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浦賀紀行、西浦賀へ向かう

◇大衆帰本塚の碑

Uragaa23屯営地跡の道路を挟んで向かい側の警察所の脇に大衆帰本塚の碑がある。
元治元年(1864)に建てられ、篆額は紀州の医師で国学者大畑春国が書いた。

碑文は流暢な平安擬古文(平安時代の和歌・仮名文を模範として雅文(がぶん)体で書いた文章)浦賀奉行与力の中島三郎助の筆跡が刻まれている。
本文の要旨はこの周辺の昔の様子はのどかな湿地帯であったが、開発の波が押し寄せてきた。この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養し、此処で命を 落した先人たちの思いを忘れぬよう、伝えるもの。
浦賀の人々が先人を敬う、気風も供え、筆跡に刻まれる素地を持つ、中島三郎助の姿を表した記念碑である。
大衆帰本とは仏教用語から解釈すると、生きとし生けるものが、本来あるべきものに戻ると読解けるのだそうである。

◇浦賀コミュニティセンター分館(浦賀文化センター)

浦賀警察から更に歩を進めると進行方向右側の高台に浦賀センターがある。ペリー来航に関わる黒船や応接した奉行所はじめ浦賀を支えた回船問屋、浦賀を代表する悲憤のヒーロ中島三郎助など、模型・パノラマ・写真などで紹介されここでしっかりと、浦賀を学習でき、史跡巡りの案内役を果たしている。
<中島三郎助>

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文政4年(1821)浦賀奉行所与力・中島清司の長男として浦賀に誕生する。天然理心流・剣術目録、北辰一刀流・剣術目録など武士として剣術・槍術を備え、砲術に関しても諸流派の免許皆伝、更に大筒鋳造、砲台建設に至るまで、専門技術も備えたスペシャリストであった。
<造船・操船の第一人者>
天保6年(1835)、14歳で浦賀奉行所の与力見習いで出仕。天保8年、当日の三郎助は観音崎台場で勤務、砲撃に参加していないが、奉行所は開国と通商を求めるアメリカの商船モリソン号を平根山から砲撃し退去させる。三郎助は当時日本で数少ない砲術のエキスパートとして評価されている。異国船の打払令は衝撃的事実として、内外に伝わり、幕府は報復を恐れ廃止し、水・薪で穏便に帰って貰うことになった。
三郎助は浦賀奉行の命令で台場に据える大砲を製作し、異国船に供え奉行所の技術担当官吏と評価される。

                        <サナハスケ号>

Image嘉永6年(1853年)ペリー来航のおり浦賀賀奉行所の応接掛を勤めたが、米国から相応の地位の役人の応対を求められ、架空の副奉行と偽り、応対した。黒船には最初に乗った人物としてサスケハナ号に乗艦し、艦内を観察し、戦艦の知識や情報を得た。
応接掛の職を解かれ、日本最初の洋式帆船、鳳凰丸の建造に専念し、嘉永7年に完成させ、艦の副将に任命される。
建造の傍ら台場の青銅製大砲の鋳造修理も行い一奉行所の与力でありながら、造船技術者、海防問題の第一人者として著名になる。
寛永7年(1854)幕命によって日本最初の洋式帆船「鳳凰丸」の建造の主任技師として腕を振るった。安政2年(1855)三郎助は勝海舟・榎本武揚等と共に、長崎の海軍伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸海軍操錬所教授方として後進の指導にあたった。
浦賀にドックを作り、咸臨丸の修理など海国日本の造船・操船の第一人者、礎を築いた先駆者である。

<戊辰役で幕府に捧げる>
大政奉還して幕府崩壊し与力・同心も解散するなか、幕臣として主家徳川に殉ぜんと決意し、長男恒太郎(22歳)と次男英次郎(19歳)ら連れと榎本武揚と共に江戸を脱出する。

