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甲州古道「小原宿」そぞろ歩き

2016年は、あっと言う間に明けてしまった。
年末から年始にかけて、行事が重なったが一段落したが、酒とご馳走が身についてしまう不健康な毎日であった。体の重さの負い目もあって、歩きにかけ、甲州古道、小原宿行きに駆り立てられた。
普段、日野宿から、同じ甲州街道沿いの、残された本陣として、関わりを持ち、特別な意味合いもあって、既に何回か来ている。
JR中央線は高尾止まりであるが、そこから先は地形的にも山岳地帯に入り、乗降客も少なく、電車の本数も少なくなってしまう、風土の違いを感じる。
高尾からたったの一駅が潜るトンネルも併せて、距離以上に遠い存在になってしまう。

◇早速、旅人になる。
JR中央線が5分以上遅れていたが、高尾駅では同一のホームで向かい側の甲府方面行きはしっかり待っており、乗り換え客を収容し、瞬く間に発車する。
車窓から山深い周辺の様子を認める間もなく相模湖駅に到着する。それらしき車内案内があったようであるが、普段当たり前に開くドアーが開かず、初めて手動式に気づき、大きな押しボタンを押してドアーを開け、車外に出る。車内から出られず、そのまま載せられることもないが、ローカール運用に戸惑う、お上りさん状態である。
平日の午前中でもあってか、広い駅前ロータリーには列車が到着して間もないにも関わらず客の姿が、極僅かである。
地図で確かめ、甲州街道の旧道から、新道に合流し、舗装化された20号を江戸方面に向かう。路面の右側の欄干には眼下に切り立つ崖、満々と水を蓄えた相模ダムが一際目立つ。

◇ああ~小原宿
道中全然なかった家並みが、徐々に見えはじめ、案内標識にある小原宿に到着する。道の正面には小仏峠の姿が見え、徐々に記憶の中の数年前の姿が蘇ってくる。

         <甲州街道の先には小仏峠が覆い被さる、難所>

Image121江戸から西下する旅人は眼の前の小仏を越えての小原宿入りである。慶応4年、西から江戸へ攻める新政府軍阻止に甲府行きを目指した甲陽鎮撫隊一行も、旅装を解き、此処で一休みしたのではなかろうか・・・。
道を挟んで、両側に格子で飾られた和風建築の家並みが並び、かっての小原宿の様子を伝えている。
往時は2町半(273M)の宿に本陣、脇本陣、9軒の旅籠があり、29軒が軒を並べていた。
しかし、明治28年の大火で本陣を含む東端の4軒を除き、燃えてしまった。現在の家並みは以降に再建されたものである。それぞれ屋号を持ち宿駅を偲ばせる風情を今日に伝えている。
甲州街道で、再建とはいえ、これだけの家並みが揃っているのも貴重な存在である。
甲州街道、20号の要路として、猛烈な勢いで車が走り抜け、人の姿も見えず、何処もャッター化しているのも、寂しい限りであった。

