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築地の軍艦操練所跡

ペリー 来航に驚愕した幕閣はようやく国防意識に目覚め、江川太郎左衛門(担庵)の提案が認められ品川台場の築造と相まって海軍創設を始めた。
この「軍艦操練所」が基盤となって、日本の海軍の近代化が進められ着々と育って行った。
一方、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦いで追い詰められた幕軍の将軍職徳川慶喜は大阪城から抜け出し 幕府軍艦開陽で品川沖に停泊、失意の出迎え先は隣接の「浜御殿」であった。
これら歴史の拠点について、事実を辿りながら、追ってみた
◇水上から確かめる

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隅田川との合流点近くの築地川の水上バスの船上からの風景である。左側のこんもりした緑は浜御殿で現在の浜離宮 恩賜(おんし)庭園である。開陽丸で大阪から江戸へ引き揚げ、上陸した将軍慶喜公もこの浜御殿からである。歴代将軍が品川沖からはしけを使い陸に上がった 将軍の「お上がり場」はこの近くである。
船が係留される対岸一帯は軍艦操練所で、現在は築地卸売市場になっている。
当時は「御軍艦操練所」は江戸湾(東京湾)に面しているが、現在は隅田川を隔て東側は埋め立てられている。
◇練習船の一つが「咸臨丸」

<写真の「咸臨丸」は長崎県オランダ村から発注された復元船。3本マストなど忠実に再現されている。2003年特別公開で浦賀港で撮影した>
Image6操練所の練習船は観光丸、昌平丸、君沢形、等あったが、そのうちに咸臨丸も加わった。操練所の訓練船の一つとして、使われた「咸臨丸」であった。
□軍艦操練所
安政4年(1857)7月、長崎の海軍伝習所を廃止して江戸築地南小田原町の講武所内に軍艦操練所が創設された。
永井尚志を総督に矢田堀景蔵を教授方頭取に次の者が教授方に挙げられた。

1)御軍艦操練所稽古規則
測量並算術、造 船、蒸気機関、船具 ・運用、帆前、訓練、海上砲術、大小砲船打調練稽古の儀は朝四つ時(午前八時)より九つ時迄(午後3時)途中昼休みも含めびっしりと学習に励んだ。
稽古は、正月十九日より相始め十二月十九日相納め候事とされている。
2)伝習所~操練所と学び、出世の道へ
(1)伝習生時代の生活
伝習生は個人の家来、従僕更に職人もあり、種々雑多な庶民も加わっているので、伝習所内は極めて厳格であった。
しかし、慣れないヨーロッパ風の教育を受けている毎日の生活に相当応えたのか、幕臣であり、担庵(江川 英龍)門下の優等生と目されるものの中にも夜隠密かに買春宿に行くものも居たと言われている。
しかし、職人と言っても、既に伊豆戸田港において露艦の建造(地震の大津波で難破)に従事した洋式造船の経験であったから、伝習所内では造船の実務に関する限り常に優秀な成績を挙げる事が出来た。
(2)面目躍如たる伝習生
それぞれ伝習生として留学。.抜群の成績と手腕を認められ、一介の職人が、苗字帯刀を許され、出世し破格の栄誉を得た。
伝習生からこんなsucces storyが生まれた。
伊豆加茂郡河津村出身の船大工、伊豆田方郡戸田村出身の徴用工、江戸築地飯田町出身の鍛冶工等の伝習姓は咸臨丸で桑港乗船、長崎に留学、石川島造船所にて千代田方の造船などの経験を踏まえ、それぞれ横須賀製鉄所の技師長、造船工長、煉鉄工場長などの日本の造船を一線の技術者として出世している。
以上は江川担庵伝(海防と農兵制)から引用した。

<「咸臨丸」太平洋横断>
万延元年(1860)「咸臨丸」太平洋横断の偉業を達成するが、軍艦奉行木村摂津守、以下船長勝海舟、福沢諭吉、通訳の中浜万次郎と一緒に上述の伝習生が多数乗船している。操練所の日頃の訓練の成果がこの快挙に繋がった 。

Image12<甲板の装備品にまみれて、おや!!その姿は勝さんではあるまいか?太平洋に乗り出し、連日嵐に翻弄され、苦しんだ航海を思い出しているようであった。静かな内海の咸臨丸に、突如 time capsuleを破って、登場したが、再び消えていった。

出航の翌日、荒れた天気、日本人全員が船酔いで倒れ、航海一切をブルック船長以下米人に頼っての暗黒の船出であった。船に多少強い福沢に対して、日本海軍生みの親と言われる勝麟太郎は船に全く弱く、航海中は病人同様船室から殆ど出なかった。
満身創痍でサンフランシスコに辿り就き、歓待を受けたが、船・乗組員もボロボロ。
咸臨丸の修理を終え、帰国の時に真冬の日本出国から急な暑さに病人が続出、3人死亡、付き添い含め10人を残して、気の重い帰国であった。
太平洋横断の快挙の陰に3人は異国の地サン・マテェイオの日本人墓地に眠る。>

□「浴恩園」跡
構内を激しく行き交うフォークリフトや冷凍車と雑踏の中、此処が築地の中央卸市場であるが、かっては此処が「御軍艦操練所」であった。
◇同地の沿革
陸奥白河藩主松平定信は老中の職にあって、天明7年(1787)に寛政の改革で幕藩体制の危機を乗り切り、その恩賞として、老後に将軍からこの地を与えられた。当時この地は江戸湾に臨み風光明媚で林泉に富み、 「浴恩園」と名付けて好んだという。
明治維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院などを設置して、著しく園池の風景を変えた。
さらに大正12年12月に日本橋にあった魚市場がこの地に移転し、現在は東京都中央卸市場となり、首都圏の食料品の商いで活況を帯びている。

