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勝沼宿と柏尾古戦場跡にゆく

JR中央本線で始発の高尾から乗って、約1時間。電車は山間部の中へ、進み、笹子トンネルを抜け、甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる地域入り、勝沼ブドウ卿駅に到着する。
勝沼は官軍の進軍を象徴するなど、此処から始まった戊辰役の東国の最前線として、希少な大事な歴史拠点でも ある。
勝沼は何度も訪れているが、同地に住む知友を通じて、現地ならではの情報を教えて頂き、新たな発見もあり、同行者を募り案内役を勤めた。
勝沼と言うと、精々柏尾古戦場跡と大善寺に留まるが、今回、足を延ばし勝沼宿まで足を延ばし、識見を深めた。

◇「国中」、「郡内」とは
当地を語るには「国中」、「郡内」は避けて通れない、言葉であり、その意味は、こんなことと理解している。
山梨を御坂山地と大菩薩嶺を境とした東西に分け、西半分の甲府盆地を中心とする地域を「国中」と言い、東半分の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓や大月市などの地域を「郡内」と言う。当地に根を張る、武田信玄の遺臣を敬う歴史、風土の「国中」と言われる
戊辰役で戦わずして新政府軍が甲府城を落としたのも、総隊長は東山道軍参謀板垣退助の祖先は武田信玄の家来の一人で、武田の遺臣としての繋がりから、受け入れられたと言われている。
「国中」「郡内」はそれぞれ文化圏を持ち、「国中」の食べ物意「ほうとう」で「郡内」は山田うどんと言われている。此処は拘りを持って味噌味、野菜満載の「ほうとう」食べ身も心も武田信玄の濃い味に心酔した。
県道34号(旧甲州街道)から勝沼町勝沼の交差点で甲府方向に向かって左側の道に入った所に自家製味噌を使った「ほうとう」「慶千庵」がある。門を潜り中庭に面した広大な屋敷の和室で、風情を楽しみ、食事が出来る。
◇柏尾の陣の戦い
1)日向平の攻防戦
甲陽鎮撫隊の命題は新政府軍の江戸進軍阻止で甲府行きであったが、既に甲府は新政府軍に落ちていた。
幕軍は勝沼に入り、官軍を迎え撃つために、正面からの攻撃に最適な適地として、深澤川と日川にはさまれた峻嶺の観音山の南面の山裾、日向平(日向平の呼称は現在余り使われていない)に陣を張った。
深澤川で切り立つ崖で、谷底のようになっており、落ちたら二度と上がれない ような、奈落の底である。深澤川の渡河は柏尾橋が架けられ、東西を結ぶ唯一のルートであるが、柏尾橋は甲陽鎮撫隊が陣座した位置から、見下ろす位置にあり、格好の標的として銃撃され、渡橋は困難であった。
新政府軍の正面からの進軍は相対座することで阻止できた。
2)岩崎山攻防戦
日向平の南方に位置する岩崎山は諏訪兵と永倉新八の指揮する幕兵との戦闘であった。幕軍は奮戦虚しく、負傷者が続出したので余儀なく後退し柏尾の本隊に合流する。数で勝る官軍は岩崎山を占拠し、日川の渓谷越え、日向平の側面から追撃する。
3)日向平の挟撃
一方、北方菱山方面から深澤部落に出た谷新兵衛の土州兵の一隊は観音山の東方を迂回して日向平の幕軍陣地の全く背後に出た。 岩崎山を攻略した諏訪兵は横合の日川の渓谷から日向平の陣地に一斉射撃を開始した。
同時に東方を迂回した土州兵背面から射撃したため幕軍は三方から挟撃され、これが決定的になり、全軍敗走した。