函館五稜郭に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に千代ケ岡に散下した。明治2年(1869)5月16日 49歳「ほととぎす、われ血を吐思い哉かなと言う辞世の句を残した

◇愛宕山公園

文化センターから、外海に向かって更に歩を進めると渡し船の船つき場を過ぎて間もなく、愛宕山公園がある。
明治24年開園で市内で一番古い公園で、かなり風化している。
石段を登って行くと、生い茂った樹木の間から浦賀港と停泊する船舶の群れが間近に見えて来る。

<中島三郎助招魂碑>
三郎助は、勝海舟らと共に長崎の海軍伝習所へ派遣され海軍士官としての修業と造船技術を身につけ、海国日本の基礎を築き揚げた。新政府に逆らった三郎助らは慰霊することができなかったが、明治24年これが解け碑を作った。
榎本武揚や中央気象台長の荒井郁之助らの発案で三郎助のやり残した一つが造船を浦賀でやることになった。
こうして誕生したのが浦賀ドックであった。
此処は浦賀港を一望に見渡せる愛宕山山頂の適地であり、母卿の地を思い舟を愛す三郎助を追慕する浦賀の人々の鎮魂の碑でもある。
招魂碑の向かい側には浦賀港越しの高台に彼の墓が対座するように建ち、入り江を挟む用に東西からこの港を見守っている。
しかし、そのドックも閉鎖され、迎える船も無く、かっての活気を帯びた時代を伝える象徴的なタワーとして虚しく立っている。

     <閉鎖された浦賀ドックの姿を留める>Img_6376

<咸臨丸出航の碑>

            <公園内にある碑>Image1


日米修好通商条約の締結100年を記念して昭和35年(1960)に建てられた咸臨丸出航の碑もある。木の葉の様な舟に乗り、異国の地に驚きと感動を読んだ咸臨丸に乗船した、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らの名が裏側に連ねている。

◇西叶神社

西浦賀の鎮守さま。本来は叶神社が正式名称であるが、東にも叶神社があるため、識別のため西叶神社の呼称が使われている。新年の言い伝え、東で袋を貰い、西で勾玉を貰い、袋に入れると願いが叶う恋愛関係が成就する。
社殿の下にある銅製の灯篭は浦賀の遊廓によって寄進され「ほしか」で繁栄した浦賀 に人が集まり、金も落ちた。

<「ええじゃな いか」>

Images2lq1mjxb叶神社境内の一角に大きな石の井戸がある。幕末にこの井戸の前に畳表、麻、砂糖、など万を扱う商い「潮幡屋」があった。慶応3年(1867)「潮幡屋」の砂糖樽の中から、一枚の大神宮の御札が出てきた。

当時、不景気にあった「潮幡屋」が閉店に追い込まれる時に「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が 広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。
「これぞ、商売繁盛の吉報なり」と大喜び、これが浦賀の「ええじゃな いか」と言われる民衆運動の始まりとなる。
全国版で広まったが 近畿、四国、東海地方などで発生した騒動の目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説もある
 

◇未だ残す廻船問屋

船番所は浦賀奉行所の出先機関で与力、同心が常駐、江戸へ出入りする荷物と乗組員の検査を行っていた。この業務は三方問屋と言われ下田・東西浦賀で100軒余り委託され実務を担当していた。問屋衆は「船改め」を行う時は足軽役になり苗字を許された。
荷物の検査は米・塩・酒・油・醤油・味噌・薪・炭・綿・木綿など11品目を念入りに行われ  3カ月に一度江戸へ報告する義務があった。徴集した銭は篝屋(灯台の前身)の薪代と廻船問屋の収入になった。
問屋を営みながら、自分の廻船で瀬戸内海や東北まで商いをしていた者もおり、店舗を構え蔵が並び一大問屋街でもあった。
                      <その姿を留める廻船問屋>

