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150回忌、14代 松平保久氏講演『会津藩と新選組』

2017-3-18日高幡不動で行われた「新選組隊士150回忌供養祭」の中の講演について、写真など加え、以下整理した。全般を通じて、 聞き辛いところがかなりあり、かなり推測も加え、繋げました 。多少、誤りもあるかも知れませんがご容赦ください。

□松平保久さん講演「会津藩と新選組」

新選組プロの集団の前で新選組を語るのも辛い思いをする。元々接点のなかった「会津藩と新選組」は"誠と愚直"の言葉が二者を繋げるキーワードである。大河ドラマ「八重の桜」でかなり朝敵の汚名が消せると言う思いで、皆大騒ぎして見ていた。かなり会津贔屓でドラマ化され、私自身としては嬉しかった。 Image11

私は保科正之公から数えて松平家14代目藩主に当たる。

真之公は二代将軍徳川秀忠の4男で三代将軍徳川家光とは母違いの異母弟である。

最後の会津藩主容保は9代目にあたる。容保公の孫が秩父の宮家に嫁がれている。

初代の正之公は家光公が信頼を寄せ、四代将軍家綱まで支え政治的手腕を発揮していた。以来幕末まで徳川将軍家の忠誠を誓っていた。幕末には政治不安定な時に京都守護職を、拝命している。この京都守護職で容保公は幕末動乱の表舞台に登場する。幕末には五稜郭の戦いなど徳川幕府の256年余の歴史の中で4年近い短い中でも大変大きな激動とも云うべき歴史転換が図られた。薩長連合軍の倒幕が僅か数年間でなし遂げられ幕府の終焉を迎えた。

会津を通して、最後の最後まで徳川将軍家に忠誠を尽くした新選組であった。

 

◇会津藩家訓(かきん)15箇条が憲法

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初代会津藩主、正之公の会津藩家訓15箇条があり、その憲法の精神が脈々と幕末の容保公の時代まで伝えられた。

城内で藩主、家臣他、全員集まり家訓15箇条を読み唱え出動が習わしであった。

「一、 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処る、べからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従う、べからず。」

大君、即ち徳川将軍への忠誠を誓う。初代藩主真之公は自分の事を信頼してくれた家光公の恩義が非常に強く感じていた。自分の教えに背く藩主が現れた場合、自分思想とは思わないから、そんな藩主に従わなくても良い、と強く主張されている。

他の箇条を含め会津藩士としての心得があり、精神的なことから実務的なことまで判りやすく、規定されている。今読んでも、違和感なく受け入れられる。

 

◇什の掟

この家訓15箇条から「ならぬことはならぬものです」什とはグループをさし6歳から9歳までの子供たちの「什の掟」に繋がってくる

一、年長者の言う事に背いてはなりませぬ

二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

三、うそを言う事はなりませぬ

四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

五、弱いものをいじめてはなりませぬ

六、戸外で物を食べてはなりませぬ

七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

        <ならぬことはならぬものです>

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◇治安維持に京都守護職を設置

文久2(1862)から京都守護職に就いてから会津藩の運命は大きく変わっていく。

当時の京都は新しい時代を切り開こうとする尊皇攘夷派などそれに乗じた過激派などで治安が悪化した。幕府側に支援する公家の家を襲撃したり、首をはねたりテロ活動が暗躍した。

幕政に登場した松平慶永公は京都守護職と言う職制を設け、徳川親藩の中でも非常に真面目で忠誠心の強い、実践的な藩として会津藩に白羽の矢を立てた。

 

既に会津藩は外国に対して、蝦夷、江戸湾、房総半島など警備を備えていた。

徳川時代を通じて、各藩は幕府の命令に背くことが出来ない。しかし藩内では守護職のような危険の任を引き受けることもないという意見もある中で、容保公も体が丈夫でなかったこともあり固辞続けていた。慶永公から就任を迫られ、会津公のお役目が、先程の家訓第一条ではなかろうかと、守護職を受ける苦渋の決断をする。

   <黒谷の金戒光明寺、山門>

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同年12月、会津藩松平容保公は藩兵1000名を率い、東山の裾野、黒谷の金戒光明寺に本陣を置き京都に入った。これで、これまで接点の無かった、会津藩と新選組の運命的な出会いが生まれる。

