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秋日和に恵まれ日野宿案内

Image11111111 遥々、相模原からご夫妻で日野迄お出まし頂いた。
かっては、地獄の洗礼を浴び、何とか帰還出来た闘病仲間である。
拘留期間が満了し、互いのハードルを越えた事を祝うと、娑婆の世界で会う約束であった。
歴史に多少関わりを持つ身分に、こんな所もあるよと、紹介していたが、ご案内の機会が生まれた。
折しも好天続きの秋日和に日野の歴史を案内し、紅葉、真っ盛りの街中をたっぷり堪能することが出来た。

<ご案内>
15時スタート、「秋の日は釣瓶落し」と言われるぐらいに日が落ちるのが早い。
もたもたしていると、直ぐに暗くなってしまい、見どころの一つである欄間も見えなくなってしまう。
日の落ち行く時を気にしながら本陣と上・下佐藤家の檀家寺である「大昌寺」を駆け足で廻る。


◇本陣にて

              <天井の飾り物「鳳凰」> Image41参勤交代の大名を迎える為の格式がこの式台付玄関口に代表される。
切妻瓦屋根に妻の三角部分に異彩を放つ動物もどきの姿をした飾りものが目を引いている。
建物を火災から守る飾り物であるが、玄関口の目立つところで、躍動感溢れる、力の籠もった「鳳凰」である。
頭の前部分はキリン、後ろは鹿 。あごが燕、頸は蛇、背中は亀、尾は魚で仮想合成され、古来中国で尊ばれた瑞鳥の一種である。
この「鳳凰」の頭部に佐藤家の家紋が見える。
長い風月に晒され、風化も見られるが、その繊細な造りは今なお健在であり、遠くは参勤交代の大名行列や、幕府瓦解の前、近藤勇一行の甲陽鎮撫隊を迎えている。明治維新以降、京都行幸の明治天皇以下の大集団を迎え、普段、建物の外側は説明機会が少ないが、どうしても見て欲しかった、火除けの守り神であった。

◇故郷、懐かし
本陣の建屋に入る。約150年も経過した和風建築に江戸時代の空気感をたっぷり、味わって頂き満足されたようである。たまたま、奥様の東北の言葉のイントネーションから時々感じられたが、ご出身が山県であった。建物を支える大きな大黒柱と巨大な梁、杉の板戸、すすけた天井板に、故郷の山県にもこの様な建物があったようで、その姿が重なり懐かしく感動されていた。
とりわけ、お住まいと近い、東京の多摩地区での思いも寄らぬ、故郷の空間との再会に、高揚し目の前のてかてかに輝く、大黒柱に触れていた。

◇小野路の小島家
何処に行くのも行動を共にする仲良し夫婦は小野路の狭い道路に、車を走らせ風格のある家屋敷の前を通ったと言われたが、恐らく名主小島鹿之助の家に違いない。
その小島家の近くに住む縁者の橋本家に嫁いだのが、彦五郎の長女「なみ」さんの嫁ぎ先でもある。小島家は佐藤家と名主仲間であり、名主が中心になって剣術を習い始め、天然理心流の門弟でもあり、佐藤家とも深い繋がりを持っている。
佐藤家、同様、新選組になる前の試衛館道場時代の近藤勇と門弟達の、天然理心流の出稽古先の一つであり、そんな長い付き合いから新選組時代の前後から彼らの痕跡がしっかり残されている。
その話しに,駆り立てられ、俄か新選組に有らずとも、小野路行きに心揺らしたようである。

◇本陣から大昌寺へ

旧甲州街道を西に向かい最初の信号を左折すると車が1台通れる狭い路地に行く。大門と言われる高幡不動に抜けるかっての専用古道で看板の有ったが散逸してしまった。住宅に囲まれた場所から、抜けると水路沿いに欄干など整備された、日野用水に出る。

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◇日野用水と鮎
この付近の用水の澄みきった水に、魅せられ鮎の姿が確かめられたと話題になった。日野用水は永禄10年(1567)、上佐藤の佐藤隼人が、滝山城主、北条氏照から囚人を貰いうけ開墾に着手した。
多摩川から導水し、田畑に宿の豊かな米造りに繋がり、現代でも市内に張りめぐる用水としてきちんと維持されている。天領と言われる幕府との結びつきも、こんな所から生まれている。
鮎の話しに、たちまちSさんが色めき立つ。相模川に年間の漁業許可書を持ち、度々鮎釣に竿を落とす、鮎釣の名人のようである。川の流れに合わせ、浮きの動きに集中、ブルブルと来る竿の感触は止められないだろうなあ~。入院時の手持ち無沙汰の病床では、家から持参した釣道具から、小さな釣針に糸をからげ、多数の仕掛けを準備し、来るべき日に備える、真剣な姿が印象的であった。