◇戦場跡

1)幕軍の陣を張った付近。

        <甲州街道、現深澤川入口付近>

Image211)幕軍の陣を張った付近。
崖が幕軍が陣を張った日向平であり、現在の甲州街道深澤入口で甲陽鎮撫隊は此処で陣を張る
当時、江戸へ向かう唯一のルートが甲州道であり、幕軍の陣は交通の要所を抑えることで有効であった。
先端部分が出っ張り、Y字路で陣を構え正面からの敵に向き合えるが、側面からの攻撃には弱かった。山頂に陣を構えれば、下からの登坂者に対して上から制圧出来るが、大砲も上げられず、急場こしらえに 川を境に戦おうとしたことが、致命的な欠陥を生んだ。
本来の甲州街道は柵があり、柵の所にテラスが残っている部分が江戸時代の甲州街道の路面である。壁の角の先端部 分の岩盤の横の所に鳥居が立ち、その下に砲門が据えられた。
明治天皇行幸で馬車が通るため、明治9年頃から改修工事が始まり、13間の道が生まれ、従って陣を構えた鳥居の部分も、切り下げ、道を下げる掘削工事で消えてしまった。
橋のたもとが明治天皇に示すために天上錘として碑がたてられ、戊辰の役のおり官軍が進軍し此処で、東国の最初に開いた戦いの場所であると説明している。以来、古戦場と言う名前で伝えられた。
◇柏尾橋
<深澤川を挟んで、両軍戦った場所、手前側に旧橋の欄干が見える>Image3
甲陽鎮撫隊の陣を張った場所は深澤川と言われる急峻な渓谷にある。この深澤川に柏尾橋が架けられ、橋の下流側で日川に合流する。柏尾橋は甲州街道を勝沼と江戸方面に繋がる橋として大変重要な役割を担う。
柏尾橋は何回も掛け替えられており、現代の鉄骨の橋になっているが、かっては木造の橋があった。時代を追うごとに橋が架けられ昭和橋、大正橋、明治橋、江戸橋、深澤川の河原まで降り、対岸に通じる中世橋があった。
古い橋の橋桁と草藪の影に対岸の橋桁が僅かに見える、その下が深澤川である。対岸の民 家付近は甲陽鎮撫隊が破れ、退陣するおり、火がかけられた。
この先が深澤川で切り立つ崖で、谷底のようになっており、落ちたら二度と上がれない ような、奈落の底である。
甲陽鎮撫隊と相対座した新政府軍の陣座はこの谷底の深澤川で向き合うが、大変短い距離である。
◇柴田八郎の墓
県道217号線は甲州街道の柏尾の陣(現深澤入口)に合流する。この県道を登って行くと、ぶどう畑に柴田八郎の墓がある。
柴田八郎は ぶどう畑から、果敢に飛び出し、攻めてくる官軍を迎え撃ったが、集中攻撃に会い射抜かれた。 柴田の遺体は放置されたが、その側を通った婦人が心傷めたのであろうか、此処ぶどう畑に埋葬された。墓碑に雨宮とく、 墓を建て弔う旨の記述がある。

◇祇園淵

   <幕軍兵、追い詰めら飛び込み、逃げた>

Img_5895
緩やかな坂を降りきった所に、見事な飛瀑に息を飲んだ巨大な滝壺の祇園淵に到着する。
柏尾の戦いで破れた幕兵はそれぞれ逃げた。負傷兵のうち逃げ後れたもの数名は日川の祇園淵に飛び込み渓谷
沿いに逃げた。祇園淵は日向平の甲州街道に沿う日川の一角にある。
自然から生まれた急に開けた炯眼、懐の深い、日川沿いにこんな舞台の出会いに、同行者の感動の声が上がる。
◇大善寺
勝沼戦争で甲陽鎮撫隊は大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるという理由から諦め戦闘による、草刈り場になることは避けられた。築700年と言われる国宝の薬師堂、初め平安時代の大善寺薬師如 来像、など多数の菩薩像が守られた。  薬師堂(本堂)は国宝。開山した行基がぶどうの栽培を教えたと言われる。
これが山梨のぶどう栽培のはじまりとされ、本尊の薬師如来は手にぶどうの房を持っている。
勝沼と言えばブドウであるが、大善寺もブドウに縁の深い、お寺である。

◇勝沼宿
1)大規模集団、勝沼宿へ
新政府軍は土州、因州諏訪兵の混成部隊で、総隊長は東山道軍参謀板垣退助、 監察谷千城、以下総員、1200名であった。
6日朝甲府を発足、午前10時頃粟原に到着に到着して三隊に分かれ、一隊の土州因州藩は谷千城の指揮で等々 力から勝沼と正面に進んで行く。
新政府軍甲府到着に併せ、諏訪藩はいち早く恭順し、諏訪兵としての一隊は祀岩崎と南方から攻めにかかる。
他の土州藩の一隊は谷新兵衛が率い北方菱山(現勝沼ブドウ郷駅)を迂回し深澤部落から柏尾の陣にある敵の背後を衝かせる事に行動を開始した。
官軍は大勢で精巧な大砲や小銃を多く持ってきたので鉄砲弾、弁当などの小荷駄にも手数を要した。角村の人夫も500人に達した。

