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斬首の介錯人、横倉喜三次

赤報隊の相楽総三や新選組近藤勇を自らの手で斬首されるまでの過程と生々しい事実を追って見る。

◇横倉喜三次

文政7年(1824)、旗本岡田家の臣横倉政能の嫡子として美濃国大野郡揖斐(いび)で誕生する。
天保5年父病死で、11歳で家督を相続する。
吉田久兵衛に剣術を学ぶ。
天保11年(1840)、17歳で江戸勤番となる。神田小川町の小野派一刀流、酒井家に入門する。
天保14年美濃に帰省し、弘化2年同門の梅田棒太郎光太の門人に入り修行する。
剣術以外に柔術、砲術を学び、武術全般にも技術を磨き、岡田家の家臣として剣術、柔術の世話方に抜擢され、岡田家の武術指南役、となる。神道無念流は皆伝。明治27年 71歳で没する。

慶応4年(1868)2月美濃大垣に到着した東山道軍先鋒 総督岩倉具定に勤皇を誓った岡田家は家老柴山理太郎以下43名が従軍する。喜三次は岡田隊の副隊長として従軍する。

1)東山道軍として諏訪で立ち取り

□赤報隊活動~捕縛、処刑
◇「赤報隊」の結成
慶応4年(1868)1月 赤心をもって国恩に報いるために活動する」と言う意志から「赤報隊」と名付けられ、東山道を行く東征軍の先鋒隊として近江国松尾寺山で結成される。
公郷の綾小路、滋野井の二人を盟主に三隊に構成される。一番隊の隊長は相楽総三、二番隊の隊長は元新選組の鈴木三樹三郎、三番隊は水口藩士の油川錬三郎である。鈴木三樹三郎は新選組を離脱した高台寺党で、暗殺された伊東甲子太郎の実弟である。更に、高台寺党の仲間で阿部十郎は大坂から京へ向かう途中の新選組局長近藤勇を狙撃し、重傷を負わせた人物である。

◇太政官へ嘆願書と建白書の提出
相楽は先鋒隊の出発に先立って、京都に戻り、太政官へ嘆願書と建白書を提出している。
建白書は民衆を官軍に引きつけようとする政治的意図もあったが農民の困窮から救うための年貢半減であった。
暫くして太政官から「年貢半減令」 が布告された。
「赤報隊」は屯所に一部を残し、彦根、柏原、美濃の岩手に進軍し、行く先々では年貢半減を布告した高札を立てている

◇太政官の軌道修正
相楽総三は建白した「年貢、半減令」で民心に応えたが、これを実施すると財政に欠陥を生じ、太政官は許可した布告令を取り止めた。一方では設楽ら草莽が力をつけ競合すること危惧した。更に本隊から東海道行きを命令し、二番隊、三番隊は、応じ京に戻ったが、一番隊は無視して東山道へ進軍してしまった。
そんな背景の中で赤報隊が金品を略奪し統制を無視していると噂が流され、新政府は赤報隊切り捨て策に転じ、松尾寺に残ってい公郷の滋野井の一隊は近江から伊勢に向かうが捕縛され8名が処刑される。
一番隊は大砲6門、小銃隊70人他人足を含め大凡220人であったと言われているが、2月6日、下諏訪に到着する。相楽は信州諸藩に勤皇を解き、誓約書と軍資金、食料、武器などを出させた。所が東山道総督府から信州諸藩に赤報隊はにせ官軍であり、取り押さえを命じるの布告文が回っていた。
◇相楽 以下、隊士捕縛
3月1日、桶橋(とよはし)に居る相楽に、下諏訪に陣を構える東山道総督府の岩倉具定(具視の子)から軍議出席の呼び出しがかかる。相楽は剣客、大木四郎を伴って下諏訪に向かった。 総督府の本陣の門を入り、玄関に入ったところ、総督府側のわなにかかり数人に囲まれ二人は捕縛された。
翌日、桶橋に残留の赤報隊の総督府の本陣への出頭命令の書状を書き届けられた。

