« 『野毛山から港みらいへ』開港、横浜を巡る | トップページ | 『ようこそ幕末の世界へ』HPのURL修正のお願い »

絵から伝える史実『聖徳記念絵画館』

Image11
◇銀杏並木の花道
国道246号線、通称「青山通り」から、真っ直ぐの造営された銀杏並木の黄金色に色濃く輝き、道の先が「聖徳記念絵画館」、以下絵画館である。
神聖な遺跡名として冠である聖徳とあり、 明治天皇の聖徳をお慕いして、明治神宮の内苑・外苑の造営事業が大正時代に誕生している。
外苑の広大な土地33万㎡に及ぶ、青山練兵所跡で、「聖徳記念絵画館」を中心に、 神宮球場、現在建設中の国立競技場や、明治記念館は荘重な結婚式場の晴れ舞台として、使われている。
明治天皇を前にこの青山練兵所で陸軍の凱旋観兵式が行われ、有名な画の一つにもなっている。青山練兵場では、飛行船や軍用機の発着等行われ、親爺も砂塵にまみれての演習で汗をかき重機関銃部隊として中国大陸中部の戦地に送り出されている。

Image21

一時、この近くに住んでいたが絵画館は通称「丸館(まるかん)」とも呼ばれ親しまれ記憶の中にどっかり、座り、外苑は謂わばホームグランドであった。歴史に全く無関心であったが、当地から離れ、歴史に興味を持ち、絵画館が幕末から維新以降の近代まで、歴史を語り伝える大事な場所であることが判った。
過去に何度も見に行っているが、今回、明治神宮外苑創建90年記念も関心事で、学芸員・研究員の展示解説があり、参加してみた。
巨大な80枚の絵画を前に約1時間少々の時間で、約10数枚程の代表絵画から、絵の誕生から、門外不出の展示、絵画が語りかける歴史の中身を聞き、新たな事実に驚きと、感動をも生まれる、貴重な機会を得た。
当日は先着30名までの案内に、講演前の1時間前に入れ込み、記帳したが、定刻時にはかなりの大勢の衆で、賑わい改めて感心の深さが窺われた。

◇80枚の絵巻物語
戦国擾乱の時代を終わらせた、徳川家康が幕府を開き、約250年の徳川幕府の時代が続いた。薩摩藩・長州藩を中心に公家を含めた倒幕の勢力台頭に王政復古の大号令で、徳川の時代から、天皇を中心とした新政府に変わった。
国内内乱となる戊辰戦争を経て、日本が近代化を進める過程で、日清・日露など周辺国との戦争など国を揺るがす紛争に拡がっていく。
その間、孝明天皇の崩御、明治天皇が誕生、近代日本の変貌をなし遂げるなかで、天皇が多くの事績を残され、明治45年崩御される。
この時代の経過を踏まえでの事件や史実に基づき、明治天皇や皇后の事績を将来に伝えるために80枚の巨大な壁画で、描かれている。

◇80枚の壁画の誕生
五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)は、下絵を作成するため、取材旅行を含めスケッチし、80枚の壁画の最初の構図考え4年掛かりで水彩画で描いた。
十分調査できなかった物を含め、80枚の素案は描く画家に原則、1枚、1人の単位で画材は引き継がれ、更に調査を踏まえ作品として仕上げていく。
内容が内容だけに国家の事業と言っても良く、天皇、皇后を描く大変な事業であった
◇歴史画として史実を正確に再現投げられた画家は更にもっと詳細に調べ、歴史考証に時間をかけた。単に自分の好みに応じて、画材を描いてはならないので、当時の一流の画家は非常に苦労した。記録に残っているもので1枚の壁画を描くのに12年かかった画家もいる。

◇門外不出
壁画80枚あるが、畳み2畳程、縦3.7m 横2.5~2.7mある。巨大な絵画であって、恐らく搬送・展示場所など色々制約もあり、内苑展示など例外を除き、絵がこの絵画館から殆ど外に出たことが無い。
だからこそ、価値観があるのであろう続々詰めかける人並みは絶える事も無かった。歴史場面で度々登城する馴染みの場面は此処から生まれ、門外不出の巨大な壁画の前で、臨場感がたっぷりに、歴史の瞬間に浸ることが出来る。

