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殉節両雄之碑と建立の発起の人々

                  <高幡不動の殉節両雄之碑>Img148高幡不動の境内には土方歳三像と並んで殉節両雄之碑が立っている。
殉節両雄とは多摩の出身で幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の隊長近藤勇と副長土方歳三を指している。
明治7年(1874)8月明治政府は今後、戊辰戦争で新政府軍に敵対し「朝敵」となった戦死者の霊を祭ることが出来る太政官布告を出した。

布告に基づき、旧幕府の典医松本良順の呼びかけで、高幡山金剛寺(日野市高幡)で近藤土方の墓碑建立の計画が生れる。佐藤俊正(彦五郎)や小島為政らも計画に賛同し旧門人や有志から募金を集められ、より具体化される。
碑文は二人の誕生から死に至るまでの略歴と功績を記して顕彰するものである。具体的には両雄自身が死を厭わず突き進んだ心情と、それを讃える大槻 磐渓の言葉に殉節両雄碑の意志が伝わってくる。内容が単なる慰霊碑ではなく、両氏の賊名を晴らし、忠勇義烈を讃える顕彰碑であった。

篆額は旧会津藩主松平容保、碑文は小野路村、小島為政が起草した「両雄士伝」を基に大槻 磐渓が撰文し、碑文の約1600文字は松本良順が書いている。
碑文の訴えたいもの、建立起案に尽力した人々に光を当ててみたい。

1)碑文の内容
要旨をごく簡単に表すとこんなことであった。

(1)両雄二人の軌跡
武州と甲州の境の源から江戸の生活に役立たせる多摩川は清く美味しい。
「近藤昌宣(まさよし)」と「土方義豊(よしとよ)」はその多摩川の両岸の生れである。二人はは剣法を近藤邦武(くにたけ)に学ぶ。から始まり、新選組とあわせ散っていった二人の軌跡が語られる。
京での新選組として治安維持に活躍。
禁門の変で長州兵が攻める上がるのを幕府側として守り撃退するなど功績が評価される。
戊辰戦争が始まると東軍として戦うが、東軍敗走の中、京から、江戸、東北、最後は函館で終戦を迎える。
この間、「昌宣」は流山で官軍に捕まり、慶応元年4月15日に板橋で処刑され、その首は京都に晒された
慶応2年5月11日、箱館で「義豊」は銃丸が下腹を洞(つらぬ)いて戦死した

(2)二人が残した言葉

①囚われの身に降伏勧告に対して「昌宣」が残した言葉
「我が主慶喜公は前(さ)きの戦いで朝廷に刃向かう気持ちはなかった。鳥羽・伏見の守備兵は関の通過を拒み、大砲を打ちかけてきたので止むを得ず応戦しただけである。讒言(ざんげん)をする人は余りにもひどく、慶喜公に反逆者の名を被(き)せて天子の名の軍隊がいなずまのように攻めてきた。この事が私達が非常に残念に思う事で何とか無実の罪をそぎたいと希(こいねが)っているだけなのだ。今更弁解がましくしゃべることなどない」
と言い放ち刑に臨んで少しも態度を変えることなく堂々と刃を受けた。

②函館戦争中に語った「義豊」の言葉
「私がさきごろ「昌宣」と死を共にしなかったのはもっぱら慶喜公の冤(むじつ)の罪を雪(そそ)ぐ日のあることを期(き)していたからである。今このような状況になってしまった以上、いさぎよく戦死するだけである。
仮に緩やかな処分によって命を永らえたとしても私はどうして再び地下の「昌宣」と顔を合わせることが出来るだろうか(とても出来ないことだ)」と語った。
それを聞いた人達はその言葉に涙をおとしたと言う

(3)大槻磐渓は感慨を含めてこのように整理総括
新しい政府が出来たが国民の親しみは未だそれほどでは無い。新しい天皇中心の体制となったが人々の気持ちは未だ静まっていない。このような時世に当面して、武士の激しい気概と節操を身につけ、自分の進むべき道と死に場所を確かりと見極めている者は一度前へ向かって進めばその信念を枉(ま)げるような事はしないものである。
言うまでもなく新選組の近藤・土方両子は有らん限りの忠を尽くして主君に仕えた者であり、死を以ってその生涯を全うし他に比すべき者などいないと謂ったとしても誰も意義をさしはさむこなど出来ないであろう。
      
2)明治の世に碑建立
世は変わって、明治の治世になったが、近藤、土方の志を翻すことなく武士として貫き殉じた意志は人々の心を捉えていた。二人の行動に揺り動かされ、発起人となって建碑に繋がった。

(1)建碑に揺り動かしたマグマ
多摩地域には二百数十年の幕府天領地として、幕府との絆があり、薩長政権とは異なる歴史風土がある。
自由民権運動に走った発起人も多くいる。多摩で起きた反政府運動が自由民権運動に繋がったのもその風土から生まれたと考えられる。
京の治安維持で活躍した新選組の武術が天然理心流の名を広めた。その天然理心流も戊辰後、新政府から賊軍の武術として禁止された。発起人の多くは天然理心流の門人でもあった。

(2)戊辰動乱の怨念が不許可
碑文を神奈川県に提出したが建立の許可が貰えず、明治9年の銘が入っているが実際に建つたのが明治21年であった。「朝敵」とされた二人に対する戊辰動乱の怨念の激しさが許可に長期間要したことが伺える。

(3)建立の発起人
近藤・土方に深い以下の人々が発起に尽力した。

       <系譜をクリックすると拡大される>発起人の系譜上の繋がりが判る。

Image◇佐藤俊正
歳三の義兄。勇、小野路の小島為政と義兄弟の契りを結んだ。新選組が上洛し物心両面で支えた。
天然理心流の多摩・相州から門弟を託された。

◇糟谷良循
歳三の実兄、府中に養子、医者となるが天然理心流も入門

◇土方義弘
歳三の兄義巌(喜六)の長男で土方本家の「隼人」を継ぐ、明治16年に自由党に入党する

◇本田定年
谷保村の旧家で書家で退安と号し、明治16年自由党に入党。佐藤俊正の長男俊宣の妻とまの兄で佐藤家と姻戚関係にある。

◇橋本政直
小野路村の旧家、元禄6年(1693)から名主を務める。政直の妻なみは佐藤俊正の長女

◇小島為政
江戸中期から豪農、20代鹿之助先代に継ぎ名主。関東取締出役の居室ともなった。近藤勇らが剣術指南
明治7年近藤勇と土方歳三の冤をそそぎ事績を正しく伝えようと「両雄士伝」を纏める。大槻磐渓はこれを参考に撰文している

◇近藤勇五郎
勇の婿養子。明治9年に宮川家から近藤家を継ぐ。明治14年、野崎村(三鷹市)の吉野泰三らが結成した民権結社自治改進党に入党

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