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案内人Kさんのこと

何年前のことであったか、残暑の厳しい9月であった。
◇歴史遺産の紹介
此処の甲州道に面する本陣の式台で幕末の風が流れている。甲州道に在する高遠藩、高島藩、飯田藩の参勤交代で公家、大名が各藩と江戸の間を往復する時の休憩所である。
鳥羽伏見の戦いで破れた新選組が甲陽鎮撫隊として再編成され近藤勇以下が甲府城へ目指し、西から江戸城を攻める新政府軍を阻止で向かう過程で一行が休憩した。
意気に燃えた鎮撫隊の目的は叶えれず、途中の勝沼で破れ、江戸へ散開した。後を追うようにシャグマ姿の陣笠付け、殺気だった官軍が甲州道を東下し、日野宿にも押し入り探索の手が入った。是れを期に幕藩体勢が崩壊した。
幕府瓦解後、民衆からは天を遍く神のような存在の明治天皇が、近代国家に生まれ変わり、国民に親しまれる姿を見て貰う機会を積極的に作り、全国に行幸した。京都まで巡行される明治天皇が休息された。
幕末から維新にかけて、新選組はじめ歴史のうねりを語り告げられ、僅かに残された希少な存在である。

◇当日の案内疫を担うが
当所の開設以来、建物を背景にした歴史の蘊蓄を活かし誰よりも語りを楽しんでいた、案内人の一人であった。
所が声が霞み、振り絞って出す姿が、痛々しかった。
以前から体の変調をきたし、当番、当日から、半月程前から、案内の生命線である、声が掠れて突如出なくなった。
本来なら当日は休むべき状況であったが、恐らく家族の静止を振り切って覚悟の上の無理しての登板であった。
カメラを持参し、建屋を含めた、何時ものフィールドを背景に当人の姿を撮ってくれと頼まれた。この時に此処へ戻れないことを、覚悟の上で、最後の姿を記録に留めたいと、只事ならぬ状況が初めて判った。
言われるままの撮影であったが、此れまでの経験のない重苦しいもので、あったが、何とか納まった。

掠れた声にかなり無理もあり、重い様子にこちらから、何を声をかけていいやら、判らず、休めばと声かけたが、そのまま閉館まで、続けられた。
相応の覚悟の上、めりはりを付けたかったようだ。最後のお客様を送り、一緒に門を潜り建屋の別れを告げ、無事にやり終えた満足感に浸って いたようであった。

◇再会叶わず
それまで酒も嗜み、普段と変わらない生活であったが、体全体が蝕まれ深刻な状態に驚いたこと、近日に家族を伴って今後の処置を聞きに行くことを吐露された。
同じ歴史仲間、再びの再開を祈って、門前でエールを送ったが、叶うことが出来ず、それが最後、何処からとも無く、1年後、訃報を耳にする。

◇解脱を祈り

             <異風堂々の芝増上寺、三解脱門>

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徳川家の菩提寺の一つが芝の増上寺で、14代将軍家茂のほか、歴代将軍や皇女和宮が眠っており、度々出かける。
増上寺の表看板として、入母屋造り朱塗りの豪華な建築洋式の三解脱門が道に面し、「どうだ~」と言わんばかりに道行く人に威風堂々とした姿を見せる。この三解脱門も知恩院の門も日本一と言われるが、同じ浄土宗で此処を通る人は解脱して通ると言われている。

解脱とは「苦悩を克服して絶対自由の境地に達すること。」・・・広辞苑
「きっと、解脱して、今頃、彦五郎と盃を交わし、歓談に浸っていると、思えるが」

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