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1年を振り返って(2015年)後編

前回、当ブログで所属する会の活動を伝える『1年を振り返って回顧の記事』を纏め前半を紹介した。その続きを紹介する。
戦国時代から幕末まで会員のそれぞれ蘊蓄を熱く語る『談話会』の披露 。一方では会の象徴的な存在であり、色々お世話になっている日野宿佐藤家から館長さん自ら飾られた、晴れ舞台の観劇など賑やかな後半であった。

◇7月談話会

①「大奥草創期の御台所『お江』と乳母『お福』」
浅井長政とお市の娘、『お江』は徳川秀忠に嫁ぐ。実子『竹千代』『国松』が徳川将軍を継がせるため、『お江』と乳母『お福』(後の春日局)間との激しい争い。
『お福』は『竹千代』を実子のように育て、家康に直訴、三代将軍家光として世継となる。『お江』が押した『国松』は徳川忠長として大納言の官位になるが、家光との幼少期の将軍継承争の確執から、追い詰められ改易、自刃する。
約260年の幕藩体制が敷かれる原点の大事な将軍の世継ぎに『お江』『お福』の二人の女性が互いに牽制しあうウーマンバトルに微笑んだのは『お福』であった。
会の京旅巡りで、金戒光明寺の墓地での春日野局が建てたお江の供養塔は運命的な出会いであった。
<遺髪も収められ、追善菩提で建立したお江の墓>

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②「白虎隊奮戦の地碑建立に関わる秘話」
白虎隊奮戦の地で相まみえた戸の口原で戦った土佐軍戦士の末裔住職『結城治』の発案から地元の会津若松市の関係者の協力で 供養塔建立をみる。住職の発案から、受け入れた会津人の温かい志が碑の脇に紹介されている。

戊辰戦争の怨恨が、未だ消え去らぬ中、敵味方分け隔てなく、供養成就に繋げた美談の紹介。

③「井上源三郎は三番隊長であった」
新選組が組織として拡大し、機動的な活動を意識し、一番隊から十番隊に編成し井上源三郎は六番隊隊長と言うことが、原点として伝わっていた。
しかし、西村兼文が書かれたた「新選組始末記」に矛盾点を指摘した上で、新たに発見された複数の史料から八番隊の編成で井上源三郎が三番隊長であったことが発表された。

④中島三郎助と新選組余話」
地元の財産家から町民まで広い層に支えら建立した中島三郎助の浦賀の招魂碑。
三郎助の興味の幅が広く、生活を楽しんだ長崎海軍伝習所時代、沢山の事を吸収しようとした閉窓(かんそう)雑記。榎本艦隊で同行した佐倉藩漢方医林董(後の外務大臣)が残した、回顧録に千代ケ岡の三郎助父子が壮絶な最期を遂げた臨場感ある記事であった。
函館に訪れ、三郎助や土方歳三を弔い、供養続ける現地の人に感謝を伝える筆者の気持ちを披露された。

◇8月「北の果ての理想郷」ザ・ウエストパーテイー演劇公演、日野七生公会堂の観劇。
土方歳三は新天地、箱館を目指し、身を案じる佐藤彦五郎自身にも追手が迫る、維新前の筋立であった。地域密着型の地味なテーマの演劇であったが、満員の盛況であった。

日野の歴史を素材に今年で4年目を迎えるが、佐藤彦五郎の末裔にあたる、佐藤彦五郎新選組資料館の佐藤福子館長自ら大蔵院の尼さん役でデビューされた。東征軍の日野宿周辺の捜索に数珠を掲げあしらう迫真の演技姿は逞しく、透き通った張りのある声と立ち振舞いに心酔した。

多数観覧された会員と共にカーテンコールの鳴りやまぬ拍手と声援の渦の中、感動を覚えた。
真夏の暑い時期の長期、稽古はかなり長い時間拘束され、家庭を持つ身に大変なご苦労があったようであるが、素敵な素地が、一気に開いた役者の姿をみた。
<熱い演技に、満員の盛況極めた演劇公演>

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◇12月談話会
会員の蘊蓄の披露と納会の宴
①「利休切腹の謎」
信長政権の後継候補として秀吉が政権強化に千利休を活用し、それに応え利休は秀吉の側近にまで抜擢された。秀吉政権の中で信頼関係も厚かった利休であったが、利休の娘「おさん」の側室要請を利休が断った。

