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多摩川越えの歴史と「石田大橋」

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都心と甲州結ぶ甲州道を西へ下り、多摩川を越えがあり、近年幾つかの橋が架けられ、一番新しいのが石田大橋である。
多摩川を渡河し国立市と日野市を結ぶ 「石田大橋」が約10年がかりで2003年完成した。「石田大橋」は中央高速、国立ICに直結し、慢性的な渋滞を起こしている甲州街道(国道20号線)の、バイパス路として、大きな役割を担っている。
多摩川の架橋は明治になってからで、それまで、大雨など出船出来ず、天候に支配される渡し船による多摩川越えは大きな障壁でもあった。
多数な橋が架けられ、近代文明の象徴である、モーターりーゼーションの渦に載り、数分で渡ってしまう多摩川越えは覚醒の感がある。多摩川越えの、歴史を踏まえ、周辺辿ってみる。
多摩川の渡河を中心に歴史の遺構を残す石田地区と周辺の地域を地図で集約してみた。
◇渡し舟時代
1)万願寺の渡し
江戸日本橋から約10里、甲州道を西へ下り、多摩川を越えた所に日野宿がある。この多摩川越えは渡船で行われ自然の変化に晒され、下流の六郷の渡しと共に道中の一つの節目でもあった。
度々の洪水や川筋の変化に伴って、渡船の場所は適宜変化していた。
その一つが『万願寺の渡し』である。
慶長10年(1605)五街道の整備により、日野は甲州街道の宿駅に指定され、渡船は従来通り、万願寺に置かれた。
しかし多摩川がたびたび洪水をおこしたため、街道は移され、貞亨元年(1684)段丘の上の常安寺(現立日橋付近)の『日野渡船場』に移され、架橋まで続いた。

<草深い土手の一角に「万願寺の渡し場跡」の木柱が確かな案内役を担っている。
右側は高速道路でこの脇を万願寺の渡しがあった>。

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普段は静かで穏やかな流れではあるが、これが一旦怒りだすと、護岸の決壊 浸水が繰り返される歴史が近年迄続いている。
2)どんな渡船
渡船場は歩行船(6.4×1.2M)1艘、そう馬船(11.8×2.7M) 2艘により運行され、江戸時代の荷物運搬は人間より馬の背で行われていた事がわかる。 特に甲州の物産は明治20年代の甲武鉄道の開通まで笹子峠や小仏峠の天険も馬の背で運ばれた。甲州ブドウの荷を振り分けで積み馬5、6頭を繋いで一人の馬子が引いていったとか、馬糞街道とさえ呼ばれたそうである。
3)転覆事件
多摩川は通常、川幅109m、水深1.5mであったが、増水時は255m、水深3m余りになった。 水深を越えると渡船は川留めし、水深が下がると解除され川明けとなる。この決まりは遵守された。
弘化3年(1840)天候不順で大雨が続き、6月24日以来、日野の渡しは川止めとなり、川明けを待つ人々が両岸で満ちあふれていた。
7月2日、川明けとなり、待ちかねた人々が渡船場に押し寄せ、船頭は抑止出来ず、船は平常の2~3倍の34人を載せ危険であったが、渡船になった。
川中で突風が吹き、高波が船に入ったことに驚いた客が片側に寄ッたため転覆した。船頭2人以外は急流ではなすすべもなく、溺死し、その死骸は遠く下流に流れ、遠くは川 崎まで流れていった。満員で乗れず、両岸の人々が居る前での惨事であった。

4)土方歳三の生家、水没
転覆事件と同じ、弘化3年6月30日、降り続いた雨のため多摩川が増水し、現在の日野橋辺りから溢れた水によって、満願寺、下田の低地一帯が押し流された。
石田寺北にあった土方家でも、物置、土蔵が押し流され更に母屋まで危うく成り掛けた時、石田村や急を聞いた近村の人々が駆けつけ、母屋や土蔵を解体し、西方の現在地へ移築した。
歳三が12歳の時であった。
5)石田周辺は出水の歴史
歳三生家跡周辺は多摩川、浅川の合流点に近く、度々出水を起こしている。
現在、住宅地にあり、屋敷の合間を縫うように道が張りめぐらされ、土地開発が進められている。
とうかんの森、歳三生家跡、石田寺など旧跡巡りに、一歩当地に入ると、迷走する場所である。
特に目立つ建物がない場所だけに、聳え立つ、とうかんの森のむくや石田寺のかやの巨木が道案内してくれる。「ともかく、道迷ったら、見上げて、巨木を見よう」