◇大昌寺

その用水の近くに、石碑が立つ、大昌寺の桜並木で整備された参道である。
山門を潜ると立派な本堂が建ち、屋根には、葵ご紋の家紋がきらびやかに輝いている。
大昌寺は徳川家、菩提寺の一つである芝、増上寺の末寺である。本堂の前で手を合わせ、墓域に向かう。

        <大昌寺>

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     <天井にきらびやかに輝く、徳川家の家紋「三つ葉葵」>Image211一番奥に、旗が靡き、上・下佐藤家の墓石が並ぶ両家の前に向かい墓参をする。
歴代の佐藤家が刻まれる墓碑に彦五郎、おのぶさんの名前を確認し、改めて深く眠る、故人に来意を告げ、安らかな安寧を願い、手を合わせる。

墓域の入口から、多少崩れた石畳の両側は、彦五郎と一緒に幕末期に活躍した日野剣士たちの仲間の一部を除き、大多数が此処で眠る。
慶応3年、関東擾乱を図り、八王子の壺伊勢屋に泊まる、薩摩の浪士への襲撃に彦五郎以下、佐藤僖四郎(上佐藤)中村太吉朗、馬場市次郎、原栄蔵、高木吉蔵、佐藤家の長屋に住む山崎兼助の日野剣士7名が参加するが馬場市次郎、山崎兼助がこの襲撃で亡くなる。
襲撃当日、彦五郎宅に集まり、潔く飛び込んでいった剣士達の大半も、声を掛ければ呼応するであろう。不穏な幕末期、天然理心流の稽古仲間は新選組として送り出し、一方では宿を守った。そんな彼らと、一緒に居られる世界に色々な妄想が膨らんでくる。
そんな繋がりを含め、墓域に残される幕末を追っていると、瞬く間に暗くなり、大昌寺を後にする。

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時代を越えて伝える「日野宿本陣のザクロ」

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秋の一日、朝は寒かったのに日中、長袖では暑く、寒暖の差が激しい。
本陣の中庭に真っ赤で大きな実の果実が顔を覗かせるようになった。
普段、廊下伝いにに見える、この幹を指さし、「果たしてこの果実な~んだ」と謎をかけるが、若い人たちの殆どは首を傾げる。
年配者は「ざくろ」と造作もなく答えが返ってくる。
普段、果物として店頭に揃え飾られることも少ないし、街中でもざくろの樹を見ることも少ない。果実豊潤な時期の代表選手の柿などと比べると希少な存在でもある。

Image12サイズは野球のボール程度の大きさで、直径が6~10cmくらいで、重さは100~300g程度である。
果実の中には赤いツブツブがたくさん詰まっていて、この部分を食べる。柿・リンゴのようにがばっと、かじられる物とは違って、種に覆われた層の仮種皮(かしゅひ)のつぶつぶを口に含み、種は吹き出し捨て、僅かな部分を食べる。
さわやかな甘味と酸味があり独特の食感があるが、食べるのにもどかしさが付いて廻るので、直に食べるのは地味な存在で果物の王様になれない理由かも知れない。
中の種はそのまま食べても大丈夫だが、種が気になるようならはき出すか、あらかじめ搾ってジュースにする場合もある。
国産ざくろの流通は殆どなく、店頭で売られている物の多くはカリフォルニア産で、ジュースにはイラン産も使われている。

<ざくろの歴史>
旧約聖書や古代の医学書などにも登場しているザクロは、5000年以上前から栽培されていた。昔から健康や美容によいとされており、好んで食べられていたようで、原産地であるイランからシルクロードを通って中国やヨーロッパに伝わり、日本へは平安時代に渡来したと言われている。

<期待される効能>
最近の健康志向で直ぐに効能を追ってしまうが、ザクロには抗酸化作用のある「デルフィニジン」「シアニジン」などの「アントシアニン」や、「エラグ酸」などのタンニン類が含まれているため、生活習慣病予防に効果があると言われている。
また血流効果から高血圧予防、動脈硬化予防、脳梗塞予防、心筋梗塞予防などにも効能が期待されている。