◇壬生浪士隊

「尽忠報国」の「尽忠」は君主や国家に忠義・忠誠を尽くすこと。「報国」は国のために、力を尽くして国の恩に報いること。「尽忠報国」は新選組に繋がってくる。新選組の前身である、壬生浪士隊は文久32月、江戸に居た、庄内藩士の清川八郎が関東、江戸周辺にも色々浪士がおり、上手く使う方法をと言うことで将軍の上洛警護のための傭兵軍団を作ったらとどうかと、幕府に提案し受け入れられ具体化する。

その時のスローガンが尽忠報国の志を持つ者であれば、身分、年齢、過去を問わないものであった。小石川の伝通院に300人余の浪士が集まりその中に近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨等の後の新選組の中核をなすものが集まった。

しかし、清川八郎は表向き将軍警護であったが、攘夷の先兵として、彼らを使おうと言う狙いであった。京都で近藤以下が公家の為に働くこともない、話が違うと、浪士集団を江戸に呼び返される中で、京都に残った。

斉藤一も上洛し近藤たちに加わり、こうして腕の達人間が居ることを、浪士の取締役の幕臣、鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)を通じて浪士組の存在が、会津藩に伝わる。

会津藩も将軍警護の任に当たっており、近藤勇も尽忠報国の誠を使っており、会津藩の愚直な精神が上手く整合しているのではないかと考えられる。

会津藩にしてみれば、テロ行為が頻発する中で有能な武装集団が必要であろうと言うこと、一方、壬生浪士組は会津藩お預かりということで、単なる腕自慢の浪人集団ではない事を訴えるメリットも考えられる。

その時の藩というものは正に国で独自の規律・法律があり、それを他藩が口を挟むことが出来ない。会津藩お預かりはワンクッション置き、ある意味、動かし易く、その存在は非常に心強いものであった。

容保公は自ら斉藤一、永倉新八の壬生浪士隊の稽古を見る。腕の確かさを背景にした活躍ぶりを大変喜び、評価したようである。

 

◇新選組の誕生

Matutune305文久3年(1863)818日の「8.18の政変」で会津藩と薩摩藩が長州藩とそれに、付随する尊皇攘夷派を京都から追い出す、一種のクーデターがあった。その功績から容保公は孝明天皇から藩士へのねぎらいの言葉と孝明天皇直々の和歌も書かれた御宸翰(ごしんかん)を賜った。

容保公は天皇から身に余る光栄と終生離さず、この原図は家宝として、松平家に保管されている。

8.18政変」の時に壬生浪士隊が非常に活躍したと言う記録がある。

数年前新しい資料が、発見され、この政変の時の御所の警備体勢の一角に"壬生浪士隊の記載があった。

この功績が認められ、晴れて新選組の名が与えられた。

江戸中期の会津藩では藩の中では非常に武芸の優れた藩士を集めたエリ-ト軍団を差し是を「新選組」として使っていた。

こうしたネーミングを壬生浪士組に与えたと言うのは会津藩が如何に新選組を信頼していたかを物語る。

こうして京都警護の先兵になっていく、大変な役割を持っている。

池田屋事件、禁門の変未だ未だ出来事があるが、幕府、特に京都守護職会津藩松平容保に対する怨念が非常に高めていく。

 

◇倒幕の嵐~王政復古

坂本龍馬の仲介によって、薩長連合が生まれ、倒幕に勢いを付けて行く容保公の最大の後ろ楯であった孝明天皇が35歳の若さで崩御されてしまう。

そして、15代将軍徳川慶喜は大政奉還はゆくゆく政権は徳川に戻ってくるだろうと言う読みもあって決断する。しかし岩倉具視の王政復古の大号令で発せられ、徳川将軍の権利は土地を含め剥奪されてしまう。

流石これ以上抑えきれないと、慶喜は薩長連合の打倒を考え、幕府軍15000名余りを差配し従えて出兵し鳥羽伏見の戦いが始まる。

新政府軍は倒幕で錦旗を掲げ、我等こそ官軍であるぞと唱え、その威力は想像以上のものであったようで、それまで幕府軍についていた、諸藩も朝敵にはなりたくない、帝には逆えないと、どんどん離脱していった。

兵力では圧倒的に勝っていた幕府軍であったが、僅か三日で鳥羽伏見の戦いは破れてしまう。

慶喜は松平容保公・松平定敬、など引き連れ江戸へ帰ってしまう。慶喜自身も錦の旗が上がった以上、これはもう逆らえない、朝敵にはなりたくないということで、会津藩は完全に取り残されてしまう。新選組も江戸に戻る。