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幕末期に所有する廻船も60隻を数えた。写真の宮井家も問屋の最も古い一軒であった。
階の出窓には少し短めの格子が等間隔に並べられ、上部に空間が生まれている。海野格子のような美しい格子 模様が、往時の廻船問屋の繁栄した姿が家屋の中に見受けられる。
一階の店舗軒下には大きな櫓が飾られ廻船問屋の歴史の姿が今日にも伝えている。
路地脇に現代では大変珍しい防火用水槽が家の近くに置かれていた。水槽の正面に「日高屋」の名前がしっかり読み取れた。恐らくこれも廻船問屋。町のそこそこに問屋街の往時の姿が伝えている。

愛宕山から降りて、海岸線から離れ、山側に向かう。
風雲急を告げる黒船の来航に沸いた浦賀で外国船の窓口となった奉行所も、今は石垣しか残っていない。僅かな痕跡を確かめ東西浦賀を結ぶ渡船場に辿り着く。
西浦賀は此処で終了。渡船で東浦賀へ

浦賀紀行、東浦賀へ向かう

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浦賀紀行、東浦賀へ向かう

◇渡船を渡り東側へ上陸

東西浦賀を結ぶ渡船は現代でも貴重な運搬役を、果たし浦賀には欠かせない貴重な足となり、浦賀のシンボルである。東浦賀への出発点は西浦賀からの繋がりから、この渡船からとする。

◇徳田屋跡

         <徳田跡、碑で案内>Uragaa71
船着場の直ぐ近くに徳田屋跡がある。浦賀は宿場でないため、船乗り以外は宿泊は原則禁止であった。
黒船来航で脚光を浴び、浦賀への来行が増え、幕府の許可を得て旅籠が誕生した。
文化3年(1811)東浦賀に3軒の旅籠が許可され、中でも徳田屋は草分け的な存在で江戸時代から明治・大正まで続いた浦賀を代表する割烹旅館である。多くの武士や文化人が宿泊し、吉田松陰や佐久間象山、始め桂小五郎なども利用している。

<黒船前に松陰・象山熱く語る>
黒船来航にいち早く神田お玉ケ池(岩本町二丁目)の「象山書院」からいち早く駆けつけた象山と、その象山を師と仰ぎ後からやってきた松陰とこの宿で落ち合い、日本の将来を熱く語り、翌日黒船を見に行く。
二人を師として仰ぐ若者達の、国家を動かす激動の渦もこんな所から生まれている

<幕府の厳重な監視下>
安政の大獄で尊皇攘夷の支持者100人以上を処分吉田松陰はじめ水戸藩は家老安島帯刀はじめ4名を斬首した。
万延元年(1860)、桜田門外の変で水戸藩士主体で井伊大老が殺害される。浦賀湾を控え回航ルートから水戸藩士の残党が立ち回る恐れがあり、どの旅籠も奉行所の役人が来て、宿泊人の厳重な取り調べを行うことになっていた。そんなお触れを前に宿泊人を出発させてしまい、奉行所から厳重な注意を受けた。更に徳田屋では番所の「船改め」を受けずに房総半島へ直行できる船便を持っていた。密やかに幕政にも背き自由な気風が底流にあった徳田屋だったのであろうか・・・
大正12年の関東大震災で倒壊し、今はその跡形もない。観音埼燈台も同地震で倒壊しており、地勢を一変している大きな地震であった。

◇顕正寺(けんじょうじ)

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船着場から浦賀駅側に行くと大きい道を渡ると乗誓寺、海側に顕正寺がある。

時期は異なるが同じ咸臨丸の操船に従事した二人の有能な技術者が、同じ墓域に眠る。光と影を持つ咸臨丸の運命に片や維新前の不慮の戦いに没し、一方は維新以降も海運界に生きた、二人の対照的な生涯がある。

