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横浜、野毛に見る「開港の足跡」

徳川太平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に幕府に開港を迫った。鎖国か開国か二分する意見に国内が騒然とする中、力の弱まった幕府は国論を統一する力を失っていた。
安政6年(1889)、これまで門戸を閉ざされていた日本が欧米各国と結ばれた修好通商条約で開港地として横浜を選び新しい時代を迎える。
国内の反対を押し切って、開港を押し進めたのは彦根藩の井伊掃部直弼であったが尊皇攘夷の過激派浪士により、討たれる。
その井伊が開港の功績者の一人として、銅像が同地に建っている。
開港当時、外国人要人に対する襲撃テロの多発する中で、居留民保護のため大量の外国人部隊が駐屯した。こうしたテロリストの取締や防衛上の要となる、神奈川奉行所など、横浜の野毛は幕末史を飾る史跡や開港に関わる人物の像や碑など、多数残される。
文明開化で光を浴び、今尚、観光地として人気の港横浜の影で、開港を支えた史跡を追って見る。

神奈川奉行所跡

JR桜木町駅から国道16号沿いを東に向かい、山側方面、もみじ坂を登ると、神奈川奉行所跡の碑に到着する。Kanagawa30403安政6年(1859)横浜開港時江戸幕府の神奈川奉行所が行われたところ。
東海道と居留地間に位置し、防衛上の要であった。周辺には役宅、役人子弟のための学校として修文館、処刑場なども建てられた。処刑場はこの奉行所の背後のくらやみ坂に明治の初めごろまであった。
神奈川奉行所は政治、警察、裁判を司る戸部役所と税関をに当たる運上所に分かれていたが後に運上所は居留地に移った。
明治元年(1868)明治政府は新たに横浜裁判所を置き、後に神奈川裁判所に改め。横浜裁判所・戸部裁判所とし運上所ならびに戸部役所の業務を引き継ぎ神奈川奉行所は廃止された。その後神奈川県庁になった。現在は県の文化センター、図書館、音楽堂などがある。
◇外国人殺傷事件に揺れた奉行所
幕末期、吹き荒れる攘夷の嵐の中での対外国との折衝窓口として、更に外国人居留地を置かれた場所として治安維持などの役割を担った のが神奈川奉行所であった。
幕末を揺るがした生麦事件では惨劇を知った横浜居留地は騒然とし、激昂した居留民が報復を叫び、一触触発状態であったが、イギリス代理行使はこれを抑えて幕府に対する外交折衝で解決を図ることにした。
事の重大さを知った神奈川奉行所阿部正外(まさと)は事件の当事者である薩摩藩の島津久光に下手人の引き渡しや、行列の継続を制止したが、見透かすように全く聞き入れずにそのまま東海道を西下してしまった。幕府の出先機関である神奈川奉行所はイギリスと薩州藩に挟まれ既に雄藩をコントロールする実力を失っていた。
その2年後に鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。

井伊直弼像
奉行所跡付近の図書館、音楽堂の建物沿い背後に向かうと掃部山公園に出る。公園の中央に巨大な井伊直弼像が横浜港を見下ろしている。

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◇2度の首落とし
井伊直弼掃部の開港功績を記念して銅像を建立するため、旧彦根藩の有志が買い取り明治42年(1909)に、掃部山公園と名付けた。
土地は明治5年横浜~新橋間に鉄道が敷かれたおりの機関車用の水池があった鉄道山とも言われた丘であった。
井伊直弼は、横浜開港の功績者の一人でもあったが、銅像建立に当たり新政府、旧幕府の歴史の深い溝は埋まっておらず、除幕に事件が発生した。当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではないが藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてしまうが、幕府の開国政策には反対していた。
井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、こうした因縁から銅像建立は許しがたかった。周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、旧彦根藩士らは除幕式を強行したが、数日後には銅像の首が切り落されてしまい、井伊は桜田門からここ野毛で2度も首を撥ねられてしまった。安政の大獄の恨みは消されず、長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっておらず、歴史は引きずっていたのである。
銅像は昭和18年戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年開国100年の記念に再建された。まさに受難の歴史を背負った銅像なのである。その姿は正四位上左近衛権中将の正装でその重量は4トンと言われ、公園は春は花見で賑わい、夏には虫の音を聞く茶会が催される。