隊士は隊長が軍議で呼ばれたので、疑いもなく、下諏訪に向かった。脇本陣では、二、三人ずつ呼び出され中に入ったが拘禁され、外に居る連中も、総督府兵にいっせいに包囲され、有無を言わさず縛り上げられた。

<東山道総督府が陣をはり、相楽総三と大木四郎が捕まった下諏訪宿本陣(岩波家)>

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◇「にせ官軍」と処刑
設楽以下54人はただ一度の取り調べもなく、二昼夜、下諏訪神社の境内で並木に縛られ氷雨の中さらされた。3月2日、相楽以下赤報隊幹部8名は礎田の刑場に移され、「赤報隊はご一新の時節に乗じ、官軍先鋒を偽り諸藩や農民を脅かした」と言う罪によるもので処刑を宣告され、、無言のうちに斬られていった。
「にせ官軍」であると言う罪文をちらりと見せただけで、有無を言わせず残酷な処刑であった。
江戸騒乱に動員され、倒幕の前線で利用され、今度はご維新のために江戸城開城のお先棒を担がされ、挙げ句に果ての処刑であった。
相楽は同志の最期をじっと眺め、死の座になると皇居の方角に向かって、遙杯(ようはい)し、太刀取りにに「しっかりやれ」と声をかけた。振り降ろした刀に相楽の首は三尺飛び、地に音をたてて落ちた。
処刑場所は下諏訪の外れにある礎田と言われる刑場であるが、その呼称は現在使われていない。
砂利を敷きつめた広場に魁塚があり、顕彰碑とも併せ、墓が立っている。

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昭和3年、相楽総三の孫、木村亀太郎と、赤報隊関係者の奔走によって、資料の収集に半世紀余りも努力され、にせ官軍と言う汚名は晴らされ、相楽総三に「正五位」が贈られた。

東山道総督は斬首8名を含む54人の処分を行った後、3月4日下諏訪を立ち、江戸へ向かった。

2)板橋で近藤勇、 立ち取り
3月4日下諏訪を立ち、中山道で江戸へ向かい、13日板橋に着陣する。
□新選組の結成~活動~勇捕縛
◇浪士組結成
天保6年(1835)、時正にペリー来航で揺れる国家の危機に幕府の求心力も低下していた。倒幕を打ち出す薩長と幕府を支える佐幕派の会津藩との闘争が激化していく。
そんな折り、上洛する将軍警備に剣術好きの若者が、 江戸小石川の伝通院に250~300人が集められ、清河八郎山岡鉄舟らに引率され中山道を通り京都に向かった。
清河は生麦事件の始末で英国からの戦争に供え、攘夷の護りにつきたく江戸帰還の提案し、朝廷から許可され、浪士組は江戸に帰還する。
江戸帰還には反対と近藤勇、芹沢鴨が異を唱え、その結果京で二十二人が残留となり、会津藩預かりとなり、新選組の母体となる。
◇新選組
放火テロなど京の治安維持に活躍し、会津藩から評価され、壬生浪士組から晴れて、「新選組」を名乗り、近藤勇局長、土方歳三副長が中心になって、 幕府を支える。
慶応4年(1868)1月、鳥羽幕府軍とる薩摩軍が衝突し、国内を内戦とする戊辰戦争が始まる。
刀槍を中心とした幕府軍の装備では、銃火器を中心とした薩摩軍相手にまともな戦いになれず、幕府軍は総 崩れとなり、大阪方面へと退却し、新選組も伏見奉行所を放棄する。
鳥羽伏見の戦いで破れた旧幕府軍は江戸に引き揚げ、配下の新選組も富士山丸に乗って帰ってくる。
慶応4年3月、江戸城を目指す新政府軍を阻止するため、新選組は新たに甲陽鎮撫隊の名前で、土佐軍を主体とした東山道軍のと勝沼で交戦するが破れ江戸に敗走する。
◇勇捕縛
新選組は下総流山へ転陣し武装訓練して、会津に向かう予定であった。野外訓練で僅か数人残る長岡屋で東征軍に囲まれてしまう。近藤勇は出頭し、武装解除し越谷本陣に連行され、翌日板橋の本営に護送される。
大久保大和と名乗っていたが、板橋で薩摩兵として従軍した元御陵衛士の加納らに近藤勇を見破られる。
◇勇処刑
総督を護衛し、江戸因習邸にあった喜三次は4月25日勇斬首の立ち取りを命ぜられる。
一方の勇は板橋本陣で縛りに付いた後、岡田家に預け替えとなった。25日、身柄を移された問屋場を出た勇は鉄砲 隊に護衛され、駕籠で平尾一里塚の刑場に運ばれた。
斬首の太刀取りは二人用意され、その中の一人が「やっ」と言うと一太刀で斬ってしまう見事な腕前であった。
勇は喜三次が太刀取りを命じられることを喜び、「ながながご厄介に相成った」の一言を残し、首を差し伸べた。 多くの群衆が見守る中、彼は静かに「諸悪本来無明、当期実・・・・」の*偈(げ)を唄え終わると、佩刀二王清綱に より一刀で近藤の首を落とした。
喜三次は同年7月22日揖斐に帰り、以後も武術を持って家臣の育成に努めたが、終生、勇の命日には贈られた刀を出して香華を供え、その冥福を祈ったと、『岡田家維新始末記』に記されている。
*偈とは経などの中に仏徳を賛辞し、教理を述べたもの、またそれに準じて仏教の真理を詩の形で述べたもの
<板橋の近藤勇墓。勇が処刑された「平尾一里塚」には住宅が建ち、残されものがない>

