« 2015年8月 | トップページ | 2015年10月 »

優れた人格と勇猛な井伊家の祖「井伊直政」の生涯

幕府瓦解まで支えた井伊家の粗、井伊直政に光を当て、彦根城中心に追ってみる。
◇井伊家の祖、井伊直政の出自
遠州井伊谷の出で、家系は平安末期、井伊荘園の在庁官人と言われ、エリートのキャリア官僚の出。
井伊氏は室町期に今川氏に服従し、直政の先々代は桶狭間の戦いで戦死。先代は今川氏に疑われ、攻め殺される悲憤の中にあった。
幼少の直政は母に守られて漂白し、少年時代に遠州で、家康に見い出され、井伊谷の旧領を与えられ近侍する。
直政にとって家康の存在は主従関係を越えた恩人であり、生涯、精一杯誠実に家康に尽くし報いた。
思慮深く、四方への気配りし、口も重いことから、人柄を買われ家康は信頼し、内々の相談相手にもなった。
一方、武勇の面では西軍と対峙している折に、人馬一体で突撃する「突っかかり」と呼ばれる野戦方式を自ら実践した。この勇猛果敢さは生涯継続し、16度も合戦に一度も敗北はなかった。優れた人格を備える一方、武功に力を発揮する直政の存在は家康の頼りがいのある直参であった。

◇勇猛な武田の赤揃いを継ぐ

           <勇猛で名をはせ、秀吉側から恐れられた井伊赤揃い>

Image1 武田家が勝頼の代で織田信長の甲州攻めで破れ、滅んだ。家康は信長に頼み武勇を誇る武田の集団を吸収し、直政の配下に付けた。
当時、武田は赤い具足、指物、鞍から馬のムチまで赤で揃え、「赤揃」と言われる恐れられた軍団であった。直政はそのスタイルを継承し「井伊の赤揃」と呼ばれるまでになった。
直政は家康の指示で武田の陣立てや戦法を学び、信玄の洗練された武術を継承した。大軍の決戦には直政は先鋒部隊として錐(きり)のように深く穴を開け、期待に応えた。
天正12年(1584)尾張の小牧で秀吉軍と対峙した家康軍が膠着した折に、秀吉は直政の猛気に恐れ「赤鬼」と呼ばれた。
幕末期の藩主の井伊直弼は時勢の混乱に追い詰められた幕政に収拾を図るべく、公卿、大名、諸藩の活動浪士を大弾圧し、辣腕を振るった直弼を「井伊の赤鬼」と呼んだことにも繋がっている。

◇空前の兵士が動員された関が原の戦い
慶長5年(1600)、東西両軍があいまみえ関が原の戦いが行われ、勝敗が決しなかった。
西軍の将小早川秀秋の裏切りによって、一気に東軍の勝利になった。
東軍の徳川家康はその夜、戦場で仮泊したが、直参の井伊直政には休息を許さず、近江への侵攻を命じた。近江には西軍側の石田三成の居城佐知山城があり戦略的に陥れる必要があった。
家康は直政に1万5千人の将兵を与え、山中の狭い道路は人馬で充満し、侵攻を阻害した。夜間行軍に続き、翌朝の8時間の激闘で士が疲れきっていた。
近江への侵攻で総司令官となった井伊直政は後に彦根を与えられ、その勲功は35万石の祖になる。
最前線に立つ直政は、二つの鉄砲玉を受けるほどすさましかったが、この傷が災いし、破傷風となり、過労と重なりでなり2年後の慶長7年(1602)40歳で亡くなる。

◇佐知山城の落城

            <彦根城から市街地を越え、目の前の山頂が悲劇の佐地山城跡>

Image21111
関が原の戦い後、石田三成は伊吹山に姿をくらまし、生きて再興の機会を伺った。
主の居ない佐知山城は老人や女子、士卒の家族が留守を守っていた。城は東軍1万5千名に囲まれた。
「開城せよ」で三成の主たるものは切腹、士卒は降参するものを許すと命令を申し述べた。
城中では奮戦して戦おうと意志を固め、士卒には強制せず、死を共にしようとする者のみ、残れと触れた。
その間、城から離れた者は僅かで、城中男女2千数百名が城に残り、2日間激闘し討死もしくは自害した。
三成は如何に士心を得ていたことを物語るものであった。
三成は捕らえられ、京の六条河原で処刑された。三成の処分は家康命で直政が行うが、丁重に礼遇した。

◇敗者に対する直政の処遇
三成の旧領を相続し佐知山城に入った直政は石田時代の法や慣習を尊重し、近江の国風を学んだ。家来団に対しては関が原合戦のことは禁句として、三成批判を抑え、密かに慕っているであろう感情を護った。
こうして西軍の中核部隊である近江衆の心を捉え、敗者である近江人を徳川の配下にした。人を得た直政の配置が家康の絶妙なる人選でもあった。
直政の人柄と家康に尽くした働き振りが、機運となって徳川家と井伊家の絆が生まれ、幕府瓦解まで繋がる。
直政の思想、人格、事歴が基礎になってその後の井伊家の藩風として継がれる。

◇彦根城の築城

家康は直政に「西国30余か国の諸大名の監視」の重責を負わせる。京都の公家をはじめ、西国の諸大名として特に長州の毛利家、薩摩の島津家で、その家各の重さは井伊家代々に相続されている。
幕末期の井伊直弼も政治意識の中にこの一言が、濃厚にあり、独裁と言われる「安政の大獄」も忠誠の結果と言われている。
彦根城の築城は大坂城の秀頼討ちを狙う、家康の意志から生まれたが、場所選びに任された井伊の重臣達は彦根山(金亀山)に決め、家康も大いに賛同した。築城を前に直政は亡くなり、次の直勝に継がれる。
家康は築城を公儀普請(ふしん)とし、江戸から普請奉行三人を派遣した他、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛弾若狭、越前の7ヶ国、12名の大名に手伝わせていた。