<咸臨丸犠牲者、春山弁蔵の墓>

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元浦賀奉行所同心である春山弁蔵は日本初の蒸気軍艦、千代田、洋式軍艦鳳凰丸など設計に従事した有能な技術者であるが、咸臨丸副長として乗船し犠牲になった一人である。
◇ああ~悲惨咸臨丸
咸臨丸は酷使して故障が頻発する蒸気機関を取り外され、ただの3本マストの「運送船」に格下げされる。
自力走行出来ない、咸臨丸は回転丸に引かれ、榎本武揚らに率いられる幕府艦隊の船として江戸を脱出して蝦夷に向かった。
外洋で海が荒れ、回転丸との綱が切れ咸臨丸は相模湾に漂う、一帆船になってしまい駿州 清水港に吹き寄せられる。清水港に入った咸臨丸は修理のために大小の銃砲、器機等は陸揚げした。
新政府軍は清水港に停泊している咸臨丸に追討の軍艦を差し向け、戦いを挑み、白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、無抵抗な乗組員を次々に惨殺する。非道な扱いに36の遺体が清水港に浮き、新政府軍に弓を引いた賊であるとして後難を恐れ遺体は海上に放置されたままで何日も港に浮いていた。
次郎長は「死ねば仏。仏には官軍も徳川もない」と小舟を出し、子分を動員して遺体を集め、向島の砂丘に葬った。静岡の清水に咸臨丸の乗組員「壮士の墓」は市の文化財にもなり有名であるが、悲憤の仲間が此処にも居るのである。

<岡田井蔵(せいぞう)の墓>

Uragaa7a02岡田井蔵は浦賀奉行所与力増太郎の実弟で、16歳で幕府学問所「昌平覺」に入学して漢学を学ぶ。勝海舟らと長崎海軍伝習所で機関学を学び、江戸に戻り軍艦操練所で教授方手伝出役で幕府海軍の人材養成に当たる。
咸臨丸で機関方青年士官として乗艦、連日の荒天の中サンフランシスコに到着するなど米国へ渡った一人である。
帰国後長陽丸の機関士となり、伊豆、小笠原諸島の調査・開拓に従事更に徳川家茂上洛の警護などに当たる。
明治維新後は、横須賀製鉄所の海軍一等師として、軍艦の設計など手がけ、軍艦盤城、海門などの諸艦建造に尽力、技士として海軍造船界に大いに貢献した。惜しまれて退職し、明治37年(1904)横浜市青木町で没する。
享年68歳であった。
岡田井蔵は近代日本の幕開けの地浦賀から出て、幕府海軍の創立に身を投じ、咸臨丸の偉業に参加、さらには海軍造船界で活躍する海の先駆者となる。
海運に身を投じ、維新を前に悲憤に消えた春山に対し、岡田は維新を越え穏やかな形で生涯を閉じている。

◇東林寺
今回の歴史散策の東浦賀町のメインは此処、東林寺である。通りからご覧のような石畳にせりたつ高台に所にお寺がある。この石段を登り、正面のお寺でお参りした後、左手の墓石群に向かう。

<中島三郎助親子の墓>

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中島家の墓が寺の左てにある。
その一角の右手前が三郎助、その並びに次男英次郎、三郎助の向かい側に長男の恒太郎が仲良く並んでいる。
一番奥の植え込みの向こう側は浦賀港であり、海に近い眺めの良い所にある中島三郎助は浦賀奉行所の一与力の身分であるが、黒船来航の折、最初に乗り込み、応接掛かりの任を果たす。
持って生まれた才覚から、見識を深め技術者として海国日本造船・操船の第一人者として礎を築いた。
慶応4年(1868)大政奉還して幕府崩壊し、浦賀奉行も廃止されるなか、新しい時代を迎え、色々選択もある中、主家徳川氏に殉ぜんと決意、函館まで白兵戦を挑み、二人の子供までも連れ添い散っていった。
中島の遺志を継いで、浦賀ドックまで生まれ、その技術は造船として華やいだが、100年 以上の培われた技術はドッグ操業停止ともに幕引きされた。
<文人としての才覚>
文人として和漢の学に造詣が深く、和歌、俳諧、漢詩などをたしなみ、俳人として「中島木鶏」の名で浦賀はおろか江戸市中までその名は広がった。低迷混乱の世にあって国事に忙殺されながらも、時に詩を吟じ、折にふれ俳諧に想いを託すなど、その遺詠の数々は当時の彼の心境を余すところなく今に伝えている。