◇語りかける史実
80枚の中から日頃、目にする代表的作品、『大政奉還』~『王政復古』に限定し、紹介する

画面が圧縮されているので、クリックすると拡大します。

#5 『大政奉還』

Seitokukaigakan201

慶応3年(1867)15代将軍の徳川慶喜は薩摩・長州を中心に幕府を倒そうとする意見が強く、未だ薩摩藩 他は表舞台に出られず、受け皿はない、政権は自分の所に戻ってくると踏んだ戦略的な意図もあって、先手を打って政権を天皇に返した。
二条城で中央に座っているが、15代将軍徳川慶喜で、将軍を支える松平容保、松平定昭ら重臣たちが居並んでいる

#6『王政復古』

Seitokukaigakan202

天皇、臨席のもと、新たに任命された総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職によって、慶喜の処遇を決める新政府の最初の小御所会議が明治天皇の主催で開かれた。
右側の手をだしているのが公家で岩倉具視で背後に影の人物、大久保利通、有栖川宮親王が固唾を飲んで見守っている。
左側は徳川に恩義を感じる大名達で前面に居るのは前土佐藩主で 議定の山内豊信で、遅れて来たため、裃のままである。
岩倉は慶喜に内大臣職と領地を返還させること。山内は内大臣職は未だしも領地没収は穏当でない、と激しく主張する。
いざとなったら慶喜を弁護する山内を短刀で倒せと西郷が岩倉に迫ったとも言われている。結局、慶喜を新政府に加えないと言う結末になった。こうして、王政復古のクーデターがなし遂げられ日本の命運が決まった。
会議は西郷隆盛が指揮する兵力が警戒するなかで開かれ、物々しい雰囲気、佐幕、倒幕の緊迫した対決姿勢が壁画から伝わってくる。

#7『伏見鳥羽戦』
小御所会議の決定で慶喜は朝廷の官職を退き、領土も一方的に奪われ、京都の二条城から大坂城へ移る。
会津・桑名両藩をはじめとする旧幕府軍は新政府から慶喜を外す決定に憤慨し、大坂城から京都へ進撃し、京都南方の伏見・鳥羽の地で新政府軍と激突する戊辰戦争が勃発する。
する。旧幕府軍は譜代藩であった淀藩などが新政府軍に寝返りや、離脱した藩などからも攻撃される。新政府軍は朝廷から錦旗(きんき)の下腸を受けて、官軍となり、近代装備され、数では勝る旧幕府軍を圧倒劣勢な幕府軍を前に伏見・鳥羽の戦いでは勝利を収め、旧幕府軍は賊軍となる。
壁画は長州藩の奇兵隊を率いる『三浦梧郎』は抜刀し、全軍を鼓舞し、旧幕府軍の会津藩兵を攻めたて、背後に位置する薩摩藩の大砲が支援する戦いの場が描かれている。

Seitokukaigakan301松の木に思い入れがあり、猛猛烈な寒風に吹き荒び、遠くに淀城が望まれる様子が伺える。
「三浦梧楼」は長州生まれで、戊辰戦争では奇兵隊で参戦、維新後は西南戦争に従軍する軍人出身であった。
明治13年(1880)明治天皇京都行幸の随員の一人であり、日野宿にも来ている。
以下、隣接国で国際関係も揺るがす大きな事件に関与している
明治当初、朝鮮では政治の実権を巡り、高宗(国王)の父の『大院君』と『王妃』の間で争い『閔妃』は景福宮にて暗殺された。当時「三浦梧楼」は朝鮮駐在公使として、現地に居り、『乙末(ウルミ)事変』の関係している。

詳細はHP『ようこそ幕末の世界へ』 で掲載しており、併せて、ご案内します。

|

« 『野毛山から港みらいへ』開港、横浜を巡る | トップページ | 『ようこそ幕末の世界へ』HPのURL修正のお願い »

17、明治天皇行幸」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/211410/68563789

この記事へのトラックバック一覧です: 絵から伝える史実『聖徳記念絵画館』:

« 『野毛山から港みらいへ』開港、横浜を巡る | トップページ | 『ようこそ幕末の世界へ』HPのURL修正のお願い »