       <一際目立つ、とうかんの森の巨木>

Image1◇石田大橋
石田大橋は一般国道20号線日野バイパス(国立市谷保~八王子市高倉町8.1㎞)のうち国立市と日野市を結び、多摩川に懸かる長さ385mの橋である。
巾員 :車道8m(2車線)歩道3.5m
工事期間:平成6年11月着工、平成15年3月完成

        <多摩川にかかる、石田大橋>
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<その名に相応しく長さ385m、壮大な石田大橋>Image2
橋名の選定に当たっては広く両市民に公募して名称を募り、その中で票数が多く両市つなぐ橋名に相応しい名称として「石田大橋」が選定された。
「石田」この地が江戸時代にあった「石田の渡し」に近いこと、また江戸時代の多摩川の洪水により日野市側にあった、石田村の人々が国立市側に移住し、その地に「石田 」と名付けたことなど、両市にとって歴史的由来のある名称である
因みに公募結果は
応募総数:193件
応募名称:万願寺橋(39件)、石田大橋(28件)、日の国橋(17件)、国立泉大橋(10件)、国日橋(4件)他、土方橋、歳三橋、タマちゃん橋など76名称がエントリされた。
こうして、難渋した多摩川越えの歴史を踏まえ、多摩地域と都心を結ぶ幹線の一役を担っている。大小の車両が爆走し、騒音を生む一方、道沿いに店舗も生まれ、周辺を一変させる影響を与えている。

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案内人Kさんのこと

何年前のことであったか、残暑の厳しい9月であった。
◇歴史遺産の紹介
此処の甲州道に面する本陣の式台で幕末の風が流れている。甲州道に在する高遠藩、高島藩、飯田藩の参勤交代で公家、大名が各藩と江戸の間を往復する時の休憩所である。
鳥羽伏見の戦いで破れた新選組が甲陽鎮撫隊として再編成され近藤勇以下が甲府城へ目指し、西から江戸城を攻める新政府軍を阻止で向かう過程で一行が休憩した。
意気に燃えた鎮撫隊の目的は叶えれず、途中の勝沼で破れ、江戸へ散開した。後を追うようにシャグマ姿の陣笠付け、殺気だった官軍が甲州道を東下し、日野宿にも押し入り探索の手が入った。是れを期に幕藩体勢が崩壊した。
幕府瓦解後、民衆からは天を遍く神のような存在の明治天皇が、近代国家に生まれ変わり、国民に親しまれる姿を見て貰う機会を積極的に作り、全国に行幸した。京都まで巡行される明治天皇が休息された。
幕末から維新にかけて、新選組はじめ歴史のうねりを語り告げられ、僅かに残された希少な存在である。

◇当日の案内疫を担うが
当所の開設以来、建物を背景にした歴史の蘊蓄を活かし誰よりも語りを楽しんでいた、案内人の一人であった。
所が声が霞み、振り絞って出す姿が、痛々しかった。
以前から体の変調をきたし、当番、当日から、半月程前から、案内の生命線である、声が掠れて突如出なくなった。
本来なら当日は休むべき状況であったが、恐らく家族の静止を振り切って覚悟の上の無理しての登板であった。
カメラを持参し、建屋を含めた、何時ものフィールドを背景に当人の姿を撮ってくれと頼まれた。この時に此処へ戻れないことを、覚悟の上で、最後の姿を記録に留めたいと、只事ならぬ状況が初めて判った。
言われるままの撮影であったが、此れまでの経験のない重苦しいもので、あったが、何とか納まった。