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横倉喜三次によって斬り落とされた勇の首は拾い上げられ新しい手桶で洗い清められている。
此処迄の様子を見届けた勇五郎は上石原の勇の生家宮川家に急を つげるために踵(きびす)を返した。
首級は板橋の一里塚に以下の一文が記された高札が用意され 晒された 。

◇ 晒された高札
近藤 勇
右者(みぎは)元来浮浪之者にて、初め在京新選組之頭を勤め、 後に江戸に住居いたし、大久保大和と変名し、甲州並びに下総流山において官軍に手向ひいたし、 或いは徳川の内命を承り候等と偽り唱へ、 不容易企(よういならざるくわだて)に及び候段、 上は朝廷、下は徳川之名を偽り候次第、その罪数ふるいに暇(いとま)あらず、よって死刑に行い、梟首(きょうしゅ)せしめる者也。

◇京都三条河原にて
勇の首は塩漬けにさえた上、岡田藩の北島秀朝によって京へ送られ、改めて三条河原に晒される羽目になった。
数年来新選組局長として京洛の人々の畏敬を集めて来た勇だけに、良きにつけ悪しき大きな衝撃を人々に与えず おかず、連日黒山の人だかりであった。

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病魔との闘いに高杉晋作を思う

今年(2015年)の夏以降は目の手術、胃の手術と続いてしまい病魔との連続の戦いであった。
経験の無い変事に、一時はどうなるかと思いつつ、不安な毎日であった。

胃の手術後、内視鏡の検査で術後の経過も良好と、三分粥から始まり、正飯に切り換え8日後、無事退院した。
ところが2日後、下血が始まり、再び暗黒の雑居房に戻ってしまった。
術時の出血が便に交じり、便は酸化、発酵し猛烈な匂いを発し、排泄まで1週間以上続いた。
その出血からか、ヘモグルビンも下がっており貧血気味であった。トイレで血圧が降下し、脳への酸素供給が一時的に絶たれ、意識を失い床面に昏倒した。
混濁した世界から徐々に意識が戻り、初めて、口から出血していることが判った。
CTで脳を調べたが、悪いのは昔のままで、致命的な損傷はなく、転倒時の外傷と判った。
今になって、その因果関係が詳らかにされ、回復の方向に向かいほっと安堵している。

しかし、"口から血"の時ならぬ変事に一瞬浮かんだのは武勇に秀で、病に倒れた奇兵隊の高杉晋作であり、新選組の沖田総司の世界であった。
その追い詰められた時期に、重なるものあり、妄想の世界に、色々駆けめぐってしまった。

