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優れた人格と勇猛な井伊家の祖「井伊直政」の生涯

幕府瓦解まで支えた井伊家の粗、井伊直政に光を当て、彦根城中心に追ってみる。
◇井伊家の祖、井伊直政の出自
遠州井伊谷の出で、家系は平安末期、井伊荘園の在庁官人と言われ、エリートのキャリア官僚の出。
井伊氏は室町期に今川氏に服従し、直政の先々代は桶狭間の戦いで戦死。先代は今川氏に疑われ、攻め殺される悲憤の中にあった。
幼少の直政は母に守られて漂白し、少年時代に遠州で、家康に見い出され、井伊谷の旧領を与えられ近侍する。
直政にとって家康の存在は主従関係を越えた恩人であり、生涯、精一杯誠実に家康に尽くし報いた。
思慮深く、四方への気配りし、口も重いことから、人柄を買われ家康は信頼し、内々の相談相手にもなった。
一方、武勇の面では西軍と対峙している折に、人馬一体で突撃する「突っかかり」と呼ばれる野戦方式を自ら実践した。この勇猛果敢さは生涯継続し、16度も合戦に一度も敗北はなかった。優れた人格を備える一方、武功に力を発揮する直政の存在は家康の頼りがいのある直参であった。

◇勇猛な武田の赤揃いを継ぐ

           <勇猛で名をはせ、秀吉側から恐れられた井伊赤揃い>

Image1 武田家が勝頼の代で織田信長の甲州攻めで破れ、滅んだ。家康は信長に頼み武勇を誇る武田の集団を吸収し、直政の配下に付けた。
当時、武田は赤い具足、指物、鞍から馬のムチまで赤で揃え、「赤揃」と言われる恐れられた軍団であった。直政はそのスタイルを継承し「井伊の赤揃」と呼ばれるまでになった。
直政は家康の指示で武田の陣立てや戦法を学び、信玄の洗練された武術を継承した。大軍の決戦には直政は先鋒部隊として錐(きり)のように深く穴を開け、期待に応えた。
天正12年(1584)尾張の小牧で秀吉軍と対峙した家康軍が膠着した折に、秀吉は直政の猛気に恐れ「赤鬼」と呼ばれた。
幕末期の藩主の井伊直弼は時勢の混乱に追い詰められた幕政に収拾を図るべく、公卿、大名、諸藩の活動浪士を大弾圧し、辣腕を振るった直弼を「井伊の赤鬼」と呼んだことにも繋がっている。

◇空前の兵士が動員された関が原の戦い
慶長5年(1600)、東西両軍があいまみえ関が原の戦いが行われ、勝敗が決しなかった。
西軍の将小早川秀秋の裏切りによって、一気に東軍の勝利になった。
東軍の徳川家康はその夜、戦場で仮泊したが、直参の井伊直政には休息を許さず、近江への侵攻を命じた。近江には西軍側の石田三成の居城佐知山城があり戦略的に陥れる必要があった。
家康は直政に1万5千人の将兵を与え、山中の狭い道路は人馬で充満し、侵攻を阻害した。夜間行軍に続き、翌朝の8時間の激闘で士が疲れきっていた。
近江への侵攻で総司令官となった井伊直政は後に彦根を与えられ、その勲功は35万石の祖になる。
最前線に立つ直政は、二つの鉄砲玉を受けるほどすさましかったが、この傷が災いし、破傷風となり、過労と重なりでなり2年後の慶長7年(1602)40歳で亡くなる。

◇佐知山城の落城

            <彦根城から市街地を越え、目の前の山頂が悲劇の佐地山城跡>

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関が原の戦い後、石田三成は伊吹山に姿をくらまし、生きて再興の機会を伺った。
主の居ない佐知山城は老人や女子、士卒の家族が留守を守っていた。城は東軍1万5千名に囲まれた。
「開城せよ」で三成の主たるものは切腹、士卒は降参するものを許すと命令を申し述べた。
城中では奮戦して戦おうと意志を固め、士卒には強制せず、死を共にしようとする者のみ、残れと触れた。
その間、城から離れた者は僅かで、城中男女2千数百名が城に残り、2日間激闘し討死もしくは自害した。
三成は如何に士心を得ていたことを物語るものであった。
三成は捕らえられ、京の六条河原で処刑された。三成の処分は家康命で直政が行うが、丁重に礼遇した。

◇敗者に対する直政の処遇
三成の旧領を相続し佐知山城に入った直政は石田時代の法や慣習を尊重し、近江の国風を学んだ。家来団に対しては関が原合戦のことは禁句として、三成批判を抑え、密かに慕っているであろう感情を護った。
こうして西軍の中核部隊である近江衆の心を捉え、敗者である近江人を徳川の配下にした。人を得た直政の配置が家康の絶妙なる人選でもあった。
直政の人柄と家康に尽くした働き振りが、機運となって徳川家と井伊家の絆が生まれ、幕府瓦解まで繋がる。
直政の思想、人格、事歴が基礎になってその後の井伊家の藩風として継がれる。

◇彦根城の築城

家康は直政に「西国30余か国の諸大名の監視」の重責を負わせる。京都の公家をはじめ、西国の諸大名として特に長州の毛利家、薩摩の島津家で、その家各の重さは井伊家代々に相続されている。
幕末期の井伊直弼も政治意識の中にこの一言が、濃厚にあり、独裁と言われる「安政の大獄」も忠誠の結果と言われている。
彦根城の築城は大坂城の秀頼討ちを狙う、家康の意志から生まれたが、場所選びに任された井伊の重臣達は彦根山(金亀山)に決め、家康も大いに賛同した。築城を前に直政は亡くなり、次の直勝に継がれる。
家康は築城を公儀普請(ふしん)とし、江戸から普請奉行三人を派遣した他、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛弾若狭、越前の7ヶ国、12名の大名に手伝わせていた。

◇維新後も残された彦根城

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明治維新の太政官冷から、多くの城が姿を消した。明治天皇がこの城を見、その典雅さ感じ入って、残したいと言う意志からと言われている。
彦根城は湖畔にあって、雅びを感じさせる優しさをもっている。
建物も石垣もこの付近の佐知山城や観音寺城など在来の古城郭の物を取り壊し移され、巧みに利用し近郊の古建築の感覚が反映され、実現している。

優雅な城と城内の急峻な階段、多数の狭間、戦う城の姿の、彦根城 .は実際に確かめてきました。こちらでで紹介してます。

司馬遼太郎作 街道をゆくシリーズ「近江散歩、奈良散歩」引用する。

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