« 横浜、野毛に見る「開港の足跡」 | トップページ | 浦賀紀行、西浦賀へ向かう »

浦賀紀行、東浦賀へ向かう

◇渡船を渡り東側へ上陸

東西浦賀を結ぶ渡船は現代でも貴重な運搬役を、果たし浦賀には欠かせない貴重な足となり、浦賀のシンボルである。東浦賀への出発点は西浦賀からの繋がりから、この渡船からとする。

◇徳田屋跡

         <徳田跡、碑で案内>Uragaa71
船着場の直ぐ近くに徳田屋跡がある。浦賀は宿場でないため、船乗り以外は宿泊は原則禁止であった。
黒船来航で脚光を浴び、浦賀への来行が増え、幕府の許可を得て旅籠が誕生した。
文化3年(1811)東浦賀に3軒の旅籠が許可され、中でも徳田屋は草分け的な存在で江戸時代から明治・大正まで続いた浦賀を代表する割烹旅館である。多くの武士や文化人が宿泊し、吉田松陰や佐久間象山、始め桂小五郎なども利用している。

<黒船前に松陰・象山熱く語る>
黒船来航にいち早く神田お玉ケ池(岩本町二丁目)の「象山書院」からいち早く駆けつけた象山と、その象山を師と仰ぎ後からやってきた松陰とこの宿で落ち合い、日本の将来を熱く語り、翌日黒船を見に行く。
二人を師として仰ぐ若者達の、国家を動かす激動の渦もこんな所から生まれている

<幕府の厳重な監視下>
安政の大獄で尊皇攘夷の支持者100人以上を処分吉田松陰はじめ水戸藩は家老安島帯刀はじめ4名を斬首した。
万延元年(1860)、桜田門外の変で水戸藩士主体で井伊大老が殺害される。浦賀湾を控え回航ルートから水戸藩士の残党が立ち回る恐れがあり、どの旅籠も奉行所の役人が来て、宿泊人の厳重な取り調べを行うことになっていた。そんなお触れを前に宿泊人を出発させてしまい、奉行所から厳重な注意を受けた。更に徳田屋では番所の「船改め」を受けずに房総半島へ直行できる船便を持っていた。密やかに幕政にも背き自由な気風が底流にあった徳田屋だったのであろうか・・・
大正12年の関東大震災で倒壊し、今はその跡形もない。観音埼燈台も同地震で倒壊しており、地勢を一変している大きな地震であった。

◇顕正寺(けんじょうじ)

Uragaa7a08
船着場から浦賀駅側に行くと大きい道を渡ると乗誓寺、海側に顕正寺がある。

時期は異なるが同じ咸臨丸の操船に従事した二人の有能な技術者が、同じ墓域に眠る。光と影を持つ咸臨丸の運命に片や維新前の不慮の戦いに没し、一方は維新以降も海運界に生きた、二人の対照的な生涯がある。

<咸臨丸犠牲者、春山弁蔵の墓>

Uragaa7a03
元浦賀奉行所同心である春山弁蔵は日本初の蒸気軍艦、千代田、洋式軍艦鳳凰丸など設計に従事した有能な技術者であるが、咸臨丸副長として乗船し犠牲になった一人である。
◇ああ~悲惨咸臨丸
咸臨丸は酷使して故障が頻発する蒸気機関を取り外され、ただの3本マストの「運送船」に格下げされる。
自力走行出来ない、咸臨丸は回転丸に引かれ、榎本武揚らに率いられる幕府艦隊の船として江戸を脱出して蝦夷に向かった。
外洋で海が荒れ、回転丸との綱が切れ咸臨丸は相模湾に漂う、一帆船になってしまい駿州 清水港に吹き寄せられる。清水港に入った咸臨丸は修理のために大小の銃砲、器機等は陸揚げした。
新政府軍は清水港に停泊している咸臨丸に追討の軍艦を差し向け、戦いを挑み、白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、無抵抗な乗組員を次々に惨殺する。非道な扱いに36の遺体が清水港に浮き、新政府軍に弓を引いた賊であるとして後難を恐れ遺体は海上に放置されたままで何日も港に浮いていた。
次郎長は「死ねば仏。仏には官軍も徳川もない」と小舟を出し、子分を動員して遺体を集め、向島の砂丘に葬った。静岡の清水に咸臨丸の乗組員「壮士の墓」は市の文化財にもなり有名であるが、悲憤の仲間が此処にも居るのである。

<岡田井蔵(せいぞう)の墓>

Uragaa7a02岡田井蔵は浦賀奉行所与力増太郎の実弟で、16歳で幕府学問所「昌平覺」に入学して漢学を学ぶ。勝海舟らと長崎海軍伝習所で機関学を学び、江戸に戻り軍艦操練所で教授方手伝出役で幕府海軍の人材養成に当たる。
咸臨丸で機関方青年士官として乗艦、連日の荒天の中サンフランシスコに到着するなど米国へ渡った一人である。
帰国後長陽丸の機関士となり、伊豆、小笠原諸島の調査・開拓に従事更に徳川家茂上洛の警護などに当たる。
明治維新後は、横須賀製鉄所の海軍一等師として、軍艦の設計など手がけ、軍艦盤城、海門などの諸艦建造に尽力、技士として海軍造船界に大いに貢献した。惜しまれて退職し、明治37年(1904)横浜市青木町で没する。
享年68歳であった。
岡田井蔵は近代日本の幕開けの地浦賀から出て、幕府海軍の創立に身を投じ、咸臨丸の偉業に参加、さらには海軍造船界で活躍する海の先駆者となる。
海運に身を投じ、維新を前に悲憤に消えた春山に対し、岡田は維新を越え穏やかな形で生涯を閉じている。