朝鮮出兵に反対する諸大名に利休の影響を警戒した。等々秀吉との対立から信頼関係が崩れ、切腹されてしまう。

②御用盗と岩倉具視」
毒殺か孝明天皇の謎の変死。倒幕の為に幕末騒乱の一旦を担った薩摩の御用盗のメンバー相楽総三、益満休の助、伊牟田尚平の死を遂げた。戊辰後、己の立場を護るため、事情を知る面々を消し去ってしまったのは岩倉具視ではないかと推論する。

◇美酒に心酔する、納会の宴
納会は佐藤彦五郎と縁戚に当たる、有山家の広大な敷地の一角にある花豆で宴を持つ事が出来た。鬱蒼たる樹木に囲まれた屋敷の中、ご主人の案内の、自慢のスポットは季節柄、色鮮やか紅葉が映る異郷の世界であった。庭先に映る炯眼を前に、ゆったりとした気分で飲める美酒は格別であった。
<用水沿いの、自然の中『花豆』での宴>

Img_322<原稿完了>
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◇暗転の世界から復帰
一年を振り返ると個人的には横浜、吉田橋でのつまずきから始まった凶事は眼から始まり、胃にも及んだ。年の後半は雑居房での入退院の繰り返しに拘留・拘束の悪夢の連続であった。

出所後に備え、格好の学習機会でもあったが大量な書類はお持ち帰りで、無為に終わってしまった。12月に拘束を解かれ、娑婆の空気を思い切り吸い解放感に浸り、納会の席に戻れたのも、奇跡的であった。
◇広報資料
巻頭に佐藤福子館長の言葉を貰い、1年に1回の発行の『彦五郎通信』も第11号を数えるに至った。紙面の割り当てから、此処で書いた記事は、半分程に圧縮され紙面に添えられる予定である。
<新選組持って広島に嫁がた旧会員Mさんの作品、ちょっと美形な彦五郎>

遥々、遠く、長州系配下の世界に西下されたが、会の繋がりが続いている。

「重い、重い彦五郎通信の出稿の時期であるが彦五郎さん、今年も何とか、終わったよ」

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スーパー歴女を迎え

04110025 一時は零下5℃の世界に寒い寒いと思っていたが、寒い日、温かい日が目まぐるしく変わり、季節の変わり目を感じる。
列島を襲う荒天の予想、関東地方も午後から大雨と前日から報じられた。
なんと言う巡り合わせの悪さ、こんな日に当番なんていやだな~と思いつつ、来る当てのない客を前に本陣の隅っこの一角のホットカーペットの、温もりで待機する。

当たって欲しくない天気であったが、案の定、雨が降り出し、一気に雨足が強く激しくなった。静寂な館内、何処となく、一斉に雨音がリズミカルに音を刻み、響きわたる。

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日差しのない館内は薄暗く、開けっ放し式台越しに、中庭の梅が、既にピンク色に染まり、開いているが、雨粒が滴り落ちる。
そんな悪天候の中、一人、二人と回転効率が悪いが、来館される。

館内は寒く、ホットーカーペットで暖を取りながら、歴史好きの女性と向き合い、館内案内前にご挨拶を始める。
和風建築に留まるのか、土方歳三の新選組に関わるものかどんな期待感を膨らまして、此処まで来られたのであろうか?伺って見る。

三重から遥々来られ、『新選組歴、ン十年、単にミーハーですよ』と言いつつ、京に近い場所柄、壬生近辺は庭の如く、新選組の踏み跡を追い、会津、函館を走り回る、スーパー歴女であった。
猪苗代湖に近い、激戦地の母成峠で車で行ったが、深い雪に遭遇、雪中に埋もれながらも追い続ける、敢闘精神。
深い歴史に著名な人から広く愛された東山温泉で足湯に浸かり、治癒に泊まったも歳三の姿を思い浮かべ、直接湯に触れるなどは、正に新選組愛は半端ではなかった。

函館では小生も車で廻った同じコース、幕軍の上陸地点、鷲の木海岸から、開陽丸が眠る、江差、松前城、から函館に戻る函館戦争の軌跡を追って、松前半島を廻った話しや、あの独特な星姿を俯瞰出来るようにな現在の五稜郭タワーなど、背の低い時代では見えなかったなど、目を輝かせ、関西弁が心地良く、響きわたった。