<ザクロ伝説>
ザクロが沢山の種子を実らせる、性質のため、昔の人は、ザクロを豊かさの象徴とした。日本で有名なのは、鬼子母神(きしもじん)の仏教との接点がある。
鬼子母神は、豊かさを象徴する女神であり、子沢山で、子宝の神なのである。ザクロは、豊かさの女神に捧げられる果物であった。
種子を覆う仮種皮は、まるで宝石のように美しく輝き、昔の人が、「女神に捧げるもの」と神聖視したのが、判る気がする。
<味のある幹>
ザクロには「ねじり幹」と呼ばれる幹がねじれる性質があり 自然にも、ねじれるが、人工的に行ったりもするので、どう形を造っていくか、盆栽家の腕の振るいどころとして、好まれるようである。

<時代を越えて語り伝える>

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老木になると褐色の幹にはコブの様な突起が出来、長い年月の風格が備わってくる。
彦根藩井伊家の出先として彦根藩世田谷領に都内唯一の代官屋敷は、大場代官屋敷とも言われるが立派なザクロの樹があり、幹の部分から老木であった。
此処、佐藤彦五郎邸も根の部分が二股に別れ写真のようなコブの突起が見られ、明らかに老木であることが判る。
年老いた爺ちゃんも婆ちゃんが、如何にも皺(しわ)が一杯で、長い年月、労苦を積み重ね、老成化した姿を見るようである。

この老木も時期になると鮮やかに真っ赤な花が咲き、それが熟成され、大きなザクロに成長する。
果たしてこの老木は如何程の樹齢なのであろうか?勝手な妄想が生まれる。

慶応元年、歳三は京都土産を持参しての文久3年以来の実家帰りである。佐久間象山の書を佐藤家への土産し、二日間泊まり、4月15日ザクロ樹に見送られ日野を去る。成熟したザクロの真っ赤な色は倒幕に揺れる激動の渦に巻き込まれていく新選組姿を表しているようである。

彦五郎とおのぶさんとの間には4男、2女の子宝に恵まれたのも、このザクロからの奇縁から、少なくともご縁があったのであろうか?
その子供たちも、明治、大正、昭和と存命されている方もおられ、貴重な果物としてザクロを食されておられるであろう。
この老木のザクロが時代を越えて、色々語り伝えてくれる。

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駆り立てられ、草津宿へ

東海道を東へ、京から二番目の宿が草津宿である。近くに琵琶湖を抱え、東海道と中山道が分岐する追分に京と江戸を結ぶ、要所として、街道には古い家並みの宿場街がその風情を残している。自然で西日本で一番住みたい街とも言われている。
江戸と京を結ぶ幹線路拠点の一つとして、人の往来も多く、2軒の本陣と2軒~4軒の脇本陣と、70~130軒の旅籠が大きな宿場の代表でであることを物語る。
2軒の本陣のうち、田中九蔵本陣は無くなったが、田中七左衞門本陣は国内最大級の本陣として残されている。
時代を追って馴染みのある所では慶長六年(1601)に家康公と配下の大名と役人が宿泊、東海道を翌年は中山道を使っている。
嘉永6年(1853)10月に篤姫(天璋院)が九蔵本陣に泊まっている。
文久元年(1861)10月皇女和宮が昼食を取り休憩、宿泊は一つ先の守山宿であった。
慶応元年(1865)5月土方歳三ら新選組が江戸から京へ向かう途中で宿泊している。

時代の中で、登場する人物は、将軍の輿入れで、或いは仲間作りなど、それぞれ、歴史上の行方を左右する大きな意義・役割を持ちで東西を、移動している。書籍やドラマで、馴染みの人物はどんな立ち姿で、或いはどんな想いで休憩、或いは泊まったか、残されているものから、時代の風勢を確かめたくなった。

◇草津追分の姿                     <クリックで拡大>

Canvas11現地に行ってみて、トンネル有り、干上がった天井川が有り、予備知識がないと、さっぱり判らない地勢であり。
現地の案内阪で漸く、古道の状況が掴めた。
今は改修され、川の姿を留めるだけの旧草津川を挟んで、手前側が東海道、川向こうが中山道である。東海道は川向かって、右折し、川沿いに東海道が走る。この分岐点が追分で、東海道沿いに多数の古い家並みを残している。草津宿の中核となる、本陣・脇本陣が群れなし、中心街であることが判る。

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写真は追分で、正面のコンクリートが旧中津川の護岸に当たる。旧草津川を潜る形のトンネルで、中山道側に繋がる。右側の石積み沿いに道があり、これが東海道になる。
トンネルの上が旧草津川で、渡し船で中山道を渡っていたが、このトンネルが川下を潜り、輸送の役割を担っている。
この分岐の部分が大きな役割を果たし、道しるべとなる灯篭に中山道、東海道の道案内が刻まれ、高札場のミニモデルが立っている。
時代は異なるが、京を出発した篤姫・和宮は同じ東海道で草津宿まで、来たが篤姫はこの追分を起点に右側へ、和宮は真っ直ぐ、川を渡り、中山道へそれぞれ別ルートで江戸へ向かう。
東海道側は大きな川を越えるため、出水による川止めがあるが、中山道側は数箇所の険しい峠道を越えるが、川止めがない。本街道と比べると人通りが少なく、犯罪に巻き込まれる可能性が少ないといった事情から、女性旅行者に選ばれ「姫街道」とも呼ばれた。