□小原宿本陣

  <格調の高い、裾を兜にした入母屋作りの本陣建屋>

Image211当主の清水家は後北条の家来、清水隼人介で、甲州街道、小原宿が設けてからは代々、問屋と庄屋をかねていた。
建屋の北側は背面に山を抱えており急斜面になっているが、その広大な敷地を保有し、地域を代表する資産家と想像する。
近年になって、周辺が一変し、現在高い位置に走る中央高速や、JR中央本線が敷かれた。軌道等の敷地は元々清水家の敷地であったが手放された。
代々名声を誇っていた清水家も継ぐ方が居られず、熟思たる想いで、先祖が残された資産は手放され、当地から離れていった。
◇本陣建屋
建屋は県指定重要文化財であり、土間妻(建物の長手方向の端)側の裾を兜にした入母屋造りである。
              <屋根の内側は荒縄でたばねられた 茅の世界>Image311
屋根はきちんと整形された鉄板葺きであるが、内側は茅を束ね、荒縄で締めている、茅葺きであることに驚かされる。二階の天井部分に上がって見ると、その姿が確かめられる。
正面の式台が玄関口で入って左側(西側)は手入れの行き届いた築山のある庭に面する、入側を挟んで「控えの間」「中の間」次いで大名が泊まった「上段の間」に繋がる。
それぞれの客室が庭に面する開放的な造りで、季節によっては吹き抜ける風が心地よい。
建物は江戸時代の後期、18世紀末から19世紀初期の建築と言われ、200年以上の風雪に耐えてきており、かなり綻びも見受けられる。
天井と鴨居の間には通風機能を兼ねた部屋を飾る大事な欄間があるべきと考えるが、飾りもない板で仕切られていた。当時の記録もないので、推測に過ぎないが、欄間が落ちてしまったのであろうか。
北側の廊下部分の周辺の柱、骨組みは虫食い状態であった。
付近の屋根が2、3年前の大雪で抜け、1カ月位の修復に休館したようである。
建物を解体し、再建すると恐らく億以上はかかると思われるが、解体の時点で文化財の扱いからも外されるようで、末永く維持することの難しさを想い知らされる。

◇大名専用の厠(トイレ)
普段、何気なく行われている排便は健康のバロメータである。
小生が胃の手術を行い、退院後、合併症から黒色便が排泄し、1週間続いた。便に血が混じると酸化、発酵し、黒色となり、猛烈な異臭を発するショッキングな出来事を体感した。
これは術後、胃から発生した特異事例であるが、普段、摂取した食物の種類、体調などにより、便の色調の濃淡に変化を起こすことが明らかであった。
こうした医学的な考察所見は江戸時代でも、既に実践されていた一つが、小原宿本陣の大名用の厠であったのである。

    <畳敷きの空間で、沈思考の世界へ>、

Image411厠は畳二畳の広さであるが、厠の外壁下部には小窓風の開き戸がある。其処を開けると箪笥の引き出しがあって、大名の排泄物を引き出して家来が健康状態を診察していた。

             <厠の最下部に引き出しがついている>
Canvas11これは小原宿に限ったものではなく、文久元年(1861)皇女和宮が降嫁した折に宿泊している中山道の和田宿本陣に畳で敷きつめられた厠が敢えて 公開されてあった。大名行列の中にご典医が居て、検便を行い厳しく大名の健康の管理に怠りなく行われていた。こうして排泄物からの健康管理は江戸時代から何処も実施していたことが判る。
今回自らの苦い体験から、厠に纏わる事実を追ってしまい、小原宿行きに駆り立てられた変な 動機付けの一つでもあった。
◇さらば小原宿
この、寒い時期、流石、訪れる物好きも居らず、掛かりの人を独占してしまい、要所を案内していただき、じっくり和風建築の懐の深さに触れることが出来た。
帰路は再び、激しく行き交う車両の通る甲州街道を西下した。勢いのまま、古道マップを頼りに相模湖駅を通過し、行けるところまで行こうと、無計画な歩きが続いた。

         <関宿付近の秋葉神社から相模湖の眺望を楽しむ>
Image711

山沿いをのどかな自然の中、風化した地蔵さんや碑の発見に沿道の風情やら、遥か眼下の相模湖の眺望を楽しんだ古道歩きであった。一方ではその古道も、併設する新道に重なったり、離れたりするが、新道しか選択の余地の無いところでは、ダンプの爆風を浴びながらの身の危険に、のどかな雰囲気も一変する。
小原宿を出発、与瀬宿、吉野宿を通過、JRの藤野駅までの距離は7、8㎞に及び、日は落ち込み引きずる足に最早、これ以上の歩きの気力は失せていた。

☆日野宿で休息した甲陽鎮撫隊は八王子宿で昼食、小仏越えを実施し此処、与瀬で宿泊している 。
凄い馬力、だなあと思い知らされた。

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