◇東叶(かのう)神社

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東浦賀コース寺社巡りもとうとう一番縁に来た。外海にせりたち緑濃い明神山と言われる神社の裏山一帯が歴史文化を背負い色々の史跡がある。
神社の社殿は石段を上がった所にあり、更に左側にある階段を登って行くと本殿がある。尚、登って行くと鬱蒼とした木々に包まれた山の中に色々な史跡に巡りあえる。このせりたつ自然の要塞は戦国時代の小田原・北条氏の水軍の砦跡で浦賀城と呼ばれ、対岸は房総半島と江戸につながる水路を俯瞰出来る。
北条氏は対岸の房州・里見氏に警戒の目を光らせていた。
<急階段を登る>
急勾配、長い階段に、皆息を切らし拝殿背後の急階段で明神山へ登る。ちょっと階段を踏み外したら忽ち、  奈落の其処へ、階段中央の手すりが唯一の安全ガードに縋りながら、一歩一歩確かめるように、登る。
<勝海舟断食の碑>
頂上の東照宮の隣に勝海舟断食の碑がある。咸臨丸の艦長格である勝海舟は航海前に此処で断食したと言われる。
過酷な冬の太平洋を始めて航海するに当たって、舟玉明神を祀る叶神社に航海の安全祈願をした。

勝海舟はこの東照宮脇で修業用の法衣で身を包み
座禅を組み、断食修行をおこなった。若干黄ばんでいるが、しっかりした修業用の法衣は現在、東浦賀叶神社に奉納されている。今回特別に見せて貰った。
渡航に関して長崎以来の同期生であった中島三郎助から咸臨丸の航洋性能や艦齢からみた船体強度の問題など情報を得ている。そうした懸念と一方では航行には大変弱く航海中は病人同様で船室からほとんどでなかったと言われている。
黒船に脅かされて7年、舟将と命じられ未知の世界に行く事への不安から決死の覚悟での渡航を物語っている。

◇旅の軌跡を追うがごとく

     <正面の凸地が平根山、その先が燈明堂、手前が浦賀港>Uragaa96
明神山の山頂に立つと今まで歩いて来た場所がパノラマのように見えて来る。遥かか彼方に目を転じると房総の山々が薄ぼんやりと見えてくる。三浦半島と房総半島に挟まれた海域に白波を立て航行する船が無数に散りばめられる、美しい情景である。

手前に目を転じると平根山の向こうがペリー来航の久里浜である。トンネルを潜って、海岸沿いに歩いた燈明堂の浜がくっきりと見える。モリソン号を砲撃した平根山のお台場も目の前である。その燈明堂から海岸伝いを通り愛宕山を経て、西浦賀町に繋がる。。
松陰や象山など彼等が見た鮮烈な黒船を見ながらの軌跡を辿りながら、幕末の雰囲気をタップリ味わった。

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横浜、野毛に見る「開港の足跡」

徳川太平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に幕府に開港を迫った。鎖国か開国か二分する意見に国内が騒然とする中、力の弱まった幕府は国論を統一する力を失っていた。
安政6年(1889)、これまで門戸を閉ざされていた日本が欧米各国と結ばれた修好通商条約で開港地として横浜を選び新しい時代を迎える。
国内の反対を押し切って、開港を押し進めたのは彦根藩の井伊掃部直弼であったが尊皇攘夷の過激派浪士により、討たれる。
その井伊が開港の功績者の一人として、銅像が同地に建っている。
開港当時、外国人要人に対する襲撃テロの多発する中で、居留民保護のため大量の外国人部隊が駐屯した。こうしたテロリストの取締や防衛上の要となる、神奈川奉行所など、横浜の野毛は幕末史を飾る史跡や開港に関わる人物の像や碑など、多数残される。
文明開化で光を浴び、今尚、観光地として人気の港横浜の影で、開港を支えた史跡を追って見る。