◇維新後も残された彦根城

Img_562611
明治維新の太政官冷から、多くの城が姿を消した。明治天皇がこの城を見、その典雅さ感じ入って、残したいと言う意志からと言われている。
彦根城は湖畔にあって、雅びを感じさせる優しさをもっている。
建物も石垣もこの付近の佐知山城や観音寺城など在来の古城郭の物を取り壊し移され、巧みに利用し近郊の古建築の感覚が反映され、実現している。

優雅な城と城内の急峻な階段、多数の狭間、戦う城の姿の、彦根城 .は実際に確かめてきました。こちらでで紹介してます。

司馬遼太郎作 街道をゆくシリーズ「近江散歩、奈良散歩」引用する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「因果応報」、近藤勇の最後が重なる

過去の悪事が「因果応報」遂に身にふりかかり、報いがあった。
見ている視界で、視点に歪みが、生まれ、驚いた。早速、調べたら、専門医から緊急処置を宣告された。
命まで落すことはないが、いざ、その場に臨み、身を任せるだけであるが、体の中枢機能に手が加えられる事に物凄い、不安な気持ちに支配される。

近代医学のプログラムに載せられ、一つ一つ階段を登っていくが、節目では散っていった近藤勇や吉田松陰の処刑のシーンが何となく蘇ってくる。

勇の処刑、前後の姿を重ねて、その日の出来事を追って見る。

Kondo0111
①入院
1対1で向き合い、綻びた被媒体を検査に継ぐ検査、経験を踏まえ、その手法が検討され、具体的な計画が提示される。
「よろしいですな」安にこれでやるから、覚悟せよとの、告知に、既に逃げ場もなくサインする。

内外の高い評価から、手術の患者さんラッシュで、順番が決まらず、一旦自宅待機。
電話が入り、日にちが告げられ、当日に出頭する。長期戦を覚悟に、日用品は元より大量な書籍に、丸で海外旅行の如く、荷物を抱えての旅立ちであった。

◇捕縛・連行
近藤勇最後の地、流山で訓練中、無防備であった本陣はバラバラと来た西軍に取り囲まれ、勇は出頭する。勇は紋付き姿で、馬に乗せられ、薩摩藩士有馬藤太他に警護され流山を後に、越谷経由で総督府のある板橋に連行された。

②手術前日
当日にさっぱりと臨みたいこと、術後の入浴や洗髪を禁じられていることなど、娑婆の世界のお別れにゆったりと風呂に浸かり、髭を落した。
覚悟はしたものの来るべきものに興奮覚めやらず、睡眠薬で夢の中へ

③当日
当日の対象者、朝、検査室に一斉集合、向かい側暗幕の前に椅子が並べられ、それぞれ緊張の面持ちで呼び出しを待つ。「わあ~多い」10数人の群れの中に、入る。
暗幕の中に、最後の検査、当該、目の上に黒ペンで識別のマークが描かれる。
「さあ、いよいよ、頑張りましょう」の励ましの言葉に暗幕から送り出される。
ガウン状の専用着に着替え、キャップを被り、愈、戦闘体勢。

◇処刑前
勇は夜、髭を剃りたいというので、ひげそり道具一式貸した。処刑当日の4月25日、曾祖 父が着替えを手伝い、近藤は百衣を着て刑場に送られた。・・・石山家口伝から


④愈、執行

Tenteki1

  腕に刺された注射針とパイプを通じて点滴用ビンがぶら下がり車椅子に乗せられ、人通りの多い花道を通り、人気の少ない、病棟の奥へ連行される。分厚い鉄扉が開き、主治医、医師他、大勢のスタッフに迎えられ、台上に仰向けに寝かされ、手術が執行される。

                       「さ~覚悟は良いか」二人の医師始め、多くのスタッフに囲まれる。

Geka1

◇勇は板橋本陣で縛りに付いた後、問屋場に移された後、駕籠で平尾一里塚の刑場に運ばれた。
太刀取りは神道無念流の皆伝、横倉喜三次他1名である。喜三次は一カ月前に諏訪で赤峰隊の相楽総三他の首を落しており、腕は達つ。
勇は喜三次が「ながながご厄介に相成った」の一言を残し、首を差し伸べた。
多くの群衆が見守る中、彼は静かに仏徳を賛辞する偈(げ)を唄え終わると、佩刀二王清綱により一刀で近藤の首を落とした。
            <勇は天空の彼方へ昇華していく>Image1

⑤漸く終了
体を強張らせ終わりなき苦痛に耐えながら、始まってから1.5時間、阿修羅の住まう世界、正に「修羅場」を潜ることはこのことであろうか・・・。
その間、主治医、医師のやりとりが聞こえ、勝手な想像から、色々な妄想が生まれてくる。
終了宣言に強ばる体に、力を抜き、漸く、緊張から解きほごされる。
勇は散ってしまったが、勇の元へ、追うのであろうか・・・。地蔵様の救いの手で輪廻転生、再び娑婆の世界へ、戻ることが出来た。

眼にはガスが封入され、2週間は霞の中の独眼竜の世界で片目の生活。光が差し込むまで、長い長い闇のトンネルの世界に、僅かな希望を持って、待ち続ける。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2015年8月 | トップページ | 2015年10月 »