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土方歳三から石田三成へ

今年も、年間の一つの節目ひの新選組祭りが終わった。
施設に関わりを持ち、この日にめがけ、全国から大勢のお客さんを迎える立場から、関心事のひとつである。
観光に、町おこしに大河ドラマに寄せて、集客効果にある種の期待感を持つのは何処も同じであるが、終わってしまうとそれまでの一過性であるのも事実である。
観光地に行くと、復刻版が観光案内所に飾られ、ああ~ここにも、かっては大河ドラマで取り上げられたと言う、認識程度に留まってしまう。
当地でも、大河ドラマが新選組が役者さんの人気とも併せ、異常な人のうねりが生まれたが以来、もう10年以上も経過した。

その一人が何と言って地元の雄である、悲憤のヒーロ土方歳三であった。役者は山本耕史であったが、男前、格好良さ、ニヒルな感じで、茶の間のTVから身近なヒーロの歳三に仕立て上げてしまった。

   <市役所前でフアンの前に揉みくちゃにされ、凄い熱気>

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         <衆目の中、フアンの前で山本耕史がご挨拶>Image
       <そんな歳三が身近な存在に近づけてくれた>12025471

まつりの催しで、当地での関わりの深さから歳三が引っ張り出され、フアンが後を追った。本陣の駐車場の仮ステージでインタビュウをやったが、あふれ返るフアンの黒山に近寄り難い存在になってしまった。

そんなシーンが昨日のように浮かび、未だに自分の中では俳優山本耕司は歳三なのである。

その山本耕史が、乱世の戦国時代に再び大河ドラマ『真田丸』でニヒルな石田三成で登場する。
豊臣政権下では、建て割り世界の実力者として絶大な権力を握ったと言われるがそんな役回りを見事にこなし、歳三が三成にすっかり変わってしまった。
歳三は新選組のトップ2として、局長近藤勇を押し立て、新選組を最強集団へと組織し機能する役割を果たした。
一方、三成は豊臣政権を支える五奉行の中でも随一の実力者として、秀吉の取り成しは常に三成を通じて行ったと言われている。
時代を越えての二人の人物であるが、其の置かれている役回りと実力を発揮する姿が正に参謀役として自然と重なってしまう。

それを演じる山本耕司が、二人の姿を着せ替え人形のように置き替わり違和感なく溶け込んでくる。
歳三は北の果て、函館で進政府軍を前に一本木関門で銃弾に散っていった。、
一方、三成は豊臣没後、関が原の東西決戦で徳川家康に破れ、伊吹山で捕縛、京の都を引き回され六条河原で処刑された。
何処まで演じられるのであろうか・・・。

そもそも、ひの新選組祭りの町おこしで、新選組に光を当てた大河ドラマの役割は大変大きい。しかし、此処に訪れるフアンを前に語っても、大河ドラマ「新選組」を知らない、若い世代の層が、結構多くなっている。時間の経過が新たな潮目に変わっても、根強い新選組フアンが育っているのである。
昨日、此処にいた山本耕史が、既に遠くの存在である事実に、時の流れを感じてしまう。

<余計な与太話>
『おいおい、生涯を独身で通した歳が、嫁さんを迎えたとさ』
『それもなあ、驚くなかれ、皇女和宮と聞くぜ』(和宮役は堀北真希)
『う~ん・・・となると、正に公武合体ではねえか』
『いくら、京で活躍したと言っても、まさか将軍に嫁いだ和宮とはいくら何でも、身分が違いすぎるのでは・・・』
一介の農民上がりが、皇女を嫁として迎える。大河ドラマも一時の過熱も収まり、何時の間にか、粛々と現代版のメルヘン ドリームが生まれていたのであった。

肝心の公武合体は井伊大老が倒され幕府独裁を修正し、天皇と幕府が一体化を目論見、歩み寄ったが結局叶わなかった。推進役の老中安藤信正は水戸浪士に坂下門外で襲撃され、和宮降嫁の推進役であった公家の岩倉具視は落飾謹慎処分を受ける。
『和宮の降嫁の事実だけで、尊皇攘夷運動と対立が生まれただけで、何も変わらなかった』