慶喜は江戸に戻って、ひたすら恭順の意を示し、容保には一切関わってくれるなと、会津藩は見捨てられる。容保も再三、新政府軍には抵抗する気はないと恭順の意を表明するが、新政府軍は一切受け入れなかった。容保は会津に帰ってゆく。

江戸城は無血開城で徳川幕府は名実共に完全に消滅してゆく。・

新政府軍は会津藩が残っていては、後々に火種になるだろうと徹底的に会津を追い詰めてゆく。

◇勇処刑

北へ敗走する幕府軍と共に新選組も江戸から去るが、その間近藤勇は流山で捕縛され、板橋で処刑される。新選組は幕府の状態を見て、もう勝ち目はないだろうと重々判っていた。

風前の灯火にある幕府軍として、会津藩と共に新選組は何故戦ったか

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皆さんご承知の勇の辞世

 孤軍援け絶えて俘囚(ふしゆう)と作り

 君恩を顧()念して涙更に流る

 一片の丹哀(たんちょう)()く節に殉じ

 すい陽(すいよう)は千古を是(これ) (わがともがら)

 他に靡(なび)きて今日復()た何をか言わん

 義を取り生を捨つるは吾(わが)尊ぶ所

 快く受けん電光三尺の剣

 只だ一死将()って君恩に報いんとするのみ

(意訳)

孤立した軍隊となった援軍が途絶えて囚われの身になった。

 君主の気にかけてくださったことを思い起こせば涙がいっそう流れる。

 満身の忠誠心は 節義のために 命を捨てる事が出来る(唐の代)すいようで奮戦した*?陽こそが永遠の同志である敵方になびいて 今更また 何をか言わん大儀の立場に立って生命をなげうつことは私の(平生)尊ぶところ(わたしの首を斬る)長剣の閃(ひらめ)きを快(こころよ)く受け容(い)れよう。

ただ一身の死をもって、君主の恩寵に返報しよう。

ここにある君恩とは既に徳川慶喜ではなく、会津容保公をさしているのではなかろうか京都で会津藩と共に過ごしていた新選組はある意味会津藩の愚直な姿勢に、共感したのではなかろうか・・・。

 

◇戦いは東北から北海道

近藤勇亡き後、土方が率いる隊、斉藤一を中心となす隊が東北で戦うが、しかし新政府軍の動きが早く、あっと言う間に東北の玄関、白河まで進出する。白河城の戦いでは斉藤一の僅か130名の隊が400名の新政府軍を打ち破る大活躍をなし遂げる。

更に猪苗代方面から上がってくる母成峠で戦い、そこでも激戦が行われている。

土方は援軍を求め会津に帰る。会津も持たず、更に北へ向かう中、斉藤一は会津に残る。

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この間、若松城においては悲惨な籠城戦が行われるが、援軍も無く、容保公は開城する。

戊辰役で亡くなる会津藩士の犠牲者は2973名と言われている。

土方は僅かな新選組の隊士と榎本艦隊に合流し、更に北海道でも再起を図るが命運も尽きる。斉藤一は会津藩士として、投降する。元々正規の会津藩士でなかったので、ここから脱出することも可能であったが、何故か名乗り出る、斉藤一は藤田五郎で名前を変え、西南戦争にも参加する。斉藤一は明治維新以降も容保公や会津藩とは交遊関係が続いていた。二人は誠の心で運命を共にしたのかも知れない。

容保公は日光東照宮の宮司を勤め59歳で逝去する。

 

◇新選組と会津藩の絆

正に非常におおきな動きが起こった幕末の会津であったが、晩年の容保公の全く信じる道それに向かって国の為、将来の為に命をかけて戦ってきたのに非常に屈辱的な立場に追いやられ、それを思うと辛い思いをする。

幕末に置いて、目先の損得に捕らわれずなっていくことを考え私は愚直なまでに物事の成事を追い詰めた会津藩と一介の浪人集団でありながら誠を追った新選組。

会津藩と新選組の純粋な気持ちを共有しながら絆を深め、共に戦った。

会津藩と共に幕末を駆け抜けた新選組の御霊に改めて感謝と深い尊敬の念を持ちたいと思う。

                                以上(講演は終わり)  
 

◇講演を聞いて

何よりも、松平保久さんのお話の中で、会津藩を称して『愚直』ということであった。

松平容保公が松平慶永公から京都守護職を拝命されたときに、身を晒し危険な役回りに藩内でも反対者が多く、容保公も病身でかなり躊躇したが、最後は真之公が作った会津藩の憲法、家訓(かきん)15箇条から、苦渋の決断であったようである。

