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「池田屋事件」のよもやま話

暑い京に起きた、新選組が過激攘夷派を襲撃した「池田屋騒動」は京の町をテロ活動か
ら守る。一方では長州側からの怨恨を買い倒幕の嵐に傾注してゆく。
激しい乱闘事件の中で行われた「池田屋騒動」のよもやま話を拾って見た。

                   <乱闘劇が繰り広げられた池田屋の内部>

Img149◇池田屋事件
安政の大獄と言う形で幕府が手を振り上げ、その対抗手段で大老を襲撃した。
「天誅」と言うゲリラ活動を進める過激攘夷派、その対抗として新選組による殺傷など、こうして反幕派と親幕派との抗争が激しくなってきた。
そろそろ梅雨も開け、祇園祭の準備に取りかかろうとする元治元年(1864)六月はじめの夜、京の町に激震が走った。
新選組は捕縛された攘夷派の古高俊太郎の、自白から京の何処かで攘夷派が集会している事実を掴み、手分けして探索した結果、三条木屋町にある池田屋と言う旅籠に討ち入った。

◇勇以下池田屋踏み込み激しい乱闘
新選組側は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、が踏み込み、入口は谷万太郎、浅野藤太郎、武田観柳斎と裏口は奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門でそれぞれ固めたが、裏口の三人が亡くなる。突然新選組に踏み込まれ、必死で逃げようとする多数の浪士が刀を振り回し、三人を倒したのであろう。

藤堂平助が鉢鉄を打ち落とされ、眉間に傷を負い、刀の刃はのこぎりのようにギザギザになった。
永倉新八ははかなりの刀の使い手であったが左手の肉を削がれ、刀が折れた。沖田の刀は"ぼうし"と言われる刀剣の切っ先が折れた。
近藤勇は養父の近藤周斎に宛てた手紙の中で「下拙刀は虎徹故に哉,無事に御座候」とも説明しており,近藤勇いわく,虎徹だったからこそ折れることもなく無事に戦い抜けたというのである。
このときの虎徹は本物か偽物か、諸説あるが、正に激しい乱闘事件であったことを物語。
池田屋の乱闘は約2時間余り、戦闘後、休む間もなく、残党狩りに走り、壬生の屯所に帰陣したのは翌日の昼頃と長い一日であった。

◇攘夷派の犠牲者
二十名ほどいた池田屋で新選組が踏み込み、激しい乱闘があり攘夷派の九人の命が失った。
但し、勇自身の報告は七人と言われ、記録によって様々である。
亡くなった浪士に長州藩が信奉する吉田松陰に深く関わった人物がいる。
吉田松陰と共に東北を歩いた肥後の宮部鼎蔵。長州人では高杉、久坂、入江らと「松陰門下生の四天王」と言われる、吉田 稔麿(としまろ)、さらに松陰門下生の杉山松介が倒される。
この騒動の知らせが長州に伝わり、松陰の盟友、門弟の犠牲に過激派はその敵討ちと、京への進発が体制をしめ、長州は藩を上げての京攻めに傾注していく。

◇禁門の変
同年7月19日池田屋の報復に長州藩が京に押し寄せたが、会津、薩摩に撃破される。
この時の禁門の変(蛤御門の変)と呼ばれる騒動で久坂玄端はじめ長州の多くの人材を失う。
藩論が京進発に押し進められる中、高杉晋作は進発論に反対した。余りにも過激な進発に自ら京の実情を調べてくるから待てと、京に飛び出して行く。それが脱藩行為と看做されかって松陰が二度も入れられた藩牢の野山獄に繋がれた。
不思議な運命の中、長州藩存亡の瀬戸際で混乱から距離を置いた晋作が登場する。

◇根が深い怨恨
松陰没後、門下生の理解者であった周布政之助は禁門の変後、責任を取って自刃する。
時代が変わって明治42年(1909)横浜開港の功績者として井伊直弼の銅像建立したが、除幕に事件が発生した。当時の神奈川県知事、周布公平の父は周布政之介であった。
松陰の処刑、父の自刃の怨恨から除幕の許可を与えなかった。許可がないまま、旧彦根藩士が強引に建立したが、松韻信奉者によって数日後銅像の首は落された。

◇鎖着こみ
                <土方歳三が着用した鎖帷子(くさりかたびら)と籠手>

Canvas小島資料館には当家で使っていた道具類の展示とご案内があった。
文久元年の小島日記に4月20日に近藤勇が剣術を教えに来た。その時に小島鹿之助が護身用として鎖着こみを江戸の道具屋で近藤には斡旋を頼む。この時に鎖かたひらの手付金を1着に付き2両払い、2着注文。その後文久元年の6、7月頃、注文ござ候の所鎖着こみ出来いたし候、お預かり候。

文久3年1月15日、勇・歳三が来宅する。
近藤、土方、星野屋円蔵年始に来る。それぞれ土産年玉を貰う。
これが近藤、土方が小島家に来た最後で丁度京都に行くと言う挨拶に来た。
翌日、野津田村石坂主人、道助同道にて石田迄、年礼に行く、夜帰る。
この時は京都が物騒だからといって、1着は勇に護身用として贈っており、1着は当家に残っている。

翌年近藤は池田屋事件があるが、これを着込んで戦った筈である。
近藤勇が鎖着こみは重さが6キロある。鎖で出来ているので刀で切れず、護身用に作られた。歳三には刀を贈った。
と言うのが文久3年の小島日記に書いてある。

現在、小島鹿之助の物が残っていて頭に被るのと鎖手袋と着こみと3点セットとなっている。
後に小野路農兵隊を作り、その時にこう言う物を使ったらしい。
着こみ帷子は大河ドラマでNHKも来てたビデオで撮っていたが6キロもあると重いのでプラスチックで作ったと言われている。

池田屋事件の時に、夏の一番熱い時期に身を守る為に、近藤勇が重い鎖を身にまとい、此れを着て戦った。多数の浪士を相手に咄嗟の身のこなしも、求められる真剣勝負であるが、身につけた重さと想像を絶する暑さとの戦いでもあった。

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