◇東林寺
今回の歴史散策の東浦賀町のメインは此処、東林寺である。通りからご覧のような石畳にせりたつ高台に所にお寺がある。この石段を登り、正面のお寺でお参りした後、左手の墓石群に向かう。

<中島三郎助親子の墓>

Uragaa85
中島家の墓が寺の左てにある。
その一角の右手前が三郎助、その並びに次男英次郎、三郎助の向かい側に長男の恒太郎が仲良く並んでいる。
一番奥の植え込みの向こう側は浦賀港であり、海に近い眺めの良い所にある中島三郎助は浦賀奉行所の一与力の身分であるが、黒船来航の折、最初に乗り込み、応接掛かりの任を果たす。
持って生まれた才覚から、見識を深め技術者として海国日本造船・操船の第一人者として礎を築いた。
慶応4年(1868)大政奉還して幕府崩壊し、浦賀奉行も廃止されるなか、新しい時代を迎え、色々選択もある中、主家徳川氏に殉ぜんと決意、函館まで白兵戦を挑み、二人の子供までも連れ添い散っていった。
中島の遺志を継いで、浦賀ドックまで生まれ、その技術は造船として華やいだが、100年 以上の培われた技術はドッグ操業停止ともに幕引きされた。
<文人としての才覚>
文人として和漢の学に造詣が深く、和歌、俳諧、漢詩などをたしなみ、俳人として「中島木鶏」の名で浦賀はおろか江戸市中までその名は広がった。低迷混乱の世にあって国事に忙殺されながらも、時に詩を吟じ、折にふれ俳諧に想いを託すなど、その遺詠の数々は当時の彼の心境を余すところなく今に伝えている。

◇東叶(かのう)神社

Uragaa91

東浦賀コース寺社巡りもとうとう一番縁に来た。外海にせりたち緑濃い明神山と言われる神社の裏山一帯が歴史文化を背負い色々の史跡がある。
神社の社殿は石段を上がった所にあり、更に左側にある階段を登って行くと本殿がある。尚、登って行くと鬱蒼とした木々に包まれた山の中に色々な史跡に巡りあえる。このせりたつ自然の要塞は戦国時代の小田原・北条氏の水軍の砦跡で浦賀城と呼ばれ、対岸は房総半島と江戸につながる水路を俯瞰出来る。
北条氏は対岸の房州・里見氏に警戒の目を光らせていた。
<急階段を登る>
急勾配、長い階段に、皆息を切らし拝殿背後の急階段で明神山へ登る。ちょっと階段を踏み外したら忽ち、  奈落の其処へ、階段中央の手すりが唯一の安全ガードに縋りながら、一歩一歩確かめるように、登る。
<勝海舟断食の碑>
頂上の東照宮の隣に勝海舟断食の碑がある。咸臨丸の艦長格である勝海舟は航海前に此処で断食したと言われる。
過酷な冬の太平洋を始めて航海するに当たって、舟玉明神を祀る叶神社に航海の安全祈願をした。

勝海舟はこの東照宮脇で修業用の法衣で身を包み
座禅を組み、断食修行をおこなった。若干黄ばんでいるが、しっかりした修業用の法衣は現在、東浦賀叶神社に奉納されている。今回特別に見せて貰った。
渡航に関して長崎以来の同期生であった中島三郎助から咸臨丸の航洋性能や艦齢からみた船体強度の問題など情報を得ている。そうした懸念と一方では航行には大変弱く航海中は病人同様で船室からほとんどでなかったと言われている。
黒船に脅かされて7年、舟将と命じられ未知の世界に行く事への不安から決死の覚悟での渡航を物語っている。

◇旅の軌跡を追うがごとく

     <正面の凸地が平根山、その先が燈明堂、手前が浦賀港>Uragaa96
明神山の山頂に立つと今まで歩いて来た場所がパノラマのように見えて来る。遥かか彼方に目を転じると房総の山々が薄ぼんやりと見えてくる。三浦半島と房総半島に挟まれた海域に白波を立て航行する船が無数に散りばめられる、美しい情景である。

手前に目を転じると平根山の向こうがペリー来航の久里浜である。トンネルを潜って、海岸沿いに歩いた燈明堂の浜がくっきりと見える。モリソン号を砲撃した平根山のお台場も目の前である。その燈明堂から海岸伝いを通り愛宕山を経て、西浦賀町に繋がる。。
松陰や象山など彼等が見た鮮烈な黒船を見ながらの軌跡を辿りながら、幕末の雰囲気をタップリ味わった。

|

« 横浜、野毛に見る「開港の足跡」 | トップページ | 浦賀紀行、西浦賀へ向かう »

14、横須賀」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/211410/60471561

この記事へのトラックバック一覧です: 浦賀紀行、東浦賀へ向かう:

« 横浜、野毛に見る「開港の足跡」 | トップページ | 浦賀紀行、西浦賀へ向かう »