◇魚河岸水神社
「浴恩園」始め海軍省の面影は殆ど無くなってしまっているが、当時を物語るものが、魚河岸内の魚河岸水神社に僅かに残されている。

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明治5年(1872)に海軍本省が旧尾張藩邸に置かれると賜山(たまものやま)という築山の上に「海軍卿旗」が掲揚された
「海軍卿」とは明治18年官制改革前の海軍省の長官を言い、初代海軍卿は勝海舟をはじめ、榎本武揚(中将 海軍 卿)など馴染みの人が居る。この旗を見て人々はこの山を旗山と呼び、旗山を記念して石碑が設置されたが、この場所は関東大震災の復興工事により築地市場の入り口の交差点となり交通の障害になつたので築地市場内の魚河岸水神社に移転された。Img_1480

                        <魚河岸水神社の石塔同神社にある旗山>
◇浴恩園を語り伝える
現在、都民の食を賄い、大量な魚が集積され、せりにかけられ、それを運ぶ車両や仲買人で賑わう魚河岸である。
その原点が浴恩園であったことを語り伝えるのが、石垣の側面金属プレートであるが、殆ど、フォクリフトや車両の陰に埋もれてしまっている。
浴恩園は池があり、松や梅林他樹木が植えられ、池の畔にはお茶屋が数カ所ある。池には橋が掛けられ対岸が結ばれる、最高の慧眼の散策路が生れている。 白河の城主松平定信の心ゆきから生れた造園により、春風池・秋風池をめぐって四季おりおりの草花その研を競い、鳥獣も遊ぶ風流の池であった。
当時の水路部 が昭和5年(1930)に新庁舎を完成して からこの築地を記念して同園写図を描いている金属のプレートが用意された。

操練所開設から約160年、築地の移転地を巡る、ゴタゴタ騒ぎ、「何、やってやんだ!!」と海舟も草葉の陰で、歎いているに違いない。

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新選組も国際化の渦に

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大河ドラマ新選組放映から早12年、経ってしまった。
歳三役の山本耕史や勇役の香取慎吾、総司役の藤原竜也などの人気キャストが茶の間に新選組を身近な存在に仕立て上げてくれた。
取り分け新選組まつりの時は市役所の前で、あるいは本陣の前で山本耕史の街頭出演で、黒山の人だかりにフアンの物凄い熱気が感じられた。
大河ドラマが終わった後も、山本耕史の姿を見ると、直ぐに歳三となってしまう位にその姿は濃尾に焼きつき消えない位にインパクトがあった。
少なくとも大河ドラマが新選組のフアン層に繋げる役割を果たしたのは間違いない。

そんな熱気も10数年の経過は既に過去のものになっている。

Image新選組に駆け込み日野に訪れる若い人に問いかけても、「へ~そんなことがあったんだ」と全くのすれ違い、大河ドラマを見て居ないのは元よりその存在自体も知らない層が結構増えてきた。

☆本陣にて案内

<Russiaから>
某日、青い目それとなく判る外国人男性に拙い英語でWhere did you come fromと声をかけたらRussiaと返され、思わずびっくりした。
東南アジア系なら未だしも、まさかRussiaからとは思いも寄らなかった。
ご案内は無用、何かものを探しているようで、聞いてみたら上手く聞き取れず、何度も聞き返したら、こともあろうに「豊玉発句集」と判り更に驚いた。

Img429           (石田 散薬のミソソバを押し花にして作って貰った「豊玉発句集」のシール)


歳三フアンでも、此処まで追う、人はかなりコアーな層と思えるが、歳三に抱くイメージを追い求める世界に、最早国境の垣根を越え、凄い世界に居ることに敬服した。

<中国から>

数人の集団を案内し、終わり、一区切り付けた時に、若い女性から声をかけられる。
外見からは全く、外国人とは識別付かないが、喋るイントーネションから、外国人と始めて判ったが、中国人であった。
2013年に案内されたと言われ、再会に、にこにこ笑みを浮かべながらわざわざご挨拶された。
案内する側からは1;Nの関係から、外国人を含め年間1万を越える入館者の中、何人相手したのか判らない。大勢の客から一生懸命、記憶を辿ったが残念ながら失念しており、思い出せなかった。
しかし、滅多にないことだけに、その気持ちが嬉しかった。
国を越えて歳三に心酔し、語りかけるレピーターが居ることが、現実の姿であった。
何を機縁に彼女たちを夢中にさせるかはやはりアニュメーションやDVDなどの媒体の情報からであった。
こうしてアニュメなどが国境の垣根を越え、浸透する世界は相反するものであるが、最早止めることが出来ない。

国同士では尖閣列島の領有圏問題など、紛争の火種をかかげ、一歩も譲らない、姿勢は益々先鋭化し、とげとげしい問題を抱えている。
観光で来る彼らは、概ね、きちっとしたマナーを護る日本の文化の中、そんな枠が緩やかな環境の中に育った彼らの奔放な行動は中国では当たり前で、日本人にひんしゅくを買っている。
一方ではこうした新選組を通じて、触れ合いを持ち、気配りする人も居ることも事実である。

今年、2017年は日本を二分した戊辰役から150年を経過、新選組隊士尊霊、150回忌総供養祭が実施されるなど、節目の年にあたる。
散っていった新選組隊士が眠る中、150年の今日、国境を越えてこうした絆が生まれて居る現実に、戸惑いつつもまんざら悪い気はしないであろう。

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