                    <高杉晋作>

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晋作は辞世まで用意し、淡々と最期を迎える世界が司馬遼太郎作品に残されており、改めて心打つものがあり、その部分を拾い上げてみた。

<司馬遼作品から>

◇労咳の宣告
下関の医者から労咳(肺結核)の診断が下された。
奇兵隊から大きな鯉が運ばれ、この世で最も飲みづらい生き血を朝夕飲んでいる。
奇兵隊屯所前の家から精を養う、うなぎと熱さましの氷砂糖を持って見舞い、口にした。
晋作の発病は小倉落城以前で、風浪を衝いて海峡を押し渡り、小倉戦争を指揮した。
高熱は下がったが衰弱している。

        <奇兵隊の攻撃で陥された小倉城>

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◇急速な衰え
晋作は咳をし、痰を紙に吐くと、血がまじり肺炎と自覚する。
京の政界は幕軍の敗退、将軍家茂の死、幕長戦争の止戦論議で井上聞多ら長州政客は忙殺され見舞いも出来ず、晋作は病気静養に専念する。
京に送った手紙には病床で自分の手足を眺め、これが生きた手足かと嘆き、更に喀血に驚いている。

異様な病体に下関郊外、桜山の麓の独立家屋「東行庵」に移る。
晋作は再起をしたかった。これほど人の手綱を嫌う、晋作は人変わりしたように医者の言うことを聞いた。食欲もなく一杯の芋粥が精一杯であった。

◇最後の花
長州の亡国の危機を救った男をこのまま書生の身分で終わらせたくないと言う藩主の配慮から重大な処置を取った。

高杉家は父、小忠太が当主であり、晋作は新たに100石、谷家を立たせ継がせた。
晋作は喜び、重態に関わらず、馴染みの酒楼の名を口走り、病床から太刀を杖にして立ち上がった。とめてもきかず駕籠に乗り。晋作の生涯の思い出造りに、最後のどんちゃん騒ぎをやってみたかった。駕籠が半丁も走らぬうちに駕籠の中で便を漏らし、もはや遊べる体力が残っていないことを知り、駕籠を戻させ、再び病床についた。
その日から容体は悪化した。

◇辞世を造る
皆、燈火を寄せ、晋作の枕頭に集まった。晋作昏睡状態であったが、夜がまだ明けぬ頃、不意に瞼を明けて当たりを見た。意識が濁っていないことが誰の目にもわかった。
晋作は筆を要求し、筆を持たせた。
晋作は辞世の歌を書く積もりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で書き始めた。
『おもしろき こともなき世を
おもしろく』

とまで書いたが力尽き筆を落としてしまった。
晋作にしてすれば本来おもしろからぬ世の中を随分面白く過ごしてきた、最早なんの悔いもない。
晋作のこのしり切れとんぼの辞世に下の句を付けてやらなければならないと思い、

