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甲陽鎮撫隊の戦跡を訪ねる旅のご案内

当、ブログでも何度か紹介している、勝沼の古戦場跡巡りについて、『佐彦会』(活動内容は下記)で企画してみました。新たな発見を求め一緒にその痕跡を辿って見ませんか?

以下ご案内します。

◇概要

慶応4年(1868)3月、大久保大和(剛)こと近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が江戸城を目指す新政府軍を阻止するため、勝沼で陣を構え、新政府軍と一戦を交えた。
柏尾古戦場から旧勝沼宿に至る甲州街道の戦跡を巡ってみる。

             <柏尾古戦場跡>

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           <祇園淵>Image15

     <攻めたてる新政府軍は勝沼宿から柏尾へ目指す>Image

◇見学のポイント
①新政府軍と幕軍と対峙した古戦場跡
②明治天皇が京都行幸で甲州道が現在の姿に変わったこと
③柏尾橋の江戸、明治、大正、現代までの掛け替えの様子
④ぶどう畑に残る会津藩兵の墓
⑤幕軍の敗残兵が追われ飛び込んだ祇園淵
⑥旧勝沼宿跡とその周辺の戦跡(官軍進行阻止のための柵門跡)
⑦郵便局舎から旧田中銀行へ、明治時代の洋風建築
等々

日時:5月21日(土) 9時~15時30分頃 
集合:9時  JR高尾駅 中央線下り(甲府方面)ホーム先頭側 
行程:JR高尾駅→(中央線普通電車)
→勝沼ぶどう卿駅・菱山→(タクシー)→柏尾古戦場・幕府軍墓→
祇園淵→大善寺→柵門跡→勝沼氏館跡→勝沼宿本陣跡→
旧田中銀行博物館→(タクシー)

→勝沼ぶどう卿駅(15時30分頃現地解散)

参加費:2.000円(資料代・現地タクシー代を含む。
勝沼ぶどう卿駅までの交通費と昼食代は各自負担)
小雨催行・荒天中止 

                                                    
申込み:佐彦会・吉澤光景(TEL/FAX:042-843-1210)
※参加ご希望の方は、5月15日までにご連絡ください。

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□歴史ロマンを追って
新選組や幕末を中心に、時代を遡って彼らの足跡について自ら確かめ、学び、歴史ロマンを熱く語り会ってみませんか。

◇佐彦会とは

●日野宿名主佐藤彦五郎の残した偉業を学び、見識を深めます。
●会員により日頃の学習結果、体験談、自慢話など、幕末の想いやうんちくを語って頂きます。
●幕末関連の縁の地や歴史史跡を巡り、直に触れ合います。
●会員相互の親睦を図るため、膝を交えて幕末を熱く語らいます。
●広報資料『彦五郎通信』1年単位で発行し、活動の成果、会員の研鑽資料と広報活動に活用します。

□活動の母体は史跡巡り
幕末を中心に歴史に関わる縁の地を訪ね、自分の目で確かめ理解を深めます。
これまで 多摩地域、都心、関東周辺、京、会津を含め旅巡りは30数回を数えました。

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日野農兵隊と銃

<英国エンフィールド社製。先込め式のミニエー銃を元込め式に改めたものである。>04110028
ライフリングが施され、照尺があり、有効射程距離が長くなる。
シイノミ弾(椎の実形の弾)を使用するか、火薬包と一体となった紙包弾丸を使用するので装填が大変便利になる。
さて、幕末から維新にかけて日野宿でその銃に纏わる、こんな話を追ってみる。

◇農兵隊の設置
当初は伊豆周囲の海防を目的に建議(意見を申し立てる)された農兵であったが、文久3年(1863)10月、農村の不穏な情勢から、伊豆韮山の江川太郎佐衛門の支配下である日野を始め武蔵、相模伊豆、駿河など、日野宿組合を元に日野宿農兵隊が編成された。
農兵隊取り立ては高百石につき一人とされたがやや多い30人が農兵と集められた。
運営資金は宿の有力者からの献納金で賄われ、鉄砲購入や練習費用に当てられた。農兵の弁当などは佐藤彦五郎が受け持った。
農兵隊は教育を受けた佐藤源之助(彦五郎の息子)、佐藤隆之介(上佐藤家)が指揮者となり普門寺、宝泉寺を事務所として多摩川河原でオランダ式に教練した。
こうして訓練された農兵隊は慶応2年(1866)名栗(埼玉県入間郡)で起きた武州一揆で、多摩川築地(昭島市)の鎮圧に当たる。