◇最大級の本陣

Image11<規模>
敷地が1305坪、屋敷の間口が14間半、建物の建坪468坪、39室の大規模な構えであ った。玄関広間 現存する本陣の中では最大級で、国の指定史跡である。
格式を重んじる厳粛な建物の雰囲気、例え高位の武家集団の旅でも、厳然としたルールの元で、利用した。
<賑わいの中、予約制>
玄関前の道が東海道で、江戸から始まって52番目の宿、隣が大津で53番目となる。中山道が分岐しており、大変賑わい宿泊も予約制であった。予約は1年前から受付、遅くとも50日前には取っていたそうである。予約のために当家に訪れ、成立すると本陣は請書とともに、部屋割りの為の本陣屋敷絵図を渡した。
そんな予約も天候異変で、川止めや旅の行程変更なども生まれ混乱の収拾に苦慮したようである。
<利用者負担>
1)部屋割り
泊まりの数日前に宿割り役人がやってきて部屋割りを行った。階級制度を重視した武家世界に大事な采配であったようだ。、
2)自前の関札
立派な構えの門をくぐると、玄関広間には関札が並べられていた。 
大名、公卿、幕府役人が宿を利用中にその内容により、名前の後に宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)が付記し、例えば「松平出羽守宿」など関札が掲示された。
近衛、九条、鷹司、二条、一条など摂政関白役は特別扱いで敬称を付けたが、それ以外は呼び捨てで松平出羽守宿、毛利安房守宿などと呼称された。
関札はお客が持ってきて、使い捨てのため、皆置いていった。465枚、紙で3千枚位ある。
3)自前の食事
台所役人を連れてきて家来の「御膳掛り」が食事を作った。一歩外へ出れば、災禍に晒され、身を守るのも必然であろう。
毒害を警戒するため、自前で安心、安全を大事にした。
泊となると本陣任せで一泊二食事付きである。一日40キロの行程に午前に一回、午後に一回の休憩を取る。ちょっと休む場合は小休みとなる。
◇二人の将軍への嫁入り
将軍の嫁入りに二人の姫が草津宿本陣を宿泊、休憩している。篤姫は御用人たちと老女他僅か数十人規模の集団であったが、皇女和宮は総人数は警備・人足まで含め10、000とか25,000人と言われる桁違いのものであった。
片や大名の養女と皇室の身分の違いも、あるが、和宮は公武合体の象徴としての降嫁で、攘夷派の襲撃を警備強化などで随行者が膨らんだ。行列の通過時は住民の外出禁止、見物御法度であった。道中の毎日、「宮様のご機嫌よくお目覚め」と早馬で江戸に知らされる位に手厚い加護の元の嫁入りであった。

◇新選組、土方歳三他草津宿、宿泊
新選組は将軍東帰で攘夷の先兵の心積もりが果たせず、市中警護は望む任では無いと隊士が集団で脱走し、浮足たっていた。
態勢立て直す間もなく僅か40名程で池田屋事件で戦果を上げ、強固な組織作りに迫られた。
壬生結成以来、相次ぐ脱走に、隊士募集に藤堂平助が京都を出立し江戸に向かっている。
その結果、伊東甲子太郎とその実弟鈴木三樹三郎他伊東の関係で13人、横倉甚五郎他、総員24名が入隊する。
翌、慶応元年、歳三は隊士募集で後を追うように、江戸に向かったが、藤堂、中島登で各地から応募者は募っていた。
4月27日、歳三は伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂ら新人隊士52名を引き連れての江戸を立ち、5月9日、草津宿へ宿泊する。その間、京阪でも隊士募集しており隊士総数は一気に140人ほどに膨れ上がる。
新選組の隊士募集の成果に意気揚々の屯所戻りの凱旋であったが、同床異夢であったのであろうか、倒幕に揺れる激動の世界に新選組も抗争の渦に巻き込まれていく。
その後、一緒に同行した、伊東甲子太郎は主義の違いから御陵衛士として旗揚げし、新選組を離れ、試衛館以来の仲間、藤堂も付いて行き、二人とも殺害される。

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