「すみなすものは 心なりけり」と見舞いの尼さんが書き、晋作の上にかざした。
晋作は今一度、目を覚まし、「・・・面白いのう」と微笑、再び昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。

~~~~~~~~~~~~~
と、言うことで完結している。
今回、目の前の凶事に混乱したが、結果的に晋作や総司の後を追うことも無く、粛々と退院日を迎えられた。当日は朝風呂で浴び、それまでの垢を落とし、もう戻るまいと、娑婆の空気を思い切り吸った。
晋作のように、再び戻されることはなかった。

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新選組増強の隊士募集

◇隊士の離脱
新選組は攘夷の先兵の心積もりで、大きなステータスでもあった。その、攘夷断行を下すのは将軍の差配に掛かっていた。所が将軍は攘夷断行の命が下されないまま、東帰してしまった。
新選組は、攘夷問題が先送りされ、目標も無く、徒に市中警護は望む任では無いと隊士が集団で脱走し、浮足たっていた。
更に、池田屋事変を迎える前に隊内に病人も多く、前線に出られる隊士に限りがあった。

◇池田屋事件で幕府から評価
そんな矢先に態勢立て直す間もなく池田屋事件が発生し、僅か40名程で華々しい戦果を上げてしまった。
池田屋事件の功績で新選組は評価され幕府から500両の報奨金、朝廷からも100両の慰労金が授けられる。
勇や歳三に幕臣としての取り立て高位の身分も用意の上、見回組の召し抱えの申し入れがあったが、辞退した。
新選組は浪士団として幕府内部に組込まれず、身軽な立場として存在する道を選んだ。

◇隊士募集で続々と江戸へ
新選組は強固な組織作りに迫られた
「兵は東国に限り候」・・・文久3年5月近藤書簡
壬生結成以来、相次ぐ脱走に勇が出した結論で、8月、隊士募集に藤堂平助が京都を出立し江戸に向かっている。
勇も後を追って江戸に向かった。
その結果、藤堂は北辰一刀流で面識のあったの伊東甲子太郎とその実弟鈴木三樹三郎他伊東の関係で10数人が入隊する。
勇の天然理心流、横倉甚五郎他、大石鍬次郎など、入隊を誘い総員24名が入隊する。
伊東甲子太郎が上洛した10月は幕府が征長が直前の時期で、それに備える新選組は70人程の集団になった。

◇人集めに成功し、凱旋の屯所帰り

      <歳三が寝てしまった、日野宿、佐藤家の式台付き玄関口>04110004a1

翌、慶応元年、3月歳三は隊士募集で後を追うように、伊東甲子太郎、斉藤一と帯同し、江戸に向かった。
既に江戸に居た藤堂は、天然理心流門人の中島登の協力を得て各地から応募者は募っていた。
江戸での宿舎は伝通院に近い、小石川町の新福寺であった。
歳三は江戸の仕事が一段落した後、日野に向かう。

佐久間象山の七言絶句の書を手土産に佐藤家に訪れている。
この時、佐藤家の式台付玄関の部屋で昼寝をしたと言われている。当初の目的であった隊士募集の目途が立ち、江戸で忙殺された毎日に一段落した。

我が家のような佐藤家に気を緩め 長旅の疲れもあって、ほっとした、束の間の休息ではなかろうか・・・。

◇江戸から京へ草津宿で投宿
4月27日、歳三は伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂ら新人隊士52名を引き連れての江戸を立ち、5月9日、草津宿へ宿泊する。

                        <草津宿本陣>

Kusatsusyuku3031    <巨大な規模の草津宿本陣、中廊下に延々と部屋が続く>

C2ea371111<投宿した歳三、伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂らの宿帳が生生しく残る>

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その間、京阪でも隊士募集しており隊士総数は一気に140人ほどに膨れ上がる。
新選組の隊士募集の成果に意気揚々の屯所戻りの凱旋であったが、同行した幹部連中は同床異夢であったのであろうか、抗争の渦に入っていく。

◇御陵衛士旗揚げ
その後、一緒に同行した、伊東甲子太郎は主義の違いから藤堂平助らと御陵衛士(高台寺党)として旗揚げし、新選組を離れる。高台寺塔頭(たっちゅう)の月真院を屯所とする。
薩摩側と接触し、薩摩側に何とか付きたいと、新選組の看板を降ろし、新選組の離別を証明評価してもらおうと勇の殺害を計画する。しかし、密偵として、御陵衛士に混じったた斉藤一を通じて、計画が新選組に漏れてしまう。

慶応3年(1867)11月伊東が油小路で新撰組に殺害される。
月真院に居た御陵衛士が伊東の遺体を引き上げるときに待ち伏せした新選組に惨殺される。
その時に亡くなった御陵衛士一人が、 藤堂であった。
試衛館以来の仲間であり、沖田総司、永倉新八、斎藤一とともに近藤四天王とも称され、池田屋に最初に飛び込んだ、のも藤堂であった。そんな仲間意識から、勇の意向を受けた永倉新八が逃がそうとしたが、事情を知らない隊士に藤堂は殺害され伊東の後を追ってしまった。

こうして、かっての仲間造りに、尽力し、大きく育って行った新選組もやがて、激しい抗争の中、離合集散し 倒幕に揺れる激動の渦に巻き込まれていく。

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