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攘夷の渦の中「吉田橋」

Image_2伊勢佐木町のアーケードとJR館内駅の間の吉田橋があり、往復する人の出入の雑踏の中にある、
『あなた知ってる 港ヨコハマ
 街の並木に 潮風吹けば
 花散る夜を 惜しむよに
 伊勢佐木あたりに 灯りがともる
 恋と情けの 灯がともる』♪♪・・・♪ 泥臭い風情をこんな唄いまわしでハスキーな声の青江三奈が伊勢佐木町を謡っている。
その吉田橋が幕末の渦の渦中にあったのである。

□現在の吉田橋
野毛坂をおりてよこはま道を一路、吉田橋に向かう。横浜の中心街の一つとして、伊勢佐木町とJR関内や馬車道方面を結ぶ橋で車とも併せ、人通りの激しい場所である。
吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。

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□内外の襲撃事件

外国人が多数日本に訪れたこの時期に攘夷活動によって多くの外国人が殺傷され、主な事件を下記に整理した。
桜田門外は井伊大老が日米修好条約の調印を強引に押し進め、反対者には弾圧すると言う井伊の強圧を封じるため殺害されたが、開港により生まれた外国人襲撃が次々発生した。
①安政4年(1857)アメリカ総領事ハリス襲撃未遂事件。 下田から江戸に向かう途中で計画、水戸藩首謀者逮捕
②安政6年(1859)横浜のロシア軍艦乗組員殺傷事件。 士官1名、水兵1名即死、賄い夫1名重傷
③安政6年(1859)フランス領事館傭員の中国人殺傷事件。 横浜の居留地で殺害、服装から欧米人と誤認された
④万延元年(1860)アメリカ公使館通弁官ヒュースケン江戸で暗殺。 3人の幕府護衛付きで襲撃される
⑤文久元年(1861)イギリス仮公使館高輪東禅寺襲撃事件(1回目)。イギリス人2名負傷
⑥文久2年(1862)  同上(2回目)  イギリス人2名死傷
⑦文久2年(1862) 生麦事件。 薩州藩の行列に騎馬の英国人が遭遇1人殺傷、2人重傷
⑧元治元年(1864)鎌倉にてイギリス駐屯軍兵士襲撃事件。 1人即死、1人重傷で死亡

◇生麦事件から薩英戦争へ
生麦事件後、英国からの賠償要求に幕府は応じたが、支払いに応じなかった薩摩に対してイギリスは、7隻の軍艦が横浜から鹿児島に向け、交渉するが決裂する。文久3年(1863)7月2日、嵐の中、突如薩摩側から85門の大砲が軍艦向け火を吹き、戦いは2日の正午から、翌日3日まで続いた。薩摩藩側は汽船と全砲台のほか集成館を破壊、工場の生産能力を失う。
イギリス側戦死14名、負傷64名。薩摩側は戦死数人と発表しているが、実質的に1500人以上の犠牲も出ていると言われ、鹿児島の街も約2割弱焼失した。

□鎌倉事件
生麦事件の2年後に鎌倉で再び外国人殺傷する事件起きた。
横浜で相次ぐ外国人殺傷事件に備えイギリス・フランスの軍隊が駐在していた。元治元年(1864)イギリスの駐屯軍兵士二人が鎌倉から江ノ島に遊興で出かけた折、二人の浪人に襲撃され、一人は即死、一人は夜半亡くなった。
他の強盗事件で捕まった犯人の供述から、外国人襲撃の犯人を割り出すことが出来た。
犯人は清水清次で、事件後1カ月で千住の遊廓で捕縛し、戸部の牢屋敷まで護送し、横浜市中を引き回し、処刑され、その首は吉田橋のたもとで晒された。清水は武士の姿を装った25歳の浪人で、横浜開港以来物価が騰貴し、生活が苦しくなったのは夷人と信じこみ、犯行に及んだ。他の1名は清水とたまたま道ずれになった講所出役の中小姓で住み込んでいた、間宮一と言う18歳の若者で事件後10カ月後捕縛され、横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、清水と同様、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。 全権公使ハリーバークスは鎌倉事件の総てが解決したことを本国政府に報告し、激しい攘夷の嵐もようやくおさまったと言われている。このように攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあった。

□警備体制の強化
開港後、外国人があいついで殺傷され、その犯人が捕まえられなかった。イギリス総領事館オールコックを始めとする各国の領事達は幕府を激しく非難した。そこで幕府は横浜周辺の主要拠点に関門や番所を設け、相次ぐ外国人襲撃から守るため警備体制を強化した。

(関門の設置)
1)神奈川台の関門跡

Img_1966

神奈川宿の東西にも関門が作られ、その一つが西側・神奈川台の関門である。台町のこの周辺には神奈川台の関門があった。東海道の両脇に住居が立ち並び、道を塞ぐ 形で門が建っている。
現在その場所には関門跡碑が立っている。
2)吉田橋関門
安政6年(1859)の開港当時、木の橋がかけられた。
橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
幕府は神奈川宿からこの関内まで関所・番所それぞれ10数カ所設けて警戒した。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。
相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。
攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである居留地と外部をむすぶ接点が此処「吉田橋」で交通の要路として武士、町人が絶えず行き交う、人並みが絶えなかった
3)維新後の関門
明治維新後の明治4年(1871)開化に目覚めると共に、治安維持され、他の関門・番所と共に廃止された。
明治44年(1911)老朽化により我が国最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に替えられた。現在の橋は「かねのはし」を模して架け替えられた。JRの「関内駅」始め、横浜の代表的な場所の一つ「関内」と言う呼称はこうした外国人襲撃事件から生れているのである。

(後日談)

野毛山から横浜道を通り、吉田橋に到着し、掃部山含めた野毛三山、巡りも漸く終わった。その安堵感にホットし、吉田橋の段差部分で足を踏み外し、そのまま鉄柱に頭部を激突、眼鏡が飛んだ。衆目の前での、みっともない事件であった。清水清次か間宮一の、呪いではなかったのであろうか・・・。眼鏡の表面に深い、「吉田橋の傷」が残されてしまった。

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