病魔との闘いに高杉晋作を思う
今年(2015年)の夏以降は目の手術、胃の手術と続いてしまい病魔との連続の戦いであった。
経験の無い変事に、一時はどうなるかと思いつつ、不安な毎日であった。
胃の手術後、内視鏡の検査で術後の経過も良好と、三分粥から始まり、正飯に切り換え8日後、無事退院した。
ところが2日後、下血が始まり、再び暗黒の雑居房に戻ってしまった。
術時の出血が便に交じり、便は酸化、発酵し猛烈な匂いを発し、排泄まで1週間以上続いた。
その出血からか、ヘモグルビンも下がっており貧血気味であった。トイレで血圧が降下し、脳への酸素供給が一時的に絶たれ、意識を失い床面に昏倒した。
混濁した世界から徐々に意識が戻り、初めて、口から出血していることが判った。
CTで脳を調べたが、悪いのは昔のままで、致命的な損傷はなく、転倒時の外傷と判った。
今になって、その因果関係が詳らかにされ、回復の方向に向かいほっと安堵している。
しかし、"口から血"の時ならぬ変事に一瞬浮かんだのは武勇に秀で、病に倒れた奇兵隊の高杉晋作であり、新選組の沖田総司の世界であった。
その追い詰められた時期に、重なるものあり、妄想の世界に、色々駆けめぐってしまった。
<高杉晋作>
晋作は辞世まで用意し、淡々と最期を迎える世界が司馬遼太郎作品に残されており、改めて心打つものがあり、その部分を拾い上げてみた。
<司馬遼作品から>
◇労咳の宣告
下関の医者から労咳(肺結核)の診断が下された。
奇兵隊から大きな鯉が運ばれ、この世で最も飲みづらい生き血を朝夕飲んでいる。
奇兵隊屯所前の家から精を養う、うなぎと熱さましの氷砂糖を持って見舞い、口にした。
晋作の発病は小倉落城以前で、風浪を衝いて海峡を押し渡り、小倉戦争を指揮した。
高熱は下がったが衰弱している。
<奇兵隊の攻撃で陥された小倉城>
◇急速な衰え
晋作は咳をし、痰を紙に吐くと、血がまじり肺炎と自覚する。
京の政界は幕軍の敗退、将軍家茂の死、幕長戦争の止戦論議で井上聞多ら長州政客は忙殺され見舞いも出来ず、晋作は病気静養に専念する。
京に送った手紙には病床で自分の手足を眺め、これが生きた手足かと嘆き、更に喀血に驚いている。
異様な病体に下関郊外、桜山の麓の独立家屋「東行庵」に移る。
晋作は再起をしたかった。これほど人の手綱を嫌う、晋作は人変わりしたように医者の言うことを聞いた。食欲もなく一杯の芋粥が精一杯であった。
◇最後の花
長州の亡国の危機を救った男をこのまま書生の身分で終わらせたくないと言う藩主の配慮から重大な処置を取った。
高杉家は父、小忠太が当主であり、晋作は新たに100石、谷家を立たせ継がせた。
晋作は喜び、重態に関わらず、馴染みの酒楼の名を口走り、病床から太刀を杖にして立ち上がった。とめてもきかず駕籠に乗り。晋作の生涯の思い出造りに、最後のどんちゃん騒ぎをやってみたかった。駕籠が半丁も走らぬうちに駕籠の中で便を漏らし、もはや遊べる体力が残っていないことを知り、駕籠を戻させ、再び病床についた。
その日から容体は悪化した。
◇辞世を造る
皆、燈火を寄せ、晋作の枕頭に集まった。晋作昏睡状態であったが、夜がまだ明けぬ頃、不意に瞼を明けて当たりを見た。意識が濁っていないことが誰の目にもわかった。
晋作は筆を要求し、筆を持たせた。
晋作は辞世の歌を書く積もりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で書き始めた。
『おもしろき こともなき世を
おもしろく』
とまで書いたが力尽き筆を落としてしまった。
晋作にしてすれば本来おもしろからぬ世の中を随分面白く過ごしてきた、最早なんの悔いもない。
晋作のこのしり切れとんぼの辞世に下の句を付けてやらなければならないと思い、
「すみなすものは 心なりけり」と見舞いの尼さんが書き、晋作の上にかざした。
晋作は今一度、目を覚まし、「・・・面白いのう」と微笑、再び昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。
~~~~~~~~~~~~~
と、言うことで完結している。
今回、目の前の凶事に混乱したが、結果的に晋作や総司の後を追うことも無く、粛々と退院日を迎えられた。当日は朝風呂で浴び、それまでの垢を落とし、もう戻るまいと、娑婆の空気を思い切り吸った。
晋作のように、再び戻されることはなかった。
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