これが、後々の会津藩の行く末を大きく運命づけ、悲劇が生まれる結果になってしまう。

戊辰役で、味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者が生まれる。

戊辰役で破れ慶喜は容保らを引き連れ大阪から江戸に戻って、ひたすら恭順の意を示し、容保には一切関わってくれるなと、とまで言って 会津藩は見捨てられてしまう。

それに関連して、身近な所で、高幡不動に新選組の近藤、土方を称える御存知「殉節両雄之碑」(碑文は明治9年、建立は明治21)がある。

篆額の揮毫は最初、松本良順の斡旋で徳川慶喜に申請したが慶喜は依頼の書面を見入り、繰り返し目を通して、ただ黙って涙を流し、はっきりした返事もなく、受けないで終わった。良順は慶喜公の揮毫を断念し、松平容保に依頼することにした。

慶喜が書けなかったことも、松平保久さんの話しで明確になり、こんな話が繋がってくることを改めて、思い知らされた。

当日は東軍西軍かかわりなく、戊辰役の供養で新選組隊士、松平藩主、西郷隆盛、勝海舟とそうそうたる末裔が集まった。

そんな中で、誉れ高き松平家14代目藩主松平保久さんが、幕府の当事者として何を語るか、大変興味があった。

記事でもあるが、大河ドラマのフアンであることも、吐露され、会津藩を客観的に評価紹介された八重の桜が、やはり嬉しかったのか特別な思いでご覧なられている。

「冗談ですがと、断りながら、来年の大河ドラマは西郷ではなく、八重の桜の再放送があれば」とさらりと言ってのけた。

静寂な会場で聴衆が一番、反応、爆笑したのがこの時で、しばし余韻が残った。

戊辰役後、節目の150年、色々なことを考えさせられる、話しでもあった。

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新選組と勝海舟

                <江戸城無血開城のおりの勝海舟>Img445 勝海舟の生家は名ばかりの旗本で貧相な暮らしから、剣術、蘭学を習得するペリー来迎寺に「海防意見書」が上層部に目に止まり評価、出世に巡り会う。

長崎海軍伝習所で要職を担い、咸臨丸に乗って薩摩へ航海し、その時あった西郷は海舟の見識の深さに、目を開かせたと言われて いる。
日米通商条約批准書交換の咸臨丸で艦長で日本で始めて渡米し、米国海軍士官の支援により日本で最初の太平洋横断の壮挙をなし遂げる。
その間、私塾した攘夷派浪士が「池田屋事件」や「禁門の変」に参加したことで、咎められ軍艦奉行を免じられ一切の役目と役高を召し上げられ、謹慎する。

鳥羽・伏見の戦いで破れ、恭順路線を引き、徳川慶喜もそ の姿勢に乗る。新政府軍、江戸城総攻撃の背景の中、既に交流のあった西郷との間で江戸城無血開城を果たす。
徳川慶喜と一緒に駿府へ移るが、対外的な顔が広いことから新政 府との斡旋役など担う。
維新後新政府に傭われて、駿府から赤坂へ移り、政府の中枢部を担う。
海軍を創設し、軍事力強化から日本近代化に繋げる。
薩長藩閥の自重を促すなど、歯に衣を期せず、江戸ッ子のご意見 番として面目躍如であったようだ。
幕臣でもあり新政府の要人でもあった、海舟が新選組とも関わりを持ち、幕府側が敗色濃厚な時期に救いの手を差し伸べてくれた。
そんな接点を追ってみた。

□<新選組隊士・三浦啓之助

                            <佐久間象山>

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松代藩士佐久間象山は西洋砲術家で開国主義者として象山の名声は全国に広まり、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、小林虎三郎など錚々たるメンバーはじめ百人の門弟が生まれた。
しかし、弟子松陰の黒船密航事件に連座し、9年余り国許で蟄居されてしまう。
釈放後、幕府に傭われ政治顧問に就任、、上洛して公家らに開国を解いて廻った。
折しも池田屋騒動で激怒した長州兵2千が京都を包囲してしまう。象山は孝明天皇を一時譜代藩彦根藩から江戸へ遷し開国の勅諭(ちょくゆ)を発布させる提案を行う、策を勧めた。
これを察知した尊皇攘夷派は象山抹殺に走った。
これが実行されれば攘夷派は追い詰められる為に、象山抹殺の機会を狙った。
そんな背景の中、元治元年(1864)7月に象山は、刺客に殺された。
リーダ格の肥後の『河上彦斎(げんさい)』、隠岐の『松浦虎太郎』美濃の『安藤源五郎』、因幡『前田伊右衛門』さらに数名の長州人で構成される。
馬上の象山木屋町に入り腰を刺され、落馬、めった斬りされる。
松代藩は遺体に後ろ疵(きず)が多く、武士にあるまじき醜態と断定し、松代藩は象山の息子三浦啓之助(元は佐久間恪二郎)に領地没収と家名断絶を言い渡した。厳しい処分の背景は高慢な象山を藩の重役が日頃忌み嫌っていたことが、この機会に一気に吹き出た。