神奈川奉行所跡

JR桜木町駅から国道16号沿いを東に向かい、山側方面、もみじ坂を登ると、神奈川奉行所跡の碑に到着する。Kanagawa30403安政6年(1859)横浜開港時江戸幕府の神奈川奉行所が行われたところ。
東海道と居留地間に位置し、防衛上の要であった。周辺には役宅、役人子弟のための学校として修文館、処刑場なども建てられた。処刑場はこの奉行所の背後のくらやみ坂に明治の初めごろまであった。
神奈川奉行所は政治、警察、裁判を司る戸部役所と税関をに当たる運上所に分かれていたが後に運上所は居留地に移った。
明治元年(1868)明治政府は新たに横浜裁判所を置き、後に神奈川裁判所に改め。横浜裁判所・戸部裁判所とし運上所ならびに戸部役所の業務を引き継ぎ神奈川奉行所は廃止された。その後神奈川県庁になった。現在は県の文化センター、図書館、音楽堂などがある。
◇外国人殺傷事件に揺れた奉行所
幕末期、吹き荒れる攘夷の嵐の中での対外国との折衝窓口として、更に外国人居留地を置かれた場所として治安維持などの役割を担った のが神奈川奉行所であった。
幕末を揺るがした生麦事件では惨劇を知った横浜居留地は騒然とし、激昂した居留民が報復を叫び、一触触発状態であったが、イギリス代理行使はこれを抑えて幕府に対する外交折衝で解決を図ることにした。
事の重大さを知った神奈川奉行所阿部正外(まさと)は事件の当事者である薩摩藩の島津久光に下手人の引き渡しや、行列の継続を制止したが、見透かすように全く聞き入れずにそのまま東海道を西下してしまった。幕府の出先機関である神奈川奉行所はイギリスと薩州藩に挟まれ既に雄藩をコントロールする実力を失っていた。
その2年後に鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。

井伊直弼像
奉行所跡付近の図書館、音楽堂の建物沿い背後に向かうと掃部山公園に出る。公園の中央に巨大な井伊直弼像が横浜港を見下ろしている。

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◇2度の首落とし
井伊直弼掃部の開港功績を記念して銅像を建立するため、旧彦根藩の有志が買い取り明治42年(1909)に、掃部山公園と名付けた。
土地は明治5年横浜~新橋間に鉄道が敷かれたおりの機関車用の水池があった鉄道山とも言われた丘であった。
井伊直弼は、横浜開港の功績者の一人でもあったが、銅像建立に当たり新政府、旧幕府の歴史の深い溝は埋まっておらず、除幕に事件が発生した。当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではないが藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてしまうが、幕府の開国政策には反対していた。
井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、こうした因縁から銅像建立は許しがたかった。周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、旧彦根藩士らは除幕式を強行したが、数日後には銅像の首が切り落されてしまい、井伊は桜田門からここ野毛で2度も首を撥ねられてしまった。安政の大獄の恨みは消されず、長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっておらず、歴史は引きずっていたのである。
銅像は昭和18年戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年開国100年の記念に再建された。まさに受難の歴史を背負った銅像なのである。その姿は正四位上左近衛権中将の正装でその重量は4トンと言われ、公園は春は花見で賑わい、夏には虫の音を聞く茶会が催される。

