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駆り立てられ、草津宿へ

東海道を東へ、京から二番目の宿が草津宿である。近くに琵琶湖を抱え、東海道と中山道が分岐する追分に京と江戸を結ぶ、要所として、街道には古い家並みの宿場街がその風情を残している。自然で西日本で一番住みたい街とも言われている。
江戸と京を結ぶ幹線路拠点の一つとして、人の往来も多く、2軒の本陣と2軒~4軒の脇本陣と、70~130軒の旅籠が大きな宿場の代表でであることを物語る。
2軒の本陣のうち、田中九蔵本陣は無くなったが、田中七左衞門本陣は国内最大級の本陣として残されている。
時代を追って馴染みのある所では慶長六年(1601)に家康公と配下の大名と役人が宿泊、東海道を翌年は中山道を使っている。
嘉永6年(1853)10月に篤姫(天璋院)が九蔵本陣に泊まっている。
文久元年(1861)10月皇女和宮が昼食を取り休憩、宿泊は一つ先の守山宿であった。
慶応元年(1865)5月土方歳三ら新選組が江戸から京へ向かう途中で宿泊している。

時代の中で、登場する人物は、将軍の輿入れで、或いは仲間作りなど、それぞれ、歴史上の行方を左右する大きな意義・役割を持ちで東西を、移動している。書籍やドラマで、馴染みの人物はどんな立ち姿で、或いはどんな想いで休憩、或いは泊まったか、残されているものから、時代の風勢を確かめたくなった。

◇草津追分の姿                     <クリックで拡大>

Canvas11現地に行ってみて、トンネル有り、干上がった天井川が有り、予備知識がないと、さっぱり判らない地勢であり。
現地の案内阪で漸く、古道の状況が掴めた。
今は改修され、川の姿を留めるだけの旧草津川を挟んで、手前側が東海道、川向こうが中山道である。東海道は川向かって、右折し、川沿いに東海道が走る。この分岐点が追分で、東海道沿いに多数の古い家並みを残している。草津宿の中核となる、本陣・脇本陣が群れなし、中心街であることが判る。

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写真は追分で、正面のコンクリートが旧中津川の護岸に当たる。旧草津川を潜る形のトンネルで、中山道側に繋がる。右側の石積み沿いに道があり、これが東海道になる。
トンネルの上が旧草津川で、渡し船で中山道を渡っていたが、このトンネルが川下を潜り、輸送の役割を担っている。
この分岐の部分が大きな役割を果たし、道しるべとなる灯篭に中山道、東海道の道案内が刻まれ、高札場のミニモデルが立っている。
時代は異なるが、京を出発した篤姫・和宮は同じ東海道で草津宿まで、来たが篤姫はこの追分を起点に右側へ、和宮は真っ直ぐ、川を渡り、中山道へそれぞれ別ルートで江戸へ向かう。
東海道側は大きな川を越えるため、出水による川止めがあるが、中山道側は数箇所の険しい峠道を越えるが、川止めがない。本街道と比べると人通りが少なく、犯罪に巻き込まれる可能性が少ないといった事情から、女性旅行者に選ばれ「姫街道」とも呼ばれた。

◇最大級の本陣

Image11<規模>
敷地が1305坪、屋敷の間口が14間半、建物の建坪468坪、39室の大規模な構えであ った。玄関広間 現存する本陣の中では最大級で、国の指定史跡である。
格式を重んじる厳粛な建物の雰囲気、例え高位の武家集団の旅でも、厳然としたルールの元で、利用した。
<賑わいの中、予約制>
玄関前の道が東海道で、江戸から始まって52番目の宿、隣が大津で53番目となる。中山道が分岐しており、大変賑わい宿泊も予約制であった。予約は1年前から受付、遅くとも50日前には取っていたそうである。予約のために当家に訪れ、成立すると本陣は請書とともに、部屋割りの為の本陣屋敷絵図を渡した。
そんな予約も天候異変で、川止めや旅の行程変更なども生まれ混乱の収拾に苦慮したようである。
<利用者負担>
1)部屋割り
泊まりの数日前に宿割り役人がやってきて部屋割りを行った。階級制度を重視した武家世界に大事な采配であったようだ。、
2)自前の関札
立派な構えの門をくぐると、玄関広間には関札が並べられていた。 
大名、公卿、幕府役人が宿を利用中にその内容により、名前の後に宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)が付記し、例えば「松平出羽守宿」など関札が掲示された。
近衛、九条、鷹司、二条、一条など摂政関白役は特別扱いで敬称を付けたが、それ以外は呼び捨てで松平出羽守宿、毛利安房守宿などと呼称された。
関札はお客が持ってきて、使い捨てのため、皆置いていった。465枚、紙で3千枚位ある。
3)自前の食事
台所役人を連れてきて家来の「御膳掛り」が食事を作った。一歩外へ出れば、災禍に晒され、身を守るのも必然であろう。
毒害を警戒するため、自前で安心、安全を大事にした。
泊となると本陣任せで一泊二食事付きである。一日40キロの行程に午前に一回、午後に一回の休憩を取る。ちょっと休む場合は小休みとなる。
◇二人の将軍への嫁入り
将軍の嫁入りに二人の姫が草津宿本陣を宿泊、休憩している。篤姫は御用人たちと老女他僅か数十人規模の集団であったが、皇女和宮は総人数は警備・人足まで含め10、000とか25,000人と言われる桁違いのものであった。
片や大名の養女と皇室の身分の違いも、あるが、和宮は公武合体の象徴としての降嫁で、攘夷派の襲撃を警備強化などで随行者が膨らんだ。行列の通過時は住民の外出禁止、見物御法度であった。道中の毎日、「宮様のご機嫌よくお目覚め」と早馬で江戸に知らされる位に手厚い加護の元の嫁入りであった。

◇新選組、土方歳三他草津宿、宿泊
新選組は将軍東帰で攘夷の先兵の心積もりが果たせず、市中警護は望む任では無いと隊士が集団で脱走し、浮足たっていた。
態勢立て直す間もなく僅か40名程で池田屋事件で戦果を上げ、強固な組織作りに迫られた。
壬生結成以来、相次ぐ脱走に、隊士募集に藤堂平助が京都を出立し江戸に向かっている。
その結果、伊東甲子太郎とその実弟鈴木三樹三郎他伊東の関係で13人、横倉甚五郎他、総員24名が入隊する。
翌、慶応元年、歳三は隊士募集で後を追うように、江戸に向かったが、藤堂、中島登で各地から応募者は募っていた。
4月27日、歳三は伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂ら新人隊士52名を引き連れての江戸を立ち、5月9日、草津宿へ宿泊する。その間、京阪でも隊士募集しており隊士総数は一気に140人ほどに膨れ上がる。
新選組の隊士募集の成果に意気揚々の屯所戻りの凱旋であったが、同床異夢であったのであろうか、倒幕に揺れる激動の世界に新選組も抗争の渦に巻き込まれていく。
その後、一緒に同行した、伊東甲子太郎は主義の違いから御陵衛士として旗揚げし、新選組を離れ、試衛館以来の仲間、藤堂も付いて行き、二人とも殺害される。

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