象山の正妻は勝海舟の妹『順子』であるが子供がいない。象山と三浦お菊との間に誕生した『三浦恪次郎』が唯一の子であるが、妾の子供である。
妻妾は江戸時代の武家社会では珍しいことではなく、明治時代にもその残滓(ざんし)は残っていた。象山が特別の存在だったわけではない。
啓次郎は勝海舟の甥(但し、妾の子)に当たるのである。

◇新選組入隊

      <幼少のおりの居りの三浦恪次郎>

Img446象山は万一の時は啓之助を頼むと門弟である会津藩士の山本覚馬に依頼しており、覚馬から新選組の近藤勇に頼み預けたと言われている。
こうしてて啓之助は藩から捨てられ、その数日後、三浦啓之助は父親の仇討ちのために新選組に入隊した。
勇はその境遇に同情し、敵討ちを隊が支援する旨、受け入れたと言われている。
新選組に属し、恪次郎から『啓之助』に改め、僅か二日後、禁門の変に参加している

◇素行悪く、新選組脱走
啓之助は象山の実子であり、幕府の軍艦奉行の勝海舟の甥と言う、血筋を重んじ、勇や土方歳三も丁重に扱った。そんな背景に啓次郎は自然と甘えるばかりか、隊内では馬鹿にされた隊士への怨恨から斬りつけたり常軌を逸する行動に、周囲に顰蹙を買う。
常軌を逸した行動は更にエスカレートしていく。

町人を斬殺したり、島原で大喧嘩し手に負えなくなっていくが、流石に居づらくなったのか、遂に新選組を脱走する。戒律の厳しい新選組も啓之助を追わなかった。

◇薩摩藩に入隊
啓之助は新選組から脱走したが、その後、三浦姓から佐久間姓に戻し『佐久間恪次郎』を名乗る。
戊辰戦争で、官軍の薩摩軍で武功をあげるが、其の戦った相手はなんと象山の門下で両虎の一人、小林虎三郎の長岡藩であった。
戦後、恪次郎は西郷隆盛の口利きで帰藩し、明治3年『家名再興』する。

◇官職に就くが、自ら潰す
明治4年(1871)勝のコネで慶応義塾に入学。
明治6年恪次郎、司法省に出仕
明治8年恪次郎、松山裁判所の判事
明治10年恪次郎、現職のまま31歳で逝去
恪次郎、宮使いで鬱の毎日、何時も瓢箪に酒を満たし千鳥足日本橋で車夫と喧嘩、駆けつけた警官を殴り罰金刑を負う。
偉大な亡父、偉大な伯父、偉大な父の門弟に囲まれ威圧感に萎縮し、酒で紛らわした。親の七光に押しつぶされ、殻を破りきれなかったのであろうか、不幸な幕引きであった。

◇象山の仇は
明治4年、反乱を起こした奇兵隊士を匿った罪で『河上彦斎』が伝馬町獄舎で斬罪される
象山を殺害した犯人の一人『安藤源五郎』が慶応義塾に在籍していた。
慶応在籍中『源五郎』は同室の『城泉太郎』に犯行を語っている。
明治7年源五郎は、恪次郎を追うように司法省出仕し、長崎上等裁判所へ赴く、更に大審院(最高裁)検事長へ栄転する。
皮肉なことに源五郎の方が出世している

◇新選組と勝海舟
勝海舟の甥であり、啓之助は、親の敵討ちは成就出来なかったが、新選組に預け、世話になっている。戊辰役で新選組甲陽鎮撫隊が破れ、勇捕縛や日野宿佐藤彦五郎が潜伏中の赦免に幕臣として海舟が尽力しているのも、その恩義から動いたのではなかろうか
具体的な海舟の救いの手は以下に紹介されている。

;『ようこそ幕末の世界へ』

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