掠れた声にかなり無理もあり、重い様子にこちらから、何を声をかけていいやら、判らず、休めばと声かけたが、そのまま閉館まで、続けられた。
相応の覚悟の上、めりはりを付けたかったようだ。最後のお客様を送り、一緒に門を潜り建屋の別れを告げ、無事にやり終えた満足感に浸って いたようであった。

◇再会叶わず
それまで酒も嗜み、普段と変わらない生活であったが、体全体が蝕まれ深刻な状態に驚いたこと、近日に家族を伴って今後の処置を聞きに行くことを吐露された。
同じ歴史仲間、再びの再開を祈って、門前でエールを送ったが、叶うことが出来ず、それが最後、何処からとも無く、1年後、訃報を耳にする。

◇解脱を祈り

             <異風堂々の芝増上寺、三解脱門>

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徳川家の菩提寺の一つが芝の増上寺で、14代将軍家茂のほか、歴代将軍や皇女和宮が眠っており、度々出かける。
増上寺の表看板として、入母屋造り朱塗りの豪華な建築洋式の三解脱門が道に面し、「どうだ~」と言わんばかりに道行く人に威風堂々とした姿を見せる。この三解脱門も知恩院の門も日本一と言われるが、同じ浄土宗で此処を通る人は解脱して通ると言われている。

解脱とは「苦悩を克服して絶対自由の境地に達すること。」・・・広辞苑
「きっと、解脱して、今頃、彦五郎と盃を交わし、歓談に浸っていると、思えるが」

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明治天皇行幸と御膳水

明治13年6月16日、明治天皇が甲州路から木曽路を京都へ御巡行され、激しい雨の中、馬車で日野佐藤邸へ到着した。雨は激しさを増し、道路上に砂礫を撒くのみで、馬車は泥に車輪を取られ、難渋したと言われている。
明治天皇を乗せた重厚な儀装車を中心に前後を固めた小旗の日章旗を掲げて儀仗兵達の物々しい制服姿の一団は街道筋の人々を驚かす、重厚で壮大なシーンであったと想像する。
随行者は300~400人と言われ、二品貞愛親王、太政大臣三条実美(長州系公家)、参議伊藤博文、同寺島宗則、他内務郷、文部郷、宮内郷、陸軍中条、などなど国の中枢を担う要人が多数含まれた。
日野宿では宿の指導者たちが、羽織・袴に威厳を正し明治天皇の巡行を迎えた。
元々幕府の天領地の日野に幕府が倒れ明治維新後、明治天皇と言うVIPを日野でお迎えすることになった。

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<明治天皇を乗せた六頭曳儀装車(明治神宮宝物殿の展示(カタログから)。
この儀装車を中心に前後を固めた小旗の日章旗を掲げて儀仗兵達がさっそうと乗馬し警護する。
但し、この儀装車を使われたか不明。

◇大事な御膳水
何よりも敬うべき天皇をお迎えする事ではあるが、たかが飲料水如きに井戸を堀り、差し上げる、もてなしに、如何に、大変な行事であったことを物語る。
明治天皇の住まいである御所から離れ、全国に行幸される、場面ではことの他、神経を使うのは飲料水であった。
人間の体は60~70%は水分で構成されていると言われている。そして体内の水分は常に汗、尿、呼吸なで排出され1カ月で体中の水分が入れ代わる。従って、良い水を効果的に摂取することは健康維持に、長生きできると言われている、健康造りの原点なのかも知れない。
良い飲料水の効用は既に先人の知恵として伝えられ、名水と言われるものがもてはやされている。
飲料水のコマーシャルではないが、水の大切さをこんな所から生まれ、伝承となり明治天皇の行幸にも熟慮されたのではなかろうか。

◇散在する御膳水
明治天皇が全国に精力的に行幸されたことから御膳水と言う看板で光が当てられる場所は以下のようにあちこち散在し、名所にもなっている。
1)茅野市
茅野市宮川にある曹洞宗の名刹宗湖寺は 寺の敷地内にある井戸の水を「御膳水法(のり)の真水(ましみずと命名この水は1880年(明治13年)明治天皇に献上した由緒ある井戸水
2)軽井沢宿
江戸時代より水質が良くわき出る水が豊富な湧き水は「お水端」と呼ばれ軽井沢宿を往還する旅人や宿場の人々また本陣に宿泊する大名・公家の御膳水として活用された。
明治11年9月明治天皇が軽井沢宿で昼食をとられた際に御膳水として使用された湧き水の源泉がこの谷間にある。

