的戦いに、本格的な砲撃の戦いの時代に  変わっていく

◇黒谷 金戒光明寺の山門

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山門は室町時代の応仁元年(1467)に始まり10年続いた「応仁の乱」で消失しており、時代を越えて歴史の檜舞台として輝いていたのである。大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
山門は万延元年(1860)再建され、類まれな勇壮壮大に構えている。京都守護職として会津藩主松平容保は大勢の藩士を従え、この門を潜ったのである。
山門の正面には後小松天皇の筆による「浄土真宗最初門」と勅額が掲げられている。天井に「幡龍図」が見事な絵姿で出迎えてくれる。
会津藩士たちは山門に登り、欄干から市街の様子を俯瞰し、見張り、物見櫓(やぐら)の役割を果たしていた。

◇会津藩殉難者墓地

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本堂の前を東へ、三重塔に向かって石段を登る。緩やかな山の斜面に石畳を歩く、周りは総て墓地である。
頂上の塔から左へ、つまり北へ墓石の間の道を行くと、その外れ、隣の真如寺との境に会津墓地がある。
案内の掲示の参道に誘導され「会津墓地」に到着する。参道は高さ1m程の土塀に囲まれ、「会津墓地」の表記された門柱の階段に道が繋がる。
山上墓地北東には約300坪の敷地に『会津藩殉難者墓地』が有り、文久2年~慶応3年の5年間に亡くなられた237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。
禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ22霊祀られている。
会津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間など戦死、戦病死するものが続出した。そこで本陣の金戒光明寺の山上に墓地が整備され葬られた。
会津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。

◇慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者碑

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鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。6段になって115人の戦死者の名 前が刻まれているが、碑が経年経過で、斑文が生まれ、読み辛くなっている。
大砲奉行兼軍事奉行 林権助63歳、息子、林又三郎40歳など殆どが1月3日~5日にかけて鳥羽、伏見、淀で戦死、所属を見るとその殆どが大砲に名がつく隊に所属しており、激しい砲撃戦に散っている。
(林権助親子の壮烈な死)
林権助は会津出身の外交官でひげの名物砲兵隊長の祖父の名を継いでおり、父又三郎の最期を以下のように語っている。
40歳の又三郎は明治元年(1868)1月3日伏見戦争の始まった時に京都に着いた。又三郎の父は大砲方であったがその日重傷を負っているという騒ぎで、父を見舞いに行っている。それも一目ただ会っただけで直ぐ別れてしまい、戦線に向かう。
京都の南方の淀で伏見の戦争の名残で、ちょっとした合戦があった。傲慢の又三郎には屈辱的に響いたのであろう、そこに一人踏み留り敵軍の中へ飛び込み父親の後を追うように翌々日の5日に戦死している。
又三郎の死骸も何も判らず父と同時に壮烈な戦死であった。

◇小鉄
会津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 会津小鉄」の墓がある。
小鉄は大阪出身で本名上阪(こうさか)仙吉という。
元々約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できる宿舎や守護職官邸の設営は大垣屋清八とその子分である小鉄が担った。
鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ旧幕府軍の戦死者の遺体が放置され広範囲に散乱した。小鉄は子分二百余名を動員し、官軍の命令を無視し、遺体の探索、収容に務め、荼毘に付し回向供養した。当然、官軍が阻止に入ったが、迫害も恐れず道路工事とうそぶいて、これを進めた。
維新後も京を拠点に、滋賀、大阪、神戸など関西地区の子分を抱え、賭場から莫大な上納金を得た。京で豪邸を建て、派手な暮らし振りであったが明治16年逮捕され禁固1カ月の刑となった。明治17年満期釈放後、京の丸山の祝宴には7500人が参集したと言われている。任侠の世界に身を置きながらも小鉄フアンが多かった。 

1000名余り武士集団も駐屯配備されも京を護る砦でもあったが、戊辰役で大量な戦死者も生まれ霊を祀る墓地になってしまった。
見通しの良い高台から市街地を俯瞰し、通りすぎた歴史の中で散っていった大勢の戦士たちの姿を思い浮かべてみた。

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