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野毛の山からノーエ

野毛山から横浜道を通り、吉田橋に到着し、掃部山含めた野毛三山、巡りも漸く終わった。
その安堵感にホットし、吉田橋の段差部分で足を踏み外し、そのまま鉄柱に頭部を激突、眼鏡が飛んだ。衆目の前での、みっともない事件であった。清水清次か間宮一の、呪いではなかったのであろうか・・・。眼鏡の表面に深い、「吉田橋の傷」が残されてしまった。

昨年(2015年)歴史歩きの一つは横濱の野毛であった己に取っては昨年の病気の災禍の初めに繋がる忌まわしい因縁の吉田橋は野毛歩きの一つであった。
まあ、それはさて置きラジオから流される民謡の一つ、『ノ~エ節』の生まれの一つが、横浜野毛と紹介された驚きであり、当該ホームぺージでも詳しく、紹介した。横浜開国と『ノーエ節』 
今更、民謡なんて、メデイアでも余り、取り上げない素材であるが、断片的な歌詞と短く単純なメロディはしっかり残されており、隠れたヒット曲であると思わざるをえない。
原作者不明ではあるが、乗りの良いメロディに載せられ、覚えやすく、替え歌が自然に派生している。
そんな『ノ~エ節』を唄いながら、歌詞の出てくる意味合いを追って見る。

1番
代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から異人館をみれば
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンサイサイ
ここで登場する『代官山』とは野毛山を意味し、野毛山から見る、外国人居留地と眼下の当時の横濱の海の姿を謡っている。
居留地誘致の為、貿易を大きな狙いとして発展するが、居留地には運上所(税関)が設けられ、重要な役割を担っている。一方ではのオランダ公使から外国人接待用として、遊女町開設の要請があり、現在の横濱公園の敷地に広大な遊廓が建てられた。
外国人の接客は長崎の丸山遊郭を手本に、 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などの軒を並べた。 港崎遊郭(みよざきゆうかく)として、安政6年(1859)11月に開かれた。
江戸幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託したのが『ラシャメン』である。
こうした遊廓もオランダからの指導を受けるなど、開国間もない日本の姿が伺える。
その賑わいを見せた遊郭街も豚火事で焼失し、現在の公園になっている。
作者不詳のこの唄の節回しが単純で、一度聞いたら忘れられない心に響く 『ノーエ節』である。唄が生まれたのは、 文久年代(1861~3)、一寒村であった横浜が開港によって異国文化を目の当たりにして大きく変わった様子が人々に大きな衝撃的であった。
特に開港間もない居留地は庶民に近寄りがたい華やかな存在でありその様子を好奇心いっぱいに目を凝らして見て いた。その様子を、横浜一の高台野毛山から眺めた様子を歌っている。

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2.番
代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から蒸気船をみれば
太い煙突ノーエ
黒い煙りがノーエ
黒いサイサイ
煙りが 横に出てる
横浜開港を控えた前年、野毛は海に面し、海苔舟が止まっている様子である。野毛の海の向かい側は横浜で魚を漁船の方へ引き寄せる漁火が描かれている。平沼も同様に海に面し、僅かに見える立ち込める煙は製塩の様子が描かれている『ノーヘ節』にも始めてみる蒸気船から上がる黒い煙は衝撃的であったか、そんな姿を描写している。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯(四隻)で夜も眠れず」と詠まれた狂歌を引き合いに出すまでもなく、昔から日本の庶民が即興で世相を切り取って面白おかしくはやし立てる能力は、目を見張るものがある。
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3.番
秋の演習はノーエ
秋の演習はノーエ
秋のサイサイ
演習は白黒二軍
白黒二軍はノーエ
白黒二軍はノーエ
白黒 サイサイ
二軍は 演習が終わる

4番
野毛の山からノーエ
野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ
山から異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ
鉄砲かついでノーエ
お鉄砲 サイサイ
かついで 小隊進め

(5.唄は5番まで続くが省略)
◇巨大化した駐屯部隊
居留地に居た一般人はわずか309名にすぎなかった。
当初は英仏の軍艦に乗り組んでいた水兵が居留地の警備に当たっていたが、元治元年(1864)四カ国連合軍が下関に出航する頃、横浜に駐屯していた地上部隊の兵力はイギリスが陸軍1200名、海兵隊300名、フランスが海兵隊が300名と併せて1800名にも膨れ上がった。
局部的ではあったが、国土の防衛を外国軍隊に委ねたのは日本の歴史始まって以来とも言われている。
山手の屯所でイギリス軍は今の「港の見る公園」一帯にThe North Campとその隣にThe South Campの陣営が、フランス軍はThe North Campに接する谷戸橋側の断崖上に位置する(現在のフランス山)に設けられた。イギリス軍の使用地は19、189坪、兵舎の建坪は4、593坪。フランス軍の使用地は3042坪、兵舎の建坪は119坪であったと言う。
駐屯部隊は日本の国内の二つの戦いに参加し、鮮烈な結果を残し欧米列強の力の差を見せつけた。
「生麦事件」と言われる外国人殺傷事件は薩摩に賠償を求めイギリスは艦隊を送り込み薩英戦争まで展開、薩摩は近代化されたイギリスの前に破れる。
更に、元治元年(1864)攘夷で外国船に砲撃した長州藩を四カ国連合軍が下関を報復攻撃し完膚なまでに叩き、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。
山手の台地に兵舎を設営し居留地界隈で演習を行っていた彼らは、その制服の色にちなんで日本人には「赤隊」「青隊」などと呼ばれた。

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駐屯軍は居留地社会の保護や、その延長上での第一線の強面の戦闘集団であったが、一方では、スポーツやアマチュア演劇、軍楽隊の演奏活動などを地域の文化交流面で活気を与えてくれた。
軍楽隊は妙香寺(中区妙香寺台)でフェントン軍楽長により、薩摩藩軍楽隊の指導をあたる、など、社会・文化面で色々足跡を残しいる。
1800名にも及ぶ巨大な部隊は10数年も此処に根をはやし、いやでも目に付く存在であった。ノーエ節の中も登場し、存在感を表し、開港史を飾っている。
幕末から明治初期にかけて「港の見える丘公園」は、フランスとイギリスの軍事拠点だった。駐屯軍はその後、明治8年(1875)に二カ国同時撤退するまで12年間、山手に留まっていた。
作者不詳のこの唄の節回しが単純で、一度聞いたら忘れられない心に響く 『ノーエ節』である。唄が生まれたのは、 文久年代(1861~3)、一寒村であった横浜が開港によって異国文化を目の当たりにして大きく変わった様子が人々に大きな衝撃的であった。
特に開港間もない居留地は庶民に近寄りがたい華やかな存在でありその様子を好奇心いっぱいに目を凝らして見て いた。その様子を、横浜一の高台野毛山から眺めた様子を歌っている。

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