新選組愛に浸透されるお話に留まる所知らず、詳らかにご披露頂き、新選組に取りつかれ、筋金入りのスーパー歴女と感じられた。
しかし、歳三の家も馴染みのようであるが、此処本陣は初めての来館であること、三重と日野の間が距離以上に遠かったのであろうか。

<天然理心流と勇の処刑>

そんな詳しい人物にはと思ったが、佐藤彦五郎も門弟の一人である天然理心流の紹介に特に感心事であったようである。
戊辰の戦いで破れ、賊軍と言われる配下にある新選組の武術、天然理心流は新政府からも厳しく、教えず、見せずと言う存在になってしまった。
初代宗家、近藤内蔵之助や二代目近藤三助の墓が並ぶ、八王子の戸吹の桂福寺は言わば天然理心流が流行った拠点でもある。
慶応4年4月勇が捕縛され、板橋で処刑された暁には、事が此処、戸吹に及ぶことを恐れ、墓石を砕いてて地中に埋めてしまったこと。更にその墓石を昭和の暁に掘り起こし、半年がかりで丹念に繋ぎ合わせた生生しい写真には衝撃的に映り、しっかりとメモを取られていた。改めて、事件の大きさを、傷だらけに修復した墓石が今日に伝えている。

そうこうしている内にバスで訪れた茨城からの20数名に及ぶ団体さんが来館された。タイムスケジュールで組まれている集団の一部に加わって頂き、流れに沿った御案内に入って頂いた。突然団体の渦に巻き込まれ、熱く濃い話はそれまでとなってしまった。

幕末の空気が漂う館内に何時までも浸って居たかったようであるが、惜しみつつ、また来館での出会いが生まれることを、祈りお別れした。

雨足は益々、激しく、以来止むこともなかった。この雨の中、再び来館者を迎えることなく、館内は再び静寂の世界に、益々暗くなる世界に彦五郎、歳三の幻影を追いながら、閉館を迎えた。

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1年を振り返って(2015年)

毎年、4月に所属する会の活動を伝える広報資料を発行する。その一旦を担い1年を振り返って回顧の記事を纏める。その出稿責務に学校時代の苦く嫌な期末試験の準備を思い起こす。
まして、昨年の後半生は語りに尽くせない、入退院を繰り返す病魔との闘いに振り回され、廻りを見通す、余裕もなく、お断りしたが、それでもさぼりの償いに、半ば強制的に押しつけられた。
そんな言い訳は別に、1年を振り返った。
■3月「ペリー来航の地・浦賀を歩く」
◇西浦賀
浦賀は狭い浦賀湾を挟んで東西浦賀町がある。咸臨丸の修理など造船はじめ神社仏閣や浦賀奉行所跡がある。高台に登れば外国船砲撃した台場や相模湾を挟んで房総半島は手の届くところにあり、炯眼が確かめられ、濃縮した幕末に触れ合える素敵な場所である。
黒船来航以来、国防に目覚めた浦賀は艦船の造船、修理に浦賀ドックが誕生した。日本最初の洋式帆船「鳳凰丸」の建造や太平洋横断前の「咸臨丸」の修理など海国日本の造船技術が育ち中島三郎助など多くの技術者を輩出するなど輝いていた。
そのドックも閉鎖され、迎える船も無く、かっての活気を帯びた時代を伝える設備は恐竜を思わす象徴的なタワーとして虚しく立っていた

                 <ドックのタワー>

Img_6376その三郎助も、幕臣として主家徳川家に報いんと函館千代ケ岡に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に散下する。
西浦賀の代表する一つは浦賀港を一望に見渡せる愛宕山である。山頂には、母卿の地を思い舟を愛す三郎助を追慕する「中島三郎助鎮魂の碑」や木の葉の様な咸臨丸に乗り、米国に渡った、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らの名が連ねた「咸臨丸出航の碑」もある。
招魂碑から浦賀港挟ん向かい側は三郎助親子の墓が対座するように建ち、入り江を挟む用に東西からこの港を見守っている。
◇東浦賀
僅か数分で対岸に着いてしまう渡船に乗ってミニ船旅気分を味わい東浦賀に渡る。
         <東西浦賀を結ぶ連絡船> Img_6409黒船来航に熱く語る物見深い吉田松陰や佐久間象山が泊まった旅籠の徳田屋跡に影を追う。
咸臨丸は榎本艦隊として蝦夷に向かい、台風で浮遊し、清水港で新政府軍に惨殺された36人の一人、浦賀の造船技術者春山弁蔵の墓に哀れを誘った。
咸臨丸の艦長格である勝海舟は航海前に修業用の法衣で身を包み座禅を組み、断食修行を叶神社でおこなった。今回特別に拝見した法衣に航海を前の海舟に決死の覚悟をみるようであった。
急勾配、長い階段に、皆息を切らし拝殿背後の急階段で明神山へ登る。明神山の山頂に立つと房総の山々と海域に白波を立て航行する船に目を見張る。吉田松陰や佐久間象山など彼等が見た鮮烈な黒船の情景を重ね、幕末の雰囲気をタップリ味わった。