◇日野宿での御膳水

01110012<御膳水の井戸と場所を示す案内板がかってはあった。>

本陣にも明治天皇の行幸と御膳水の碑が残っている。
明治天皇が京都行幸で日野宿の本陣が休憩所としての利用が具体化されたときに宮内郷から敷地内での水質の調査を実施し、御膳水として検査をした。不的確であれば多摩川を利用するようであったが、現在の本陣の中庭の井戸でお墨付きを貰った。
明治天皇は明治13年の京都行幸と併せ、翌14年にうさぎ狩りで来られており、御膳水として大事な役割を果たしている。
その後、御膳水は、半ば放置され、木製の井戸の裏側ががかなり腐食し傷んでいたので桶は、外され蓋を架けられ、案内板も無くなった。

維新以降、宿を上げての明治天皇の京都行幸で迎えた大きな行事。それを支えた、御膳水の設備は当時を語り伝える大事な記念物だけにせめて場所を示す看板だけでも有るべきと思うが、知る人ぞ知る存在になってしまっている。

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身近な所に千人同心

<兜から胴着、手、足まで武具で固めた鎧姿に臨とした戦う兵士の姿が今にも立ち上がり、軽妙に動き回るような錯覚を覚える。千人同心の姿である>

Img340_2 隣の八王子市街は東西に甲州街道が走り、その一角に「千人町」がある。江戸時代は幕府家来団の一組織である
「千人同心」が住んでいた武家屋敷が立ち並んでいたが、明治維新で明け渡され、その面影さえ無くなってしまった。
元々武田の軍事集団であったが、戦いで破れ、幕府の配下で甲武国境の警備を目的に本拠地を八王子とした「八王子千人同心」として明治維新まで約280年間続いた警備集団である。
幕府からの公務以外は農民として生活していた特異な集団である。日光の火の番を主な仕事とし、幕末の激動期は近代兵制を取り入れ、洋式軍隊化された幕府の一精鋭部隊であった。
10組、100人の組織で、総員約900~1000人が構成されていた。
千人隊は幕府の旗本身分として、年貢収入を得る知行地を与えられ、武蔵(八王子・調布・世田谷・神奈川県横浜)上総(千葉君津・木更津・袖ヶ浦)などに分散していた。
寛政の改革によって文武が奨励され、剣術を中心とする修業が活発化し、天然理心流など門弟も多かった。

◇千人同心の末裔、
知友のI さんは八王子の千人町にお住まいである。
奥様はバリバリの千人同心の末裔であり、千人同心と関わりを持つ家柄である。
現役時代は某電力会社のサラリーマンであったが、退職後は千人同心の深い関わりを背景に、先祖起こしを兼ねて、幕末史を追っかけていた。
千人同心の末裔を主体とする人々が集まり、千人同心の事蹟研究や霊を慰める「八王子千人同心旧交会」の会員として、千人同心の意志を継いでいる。

◇千人同心の姿を重ねる
約280年の伝統基盤を持つ集団で、遠くは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに出陣した戦国時代から、始まる。
文久2年(1862)将軍家茂に属縦し、上洛している。慶応2年(1866)の第二次長州征伐に加わったが、家茂公の逝去の報に指揮官の老中小笠原が小倉から逸走、征長軍も総崩れ、征長軍引き上げ令が下り、千人同心も引き上げる。
その後日光勤番、横浜の警衛に加わっている。
第一線で活躍した同心だけに、ひょっとしたら、高杉晋作あたりと一戦交えたのであろうか、同家に色々資料があったそうだが、当時の歴史研究家に渡した資料がそのまま散逸してしまったり、市内は空襲で焼け尽きており、殆ど残っていないようである。

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