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1年を振り返って(2015年)

毎年、4月に所属する会の活動を伝える広報資料を発行する。その一旦を担い1年を振り返って回顧の記事を纏める。その出稿責務に学校時代の苦く嫌な期末試験の準備を思い起こす。
まして、昨年の後半生は語りに尽くせない、入退院を繰り返す病魔との闘いに振り回され、廻りを見通す、余裕もなく、お断りしたが、それでもさぼりの償いに、半ば強制的に押しつけられた。
そんな言い訳は別に、1年を振り返った。
■3月「ペリー来航の地・浦賀を歩く」
◇西浦賀
浦賀は狭い浦賀湾を挟んで東西浦賀町がある。咸臨丸の修理など造船はじめ神社仏閣や浦賀奉行所跡がある。高台に登れば外国船砲撃した台場や相模湾を挟んで房総半島は手の届くところにあり、炯眼が確かめられ、濃縮した幕末に触れ合える素敵な場所である。
黒船来航以来、国防に目覚めた浦賀は艦船の造船、修理に浦賀ドックが誕生した。日本最初の洋式帆船「鳳凰丸」の建造や太平洋横断前の「咸臨丸」の修理など海国日本の造船技術が育ち中島三郎助など多くの技術者を輩出するなど輝いていた。
そのドックも閉鎖され、迎える船も無く、かっての活気を帯びた時代を伝える設備は恐竜を思わす象徴的なタワーとして虚しく立っていた

                 <ドックのタワー>

Img_6376その三郎助も、幕臣として主家徳川家に報いんと函館千代ケ岡に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に散下する。
西浦賀の代表する一つは浦賀港を一望に見渡せる愛宕山である。山頂には、母卿の地を思い舟を愛す三郎助を追慕する「中島三郎助鎮魂の碑」や木の葉の様な咸臨丸に乗り、米国に渡った、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らの名が連ねた「咸臨丸出航の碑」もある。
招魂碑から浦賀港挟ん向かい側は三郎助親子の墓が対座するように建ち、入り江を挟む用に東西からこの港を見守っている。
◇東浦賀
僅か数分で対岸に着いてしまう渡船に乗ってミニ船旅気分を味わい東浦賀に渡る。
         <東西浦賀を結ぶ連絡船> Img_6409黒船来航に熱く語る物見深い吉田松陰や佐久間象山が泊まった旅籠の徳田屋跡に影を追う。
咸臨丸は榎本艦隊として蝦夷に向かい、台風で浮遊し、清水港で新政府軍に惨殺された36人の一人、浦賀の造船技術者春山弁蔵の墓に哀れを誘った。
咸臨丸の艦長格である勝海舟は航海前に修業用の法衣で身を包み座禅を組み、断食修行を叶神社でおこなった。今回特別に拝見した法衣に航海を前の海舟に決死の覚悟をみるようであった。
急勾配、長い階段に、皆息を切らし拝殿背後の急階段で明神山へ登る。明神山の山頂に立つと房総の山々と海域に白波を立て航行する船に目を見張る。吉田松陰や佐久間象山など彼等が見た鮮烈な黒船の情景を重ね、幕末の雰囲気をタップリ味わった。

      <明神山から 対岸の房総半島と行き交う舟が見える>                

Image3
■5月「横浜・桜木町界隈」
徳川太平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に幕府に開港を迫った。
安政6年(1889)、これまで門戸を閉ざされていた日本が欧米各国と結ばれた修好通商条約で開港地として横浜を選び新しい時代を迎える。
文明開化で光を浴び、今尚、観光地として人気の港横浜の影で、開港を支えた史跡を追って見る。
JR桜木町駅から国道16号沿いを東に向かい、山側方面、もみじ坂を登ると、神奈川奉行所跡の碑に到着する。神奈川奉行所は東海道と居留地間に位置し、吹き荒れる攘夷の嵐の中での対外国との折衝窓口として、更に外国人居留地を置かれた場所として治安維持などの役割を担った 。生麦事件や鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。
◇井伊直弼像
奉行所跡付近の図書館、音楽堂の背後に旧彦根藩の有志が買い取り明治42年(1909)に、井伊直弼掃部の開港功績を記念して銅像を建立した、掃部山公園がある。

              <井伊直弼像>
Img_9425
当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。
井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、銅像建立は許しがたかった。
周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、強行し、数日後には銅像の首が切り落されてしまった。安政の大獄の恨みは消されず、長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっていなかった。銅像は戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年開国100年の記念に再建された。
◇野毛の切り通し
掃部山の南側の沿いの高台から下に「よこはま道(現在の戸部通り)」に出る。
幕府は修好通商条約履行のため行政機関である神奈川奉行所を置き英、米 、仏、蘭に公使館の借り住まいとして小寺を割り当てた。  
貿横浜村に住む易商人は、彼らを保護する公館は神奈川への道は遠回りで不便で、居留民は不満が爆発した。そのため居留地と神奈川の間を結ぶ、「よこはま道」が約3カ月の突貫工事で繋いでしまった。アップダウンの土地柄、立地面から道路構築を阻み如何にも不自然な戸部坂、野毛切り通しに、往時の歴史の姿が見える。
       <野毛切り通しの間を通る、「よこはま道」>Image2◇野毛山軍陣病院跡(官軍病院)
野毛の切り通しの壁面沿いによこはま道から坂道を登り野毛公園方面に向かうと、かって、横浜軍陣病院のあった老松中学校に出る。戊辰戦争で、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
刀剣から銃による近代戦よる負傷者は、当時の日本医学では未熟で英国医師ウィリアムウイルスの活躍の場になった。薩摩藩士で江戸攪乱工作、江戸開城交渉では幕府側で支援、上野戦争で戦死など数奇な運命の益満休の助も此処で入院後亡くなっている。
◇横浜開港の先覚者佐久間象山之碑
佐久間象山はペリー来航の一度目は浦賀、二度目は横浜に出張、応接所警衛に当たった。
当時、海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防 策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。横浜開港に関わる一人として佐久間象山の顕彰碑が建てられた。 幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなく、その後黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。
「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
◇吉田橋
野毛坂を降りてよこはま道を進むと、人通りの激しい伊勢佐木町とJR関内の吉田橋に出る。吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。
開港当時、木の橋がかけられ、橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである。
        <吉田橋背後はJR館内駅>Image11◇蛇足ながら
この吉田橋でつまずき、鉄柱に激突、眼鏡を破損し、検査から忌まわしい眼病の発見に繋がった。原因は不明であるが、呪いの霊感からか、病魔に苦しむ暗転の始まりでもあった。
<回顧記事、一旦終了。、次回に繋ぐ>

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