□野毛の切り通し
掃部山の南側の沿いの高台から下に「よこはま道(現在の戸部通り)」に出る。

Kanagawa30602
幕府は修好通商条約履行のため行政機関である神奈川奉行所を置き英、米 、仏、蘭に公使館の借り住まいとして小寺を割り当てた。  
 一方では横浜村に運上所(税関)など 貿易の諸施設を作った。このため、貿易商人は横浜村に住み、彼らを保護する公館は神奈川にありしかも、保土ヶ谷宿から開港所への道は遠回りで不便であった。このため、居留民は不満が爆発、各国使節が幕府にねじ込んだ。この結果、東海道の芝生村(現浅間町交差点付近)と居留地の間に幅3間(5.4m)の
「よこはま道」を作った。
立地面から道路構築を阻み、戸部坂、野毛の切り通しを開き、工期3ヶ月の突貫工事で完成した。
開港当時、東海道から横浜を目指した人々が文明開化の横浜の景色を最初に見ることができたのはこ の切り通しからであった。生糸の輸送や開港の地に商売のための商人達がったよこはま道は新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。

野毛山軍陣病院跡(官軍病院)
野毛の切り通しの壁面沿いによこはま道から坂道を登り野毛公園方面に向かうと、老松中学校に出る。
周辺は関東大震災で崩壊したが、老松中学校が、かって、横浜軍陣病院のあった所である。

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◇病院開設の背景
慶応3年(1867)に行われた大政奉還によって慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年(1869)5月18日の五稜郭の戦いまで討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争が起きた。
鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利を納め、錦の御旗を背景に東征軍として東に戦いの舞台を移し、上野戦争、宇都宮戦争、更に会津若松へと戦線は東へ拡大していった。
この戦いによって、両軍、数多くの死者・負傷者が出ており、その手当てが必要となり、官軍側は時の東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王命で慶応4年4月17日、野毛町林光寺下の修文館に、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
刀剣から銃による近代戦に搬送される負傷者は、銃弾が高速で人体を侵襲するだけでなく火薬,ガス等も 関与し独特な成傷銃創(じゅうそう)が多く、 当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であった。
このため、駐日イギリス公使館の医師ウィリアムウイルスは外科病院の責任担当者として赴任し、負傷者の治療にあたった。治療成果はめざましく、その外科技術は日本側の医師団にも伝わり、医学の伝承の橋渡し役としても貢献された。
薩摩藩士で江戸攪乱工作、江戸開城交渉では幕府側で支援、上野戦争で戦死など数奇な運命の益満休の助も此処で入院後亡くなっている。

□横浜開港の先覚者佐久間象山之碑
野毛山公園の一番高い台地に横浜開港の先覚者佐久間象山の碑が昭和29年、開国100年を記念して建てられた。
佐久間象山はペリー来航の一度目は浦賀、二度目は横浜に出張、応接所警衛に当たった。ぺりー一行とは観察や会話を交わしている。
当時、清国の阿片戦争など列強の侵略を背景に海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防 策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。
野毛山に建つ井伊大老像共併せ、横浜開港に関わる一人として佐久間象山があり、顕彰碑が建てられた。
不幸にも象山はその後京都に遊説中攘夷派刺客の強靱により木屋町三条で客死した。 
国防の近代化を痛感し、幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなかった。
そのうちに黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。
「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
威嚇を前に、ようやく幕府も目覚め洋式軍備による海防策を論じるようになった。

吉田橋
野毛坂をおりてよこはま道を一路、吉田橋に向かう。横浜の中心街の一つとして、伊勢佐木町とJR関内や馬車道方面を結ぶ橋で車とも併せ、人通りの激しい場所である。
吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。
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安政6年(1859)の開港当時、木の橋がかけられた。
橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
幕府は神奈川宿からこの関内まで関所・番所それぞれ10数カ所設けて警戒した。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。
相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。
攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである
居留地と外部をむすぶ接点が此処「吉田橋」で交通の要路として武士、町人が絶えず行き交う、人並みが絶えなかった。

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