2)本陣、脇本陣跡

  <僅かに残される、槍かけの松>

Image9
旧勝沼宿の中心は参勤交代で大名が休憩した本陣、脇本陣跡の周辺である。既に建物は無くなったが、古い建物が残され往時の宿の佇まいが確かめられる。
街道沿いに残されるのは本陣に大名、公家が宿泊、もしくは休憩した場所である。建物は無くなってしまったが、槍をかけ大名がの所在を示す「槍かけの松」だけが残されてあった。
甲州街道を江戸から西下し甲府を目指した大久保大和こと近藤勇が本陣の小澤清蔵方の書院に入った。筒袖に袴を履き草履で、黒い馬にまたがり、躊 躇もなく決戦に望む姿を彷彿させる。ここの書院で柏尾山大善寺住職の訪問を受け、大善寺を戦場の草刈り場にならないよう、懇願され、勇は誓ったと言われている。こうして大善寺が守られ薬師堂や行基菩薩作の薬師如来堂も傷つかず護られ特別保護建造物となっている。

3)鳥居平の姿

        <山の一部が刈り上げられ、鳥居の姿が見られる>

Image10開戦の前日の夜の勝沼付近の一帯は戒厳令が布かれ、抜き身の見張り兵が各入り口を固め夫をかり出し篝火を炊かした。
篝火は幕軍の陣容を膨示するための偽装工作で、低い甲府盆地の官軍側から 勝沼の広範囲に点在する篝火に、いやでも目に入った。南は祝(いわい)、等々力から北は菱山方面(前述紹介した勝沼駅周辺)まで峰と宿は焚かれた。甲府の町民はこれを見て幕軍の大部隊の到着から明日の甲府での戦争を恐れた。
柏尾山の「鳥居平」では鎌倉時代からブドウ害虫駆除に鳥居型の山焼きが10月の第1土曜日に鳥居焼が行われる。
京の大文字焼きと同じ、送り火の意味も持ち、柏尾山の山頂の鳥居平は伐採され、刈り取られた部分が鳥居の姿が甲州街道からはっきり見える。
4)官軍侵攻阻止の柵門

  <甲州街道がクランク上になり、石壁で積まれ、壁になっている、この付近で柵門を準備>

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甲州街道を甲府から東下し、勝沼に陣を張る幕軍に対する侵攻を阻止するため、等々力付近と勝沼宿の浄泉寺付近2箇所の柵門を用意した。
道に面して左側が上行寺、継いで浄泉寺があり右側が勝沼氏館跡である。浄泉寺の角の所の道がクラン ク状になっており、街道を攻め込む敵に対し、柵門を用意して官軍の侵攻を阻止した。官軍は此処を迂回し勝沼氏館側に侵攻し、同所で白兵戦が行われた。
勝沼氏館跡発掘調査した折に、付近のぶどう畑の杭から多数の銃弾が多数発掘され、当時使われたもの と言われている。

■歴史を伝える建屋
勝沼宿は甲府盆地の東端の宿として、問屋場も用意され、物資の集積場として栄え、本陣と複数の脇本陣が構え
繁栄を極めた。天保14年(1843)勝沼宿は192軒の家と本陣、脇本陣、問屋場、23軒の旅籠もあった。しかし本陣 初め、当時の建物は殆ど無くなり、ブドウ農家に変容されてしまった。街道筋に僅かに残された代表的な建物を触れてみた
1) 旧田中銀行

  <和洋折衷の旧田中銀行が、甲州街道で一際輝いている、明治時代の建物>

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明治30年代、勝沼郵便電信局舎として建設する。 明治35年田中銀行になり銀行社屋として改修される。
屋根は切妻瓦葺、入母屋屋根も和風を基調にベランダ、窓の外装部は洋風と和洋折衷の建物である。
明治時代初期に山梨県令藤村紫朗の指導の下で建てられた洋風の公共建築、およびその 建築様式で、100件 以上あり、「藤村建築」と言われている。
明治後期から大正時代の「国土の歴史的景観に寄与している洋風建築もの」として国の登録有形文化財となっ ている。大正2年(1913)催しに参列した北白川宮成久王の宿舎として、 使われ、 宮家の気品も備えている。

当該記事はhp『勝沼宿と柏尾古戦場跡』 で詳細が書かれており、ご覧いただければ幸甚です。

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