慶応3年(1867)江戸市中で挑発的なテロ活動を続ける薩摩系浪士の集結する八王子宿の壺伊勢屋を日野宿農兵隊を含めた剣士が襲撃し、テロ活動は未遂になる。

◇鳥羽伏見の戦いでは刀から銃へ

慶応4年正月3日鳥羽伏見において戊辰戦争の火蓋が切られた。幕府軍の最前線伏見奉行所に布陣した新選組は火力に勝る薩長軍を相手に特異の白刃をひらめかして勇戦したが、銃火器の威力に勝てず次第に退き、4月淀堤の戦闘で井上源三郎は銃弾を受け戦死した。
<討幕派の薩摩軍などが陣取った『御香宮神社』。新選組や会津藩兵の幕府軍と激しく戦った。>

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<奉行所近くの料亭「角三楼」の表格子の弾痕跡>

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土方歳三は残留の兵を纏め正月12日富士山丸で大阪を出発、15日に品川沖へ着き江戸に帰った。
江戸帰還を知った彦五郎は正月18日、下染屋の歳三の兄、粕屋良順と同道江戸へ行き、近藤、土方に会い鳥羽・伏見の戦況を聞いた。
前年負傷した近藤に代わり鳥羽・伏見の戦闘を指揮し身を持って薩摩軍の銃火器の前に、苦渋を味わった土方歳三の「もう刀や槍せ戦う時代で無くなった」という話しに聞き耳を立てた。

◇新式銃の購入
彦五郎は日野に帰り、やがて関東へ来るだろう薩長軍を迎え撃つため、元込め銃の購入を同志にはかり、農兵隊士有山重蔵を横濱へ派遣した。
横濱へ急行した有山重蔵は1月23日に元込銃20丁、600両で購入の商談を成立させ、日野に帰っている。
彦五郎は当時の日光勤番中の井上松五郎に手紙を送っている。
ようやく、元込め銃を20挺を手に入れ、兵士に引き渡した。ゲーベル銃1発撃つうち、元込め銃5発撃ち、実に便利と評価している。農兵新規宿方にて20人ほど取り立て5日より稽古開始する。
購入した元込め銃は谷戸で試射された後農兵に引き渡され、2月から調練が続けられた。宿方農兵の士気も旺盛であったことが知らされた。

◇勝沼戦争で敗退
3月1日江戸を出発した甲陽鎮撫隊は2日に日野へ到着した。鎮撫隊の一行を待ち受けたのは新装備をした日野農兵隊もその一つであった。佐藤家に集まり、近藤に甲州行きの同行を願い出たが、許されなかった。彦五郎の口添え遂に同行を許した。
同行者の指揮は彦五郎が勤め、彦五郎の俳号が『春日庵盛車』から彦五郎は春日盛と変名、隊名を『春日隊』とした。
鎮撫隊は江戸から出発し、調布、府中と近藤の門弟が数多くおり、同行を願い出たが同意しなかった。
日野農兵隊のみが同行したのは、鳥羽伏見の戦いで銃火で苦しめられた歳三の話からも、元込め銃を装備し調練された日野農兵隊の戦力を買われたものであること、明らかである。
鎮撫隊は甲州行きを目指したが、甲府は既に官軍に堕ちており、途中の勝沼で戦ったが僅か2時間余りで破れ、江戸へ向かって退き、春日隊も活躍する間もなく日野へ退いた。
11日、東征軍が横山宿(八王子)へ到着した。
官軍にいち早く恭順した高島藩か参勤交代でかって知ったる甲州道中で嚮導役を勤めた。同日、東征軍が日野宿捜索を受け、宿内はこれまで以上に緊迫した。
身の危険を感じた彦五郎夫婦は大久野村(現西多摩郡日の出町)、羽生家へ、長男源之助は粟須村(現八王子市小宮)、次男以下は小野路村(現町田市)へ避難したが、源之助が東征軍に捕まる。

◇元込め銃の押収
源之助は八王子の本営に連行され彦五郎の行方、彦五郎と勇・歳三の関係、武器の隠し場所を厳しく尋問される。
歳三の生家では歳三に関係するものは庭に埋め、家人は高幡山へ三日間隠れた。
小野路村小島家では源之助捕縛の報に荷物を片づけ、裏山え隠れた。
高島藩兵が日野宿内農兵改めを始め、同夜には彦五郎宅に踏み込んだ。
農兵達も古谷平右衛門は小野寺の橋本家へ、和田勘兵衛は埼玉へ逃げ、その他の連中も後難を恐れ、それぞれ逃げた。銃の捜索は厳しく、上・下佐藤家の池ざらいまで行われ、仲井の田圃(セイコーエプソン東側付近)積まれた落ち葉の中から元込め銃、19挺が東征軍に押収された。
<仲井の田圃。正面はセイコーエプソン工場の東側、開発が進んでいるが未だ耕作地が残されている>

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結局、最新式銃も威力を発揮できないまま押収されてしまった。

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