      <明神山から 対岸の房総半島と行き交う舟が見える>                

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■5月「横浜・桜木町界隈」
徳川太平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に幕府に開港を迫った。
安政6年(1889)、これまで門戸を閉ざされていた日本が欧米各国と結ばれた修好通商条約で開港地として横浜を選び新しい時代を迎える。
文明開化で光を浴び、今尚、観光地として人気の港横浜の影で、開港を支えた史跡を追って見る。
JR桜木町駅から国道16号沿いを東に向かい、山側方面、もみじ坂を登ると、神奈川奉行所跡の碑に到着する。神奈川奉行所は東海道と居留地間に位置し、吹き荒れる攘夷の嵐の中での対外国との折衝窓口として、更に外国人居留地を置かれた場所として治安維持などの役割を担った 。生麦事件や鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。
◇井伊直弼像
奉行所跡付近の図書館、音楽堂の背後に旧彦根藩の有志が買い取り明治42年(1909)に、井伊直弼掃部の開港功績を記念して銅像を建立した、掃部山公園がある。

              <井伊直弼像>
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当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。
井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、銅像建立は許しがたかった。
周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、強行し、数日後には銅像の首が切り落されてしまった。安政の大獄の恨みは消されず、長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっていなかった。銅像は戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年開国100年の記念に再建された。
◇野毛の切り通し
掃部山の南側の沿いの高台から下に「よこはま道(現在の戸部通り)」に出る。
幕府は修好通商条約履行のため行政機関である神奈川奉行所を置き英、米 、仏、蘭に公使館の借り住まいとして小寺を割り当てた。  
貿横浜村に住む易商人は、彼らを保護する公館は神奈川への道は遠回りで不便で、居留民は不満が爆発した。そのため居留地と神奈川の間を結ぶ、「よこはま道」が約3カ月の突貫工事で繋いでしまった。アップダウンの土地柄、立地面から道路構築を阻み如何にも不自然な戸部坂、野毛切り通しに、往時の歴史の姿が見える。
       <野毛切り通しの間を通る、「よこはま道」>Image2◇野毛山軍陣病院跡(官軍病院)
野毛の切り通しの壁面沿いによこはま道から坂道を登り野毛公園方面に向かうと、かって、横浜軍陣病院のあった老松中学校に出る。戊辰戦争で、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
刀剣から銃による近代戦よる負傷者は、当時の日本医学では未熟で英国医師ウィリアムウイルスの活躍の場になった。薩摩藩士で江戸攪乱工作、江戸開城交渉では幕府側で支援、上野戦争で戦死など数奇な運命の益満休の助も此処で入院後亡くなっている。
◇横浜開港の先覚者佐久間象山之碑
佐久間象山はペリー来航の一度目は浦賀、二度目は横浜に出張、応接所警衛に当たった。
当時、海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防 策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。横浜開港に関わる一人として佐久間象山の顕彰碑が建てられた。 幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなく、その後黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。
「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
◇吉田橋
野毛坂を降りてよこはま道を進むと、人通りの激しい伊勢佐木町とJR関内の吉田橋に出る。吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。
開港当時、木の橋がかけられ、橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである。
        <吉田橋背後はJR館内駅>Image11◇蛇足ながら
この吉田橋でつまずき、鉄柱に激突、眼鏡を破損し、検査から忌まわしい眼病の発見に繋がった。原因は不明であるが、呪いの霊感からか、病魔に苦しむ暗転の始まりでもあった。
<回顧記事、一旦終了。、次回に繋ぐ>

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