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『野毛山から港みらいへ』開港、横浜を巡る

       <紅葉坂から左側が神奈川奉行所、右側の先が掃部山公園>Image3_2暑い暑いと思っていたが、朝晩の冷え込みは厳しく、秋を通り越して一気に冬に来たような錯覚さえ覚える、昨今の陽気である。
しかし、この時期、天気さえ良ければ外歩きには格好の季節である。
『野毛山から港みらいへ』、半年前から予定したが、またまた野毛山へ来てしまった。
今回は過去の実績を踏まえ、20数名の山岡鉄舟研究会の皆さんを案内し、横浜開港に関わる、拠点を案内した。
当日の参加者は薩摩や長州の出身の方もおられ、自然と歴史風土の中に育む環境にある方、或いは歴史研究に、鋭い感性を研ぎ澄まし一家言持つ、方々など歴史には取り分け深い精鋭の一集団である。 従って、通り一編のセリフを並べた案内では貴重な時間を潰し、冷やかな目線を浴び、看板の研究会の定例行事に傷をつけ、悲惨な結末になってしまう。
一方では盛り沢山な拠点には分刻みのタイムスケジュールをこなせなければならず、長い説明は法度、予定したコースを廻りきる事であった。
坂、階段ありのアップダウンや幽霊屋敷となってしまった公社脇の道のコース、など、波瀾万丈、変化に飛んだコースであった。
JR桜木町駅から『神奈川奉行所跡』、井伊直弼像の『掃部山公園』、掃部山の南側の沿いの高台から下に『よこはま道の切り通し』を経て益満休の助が亡くなった『野毛山軍陣病院跡』(現老松中学校)。野毛山公園の『佐久間象山之碑』、野毛坂の平沼専造邸宅地跡の『亀甲積の石垣』、人通りの激しい『吉田橋』までが午前中の終着であった。

馬車道で昼食後、みなとみらい線に乗って元町で降車、外国人居留地の『フランス駐屯地跡』、港の見える丘公園から『イギリス駐屯地跡』、今回特別に許可を貰った外人墓地内『リチャードソン』の墓参を最後に当日の拠点巡りは終わった。
巡りの最後の場所だけに、どんな理由があっても時間厳守、ともかく前倒しに、息の詰まる時間優先のコース案内に、何とか余裕を持ってクリア出来た。

野毛の紹介は当ブログで度々紹介しているが、新たな「港みらい」地区を含め、こんな出会いもあった。

◇明治になって彦根藩士の井伊銅像の建立の思いImage5
明治42年(1909)旧彦根藩士らにより、井伊銅像の建立、昭和18年(1943)戦時下、金属回収で撤去、現在の物は昭和29年(1954)開国100年記念で再建されたものである。
建立当時の神奈川県知事周布公平の父は萩藩士周布政之介である。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではなく藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてしまうが、幕府の開国政策には反対していた。
安政の大獄の怨念もあって、除幕式を強行したが、数日後銅像の首が落とされるなど、波瀾の建立であった。
しかし、そんな反対も押し切って銅像建立に何故駆り立てられたのであろうか。
1)『桜田門外の変』の処分
譜代大名の大老を『桜田門外の変』で首を取られたことに対する幕府の厳しい処分から、大名行列の警護の責任を問われ、切腹、斬首など凄惨を極めた。
更に石高が35万石から25万石になった。
2)幕府に急反発
幕府から厳しい処分から急反発し、徳川四天王と称され徳川譜代の代表格の彦根藩は『戊辰戦争』で早々に新政府軍に恭順している。
維新以降は彦根藩は既に新政府に身を換えている。
横浜港を俯瞰する井伊の姿には維新以降も、井伊に纏わる人々の様々な思いが色々込められている。

<掃部山公園から、横浜道を渡って『切り通し』へ、配下の道が横浜道で東海道と居留地を結んでいる。此処が最大の難所共思えるが、3カ月で道が出来てしまった。>Image4
◇外国人居留地と横浜駐屯軍
横浜港を見渡せる素晴らしい炯眼の「みなとの見える公園」は安らぎ与える横浜一の場所とも思える
しかし、幕末時は隣接する、広大な敷地はフランス、イギリスの精鋭部隊が駐屯し、『薩英戦争』や『四カ国連合艦隊の長州攻撃』も此処から出動したきな臭い場所でもあった。
当初は軍艦に乗り込んだ水兵が警備に当たっていたが、文久2年(1862)8月 『生麦事件』から文久3年(1863)3月自ら守るためフランス軍が駐屯、翌年イギリス軍が駐屯する。その規模は
The North Camp  19,000坪(兵舎4,600坪)イギリス陸軍約1200名、海兵隊300名
The Sorth Camp   3,000坪(建坪120坪) フランス海兵隊約300名
高々居留民約300名に対して両軍合せ1800名の駐屯になった。
文久3年8月、交渉で英国軍艦7隻で横浜から鹿児島に向かい、交渉決裂し、薩摩側からの砲火、から英側も反撃、鎮圧する、『薩英戦争』となった。
元治元年(1864)7月、英・米・仏・蘭四カ国連合艦隊で軍艦17隻、砲280門、兵員5014名で下関攻撃に向かい、長州藩の砲台が沈黙する。
明治2年(1869)駐留軍の撤退交渉開始、明治4年(1871)撤退開始~明治8年81875)完全撤退する。