□野毛の切り通し
掃部山の南側の沿いの高台から下に「よこはま道(現在の戸部通り)」に出る。

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幕府は修好通商条約履行のため行政機関である神奈川奉行所を置き英、米 、仏、蘭に公使館の借り住まいとして小寺を割り当てた。  
 一方では横浜村に運上所(税関)など 貿易の諸施設を作った。このため、貿易商人は横浜村に住み、彼らを保護する公館は神奈川にありしかも、保土ヶ谷宿から開港所への道は遠回りで不便であった。このため、居留民は不満が爆発、各国使節が幕府にねじ込んだ。この結果、東海道の芝生村(現浅間町交差点付近)と居留地の間に幅3間(5.4m)の
「よこはま道」を作った。
立地面から道路構築を阻み、戸部坂、野毛の切り通しを開き、工期3ヶ月の突貫工事で完成した。
開港当時、東海道から横浜を目指した人々が文明開化の横浜の景色を最初に見ることができたのはこ の切り通しからであった。生糸の輸送や開港の地に商売のための商人達がったよこはま道は新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。

野毛山軍陣病院跡(官軍病院)
野毛の切り通しの壁面沿いによこはま道から坂道を登り野毛公園方面に向かうと、老松中学校に出る。
周辺は関東大震災で崩壊したが、老松中学校が、かって、横浜軍陣病院のあった所である。

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◇病院開設の背景
慶応3年(1867)に行われた大政奉還によって慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年(1869)5月18日の五稜郭の戦いまで討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争が起きた。
鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利を納め、錦の御旗を背景に東征軍として東に戦いの舞台を移し、上野戦争、宇都宮戦争、更に会津若松へと戦線は東へ拡大していった。
この戦いによって、両軍、数多くの死者・負傷者が出ており、その手当てが必要となり、官軍側は時の東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王命で慶応4年4月17日、野毛町林光寺下の修文館に、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
刀剣から銃による近代戦に搬送される負傷者は、銃弾が高速で人体を侵襲するだけでなく火薬,ガス等も 関与し独特な成傷銃創(じゅうそう)が多く、 当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であった。
このため、駐日イギリス公使館の医師ウィリアムウイルスは外科病院の責任担当者として赴任し、負傷者の治療にあたった。治療成果はめざましく、その外科技術は日本側の医師団にも伝わり、医学の伝承の橋渡し役としても貢献された。
薩摩藩士で江戸攪乱工作、江戸開城交渉では幕府側で支援、上野戦争で戦死など数奇な運命の益満休の助も此処で入院後亡くなっている。

□横浜開港の先覚者佐久間象山之碑
野毛山公園の一番高い台地に横浜開港の先覚者佐久間象山の碑が昭和29年、開国100年を記念して建てられた。
佐久間象山はペリー来航の一度目は浦賀、二度目は横浜に出張、応接所警衛に当たった。ぺりー一行とは観察や会話を交わしている。
当時、清国の阿片戦争など列強の侵略を背景に海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防 策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。
野毛山に建つ井伊大老像共併せ、横浜開港に関わる一人として佐久間象山があり、顕彰碑が建てられた。
不幸にも象山はその後京都に遊説中攘夷派刺客の強靱により木屋町三条で客死した。 
国防の近代化を痛感し、幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなかった。
そのうちに黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。
「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
威嚇を前に、ようやく幕府も目覚め洋式軍備による海防策を論じるようになった。

吉田橋
野毛坂をおりてよこはま道を一路、吉田橋に向かう。横浜の中心街の一つとして、伊勢佐木町とJR関内や馬車道方面を結ぶ橋で車とも併せ、人通りの激しい場所である。
吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。
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安政6年(1859)の開港当時、木の橋がかけられた。
橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
幕府は神奈川宿からこの関内まで関所・番所それぞれ10数カ所設けて警戒した。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。
相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。
攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである
居留地と外部をむすぶ接点が此処「吉田橋」で交通の要路として武士、町人が絶えず行き交う、人並みが絶えなかった。

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