『安政の大獄』の大量な粛清にやったら、やりかえす、の荒れた時代の収束に最早何も
やっても叶わなかった。

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ひの新選組まつり 2016年

                   <日野宿本陣、式台のある玄関口>Img_1136
ああ~今年も、新選組祭りは終わった。
天候も恵まれ、朝の空気は若干ひんやりで、さほど暑からず外出には申し分ない。
旧甲州街道は当日に限りパレードで交通規制がかかり、全国からフアンが押しかけ、祭りにに盛り上がる。
オープニングの前にメイン会場となる旧甲州街道は架設のテント小屋が建てられ係のスタッフが、この日に合せ、忙しく準備にかかる。
その前を通り過ぎるが、同じ祭りを間接的に支える一人として、今日は特別な日であることの、思いがじわじわと伝わってくる。
この祭りに併せ、大量な来館を予想して、本陣の受け入れも、員数は増やし、滞留しないように人の流れを上手く回し、満足頂き、建屋と幕末の空気を味わって貰う。
去年も一緒だった、Yさんと一緒で、開館前の庭掃除、水撒き、旗挙げの準備にお互いに、今年も頑張ろうと声を掛け合うが、これが最初で最後で大量な人の渦の前に、呑み込まれ、それぞれのお客さんの渦の中にあり完全に離れ離れの世界にある。
此処まで来る過程で道すがらの様子から始まる前の人の姿、流れに、、今年は何となく少ないことが、お互いに共通の認識であった。
開館時はやはり、出だしは悪かったが、時間と共に祭りならではのラッシュが始まり、その対応に追われる。
当日集計の結果は去年は1000人越えであったが、約940人とやはり未達であった。

◇熊本地震
パレードに身を心も注ぐダンダラ模様の戦闘着に鉢巻き姿や、中には洋装化した幕府陸軍の姿で身を包む姿が散見された。
そんな中で小学生の男の子がイメージキャラクターのクマモンのタオルを掲げる姿が一目を引いた。
折しも熊本地震が未だ納まりそうも無く、体感する地震は延べ1000回を越えるという天災は一向に収まりそうも無い。
熊本と言うと山鹿流軍学師範で吉田松陰と同じ境遇から意気投合し、共に全国行脚し、
池田屋騒動で倒れた『宮部鼎蔵』がふと思い浮かんだ。
「宮部鼎蔵」の生地は、震源となった益城町のすぐとなり、御船町である。
一昨年(2014)、池田屋騒動で亡くなり150年忌が御船町で開かれたそうである。
宮部鼎蔵とその弟・春蔵は直後の蛤御門の変で落命しており、二人を祀る鼎春公園も無事であることを祈るばかりである。
熊本地震の震源地として、激しい揺れの中、
家屋の倒壊や墓石の滑落宮部も池田屋で倒れ、152年の眠りから覚まされたのではと思われる。
日本全国、何処へ行っても、地殻変動の渦の上、休まることない。

中庭を挟んで北側の広場は、催し場のメイン会場になっている。
遮るものもなく、ドーン」と打ち鳴らす、大太鼓と小太鼓の連打 大音響が館内に直に伝わり響きわたる。
「えいえいお~」の掛け声に、いよいよパレードが始まったか姿の見えない此処では声と音だけの世界であるが、その熱気が十分伝わってくる。
その鼓舞する戦闘姿は京都見回り組として池田屋騒動など、武勲を立てた武闘集団の新選組の姿がある。
その存在の正しいとか悪いということでは無くて、幕府の為に忠誠し、最後まで殉じた姿が憧れに通じ、ではなかろうか・・・。
一方では池田屋騒動の向こう側の世界からも、見ている人がいる事を忘れてはならない。

式台に繋がる玄関の間に、限られた空間に寄せ合い座って頂くが、人となり自然と温もりが伝わってくる。戸は開け広げ、 季節柄五月の風が吹き抜け、大変気持ちが良く、歳三にあらぬとも、眼が閉じてしまう。
案内人の声も子守歌に、異郷の世界で歳三の出会いが確かめられるのであろう。

終わって、喉はガラガラ、我が家に帰っても人の渦の残像が何時までもかすめ脳まで侵される刺激的な一日であった。

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