◇双方で離反する英・仏
駐屯地が英国・仏国の駐屯地は隣あわせであるが、それぞれ幕府側と薩長側にそれぞれ傾注していくのは正に同床異夢であった。

1)仏国は日本駐在仏公使の『ロッシエ』の意向で幕府側へ
駐屯地が英国・仏国の駐屯地は隣あわせで当初は英国がイニシアチブによる英仏両国の横浜防衛権の獲得がされたが、日本駐在仏公使のロッシエの意向で『幕府援助政策』が鮮明になる。
・対長戦争に幕府武力強化のため武器購入で仏から600万ドル借款
・幕府陸軍が『仏式陸軍』の調練、『日本最大の西洋式軍事組織』となる
鳥羽伏見の戦いで幕府惨敗後も天皇政府を否定した。明治元年(1868)ロッシュは意にならないまま、『帰国命令』を受ける

2)英国は日本駐在英公使『バークス』の意向で薩長側へ
一方英国は日本駐在英公使「バークス」は同国書記官『アーネストサトウ』などの情報から幕府政権の継続困難を知り、『薩長両藩』に急接近、支持に傾く
・第二次長州戦争では幕府軍の進攻を制止行動
・「下関砲台」の再武装を黙認
バークスの意志で王政復古で列国に先んじ『明治政府』承認する

<フランス軍の駐屯地があった後の領事館跡。領事官は日本に駐在して自国民の保護及び自国の通商の促進にあたった。>Image9
明治29年(1896)フランス領事館と領事官邸が完成したが、大正12年(1923)関東大震災で倒壊する。
昭和5年(1930)領事官邸が、旧領事官邸跡に再建されたが、昭和22年(1947)不審火で焼失し、無残な廃墟だけ残される。風車は、給水の汲み上げようの動力として使われた。

<イギリス軍の駐屯地があった後の領事館。>

Image8
昭和12年(1937)英国総領事公邸として完成
南側には、広々としたテラスは芝生の庭に繋がり、広い窓からは庭や港の眺望が楽しめる。
シャンデリアやモダンな丸窓を備え、公邸として、気品と豪壮な欧風文化の空気を確かめられる。

両国の領事館の対比で片や廃墟、片や立派な建物の姿に、戊辰後の幕府と新政府の姿を象徴するようであった。

◇リチャードソン墓地へ
外人墓地には何度か来ているが、鉄舟研究会スタッフの熱意で非公開であった、生麦事件の犠牲者リチャ-ドソンが眠る墓地まで、係員に案内して貰った。

Image12巨木を背後に真ん中に水平の墓石がリチャ-ドソン、背後に左側にマーシャル、右側にクラークの墓が並び、一緒に眠っている。
文久2年(1862)薩摩藩主の総勢1000人余りの大行列が東海道を京都へ向かう途中の、生麦で横浜の居領地から馬で遠乗りしたイギリス人、4人が行列に混入してしまい、行列を乱してしまった。
行列を警備する藩士がイギリス人に襲撃、チャ-ドソンが死亡、マーシャル、クラーク、婦人のボロデールが傷を負ったが逃げ帰った。
犯人の引き渡し、賠償を請求するイギリス側と応じぬ薩摩側と鹿児島で薩英戦争まで起きる大事件にまでなってしまった。
幕末を揺るがす『生麦事件』の当事者が目の前に眠る墓前で、居留地住民とイギリスの駐屯部隊も巻き込む事件として、旅の巡り終末に感慨深いものがあった。

外人墓地を最後に予定した巡りは何とか終わった。
元町の商店街を通り、途中の居酒屋で、当日の疲れの癒しと無事に廻り切れた、喜びを祝、反省会を実施。JR石川町駅から、横浜線経由で帰宅した。

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