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新選組と勝海舟

                <江戸城無血開城のおりの勝海舟>Img445 勝海舟の生家は名ばかりの旗本で貧相な暮らしから、剣術、蘭学を習得するペリー来迎寺に「海防意見書」が上層部に目に止まり評価、出世に巡り会う。

長崎海軍伝習所で要職を担い、咸臨丸に乗って薩摩へ航海し、その時あった西郷は海舟の見識の深さに、目を開かせたと言われて いる。
日米通商条約批准書交換の咸臨丸で艦長で日本で始めて渡米し、米国海軍士官の支援により日本で最初の太平洋横断の壮挙をなし遂げる。
その間、私塾した攘夷派浪士が「池田屋事件」や「禁門の変」に参加したことで、咎められ軍艦奉行を免じられ一切の役目と役高を召し上げられ、謹慎する。

鳥羽・伏見の戦いで破れ、恭順路線を引き、徳川慶喜もそ の姿勢に乗る。新政府軍、江戸城総攻撃の背景の中、既に交流のあった西郷との間で江戸城無血開城を果たす。
徳川慶喜と一緒に駿府へ移るが、対外的な顔が広いことから新政 府との斡旋役など担う。
維新後新政府に傭われて、駿府から赤坂へ移り、政府の中枢部を担う。
海軍を創設し、軍事力強化から日本近代化に繋げる。
薩長藩閥の自重を促すなど、歯に衣を期せず、江戸ッ子のご意見 番として面目躍如であったようだ。
幕臣でもあり新政府の要人でもあった、海舟が新選組とも関わりを持ち、幕府側が敗色濃厚な時期に救いの手を差し伸べてくれた。
そんな接点を追ってみた。

□<新選組隊士・三浦啓之助

                            <佐久間象山>

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松代藩士佐久間象山は西洋砲術家で開国主義者として象山の名声は全国に広まり、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、小林虎三郎など錚々たるメンバーはじめ百人の門弟が生まれた。
しかし、弟子松陰の黒船密航事件に連座し、9年余り国許で蟄居されてしまう。
釈放後、幕府に傭われ政治顧問に就任、、上洛して公家らに開国を解いて廻った。
折しも池田屋騒動で激怒した長州兵2千が京都を包囲してしまう。象山は孝明天皇を一時譜代藩彦根藩から江戸へ遷し開国の勅諭(ちょくゆ)を発布させる提案を行う、策を勧めた。
これを察知した尊皇攘夷派は象山抹殺に走った。
これが実行されれば攘夷派は追い詰められる為に、象山抹殺の機会を狙った。
そんな背景の中、元治元年(1864)7月に象山は、刺客に殺された。
リーダ格の肥後の『河上彦斎(げんさい)』、隠岐の『松浦虎太郎』美濃の『安藤源五郎』、因幡『前田伊右衛門』さらに数名の長州人で構成される。
馬上の象山木屋町に入り腰を刺され、落馬、めった斬りされる。
松代藩は遺体に後ろ疵(きず)が多く、武士にあるまじき醜態と断定し、松代藩は象山の息子三浦啓之助(元は佐久間恪二郎)に領地没収と家名断絶を言い渡した。厳しい処分の背景は高慢な象山を藩の重役が日頃忌み嫌っていたことが、この機会に一気に吹き出た。

象山の正妻は勝海舟の妹『順子』であるが子供がいない。象山と三浦お菊との間に誕生した『三浦恪次郎』が唯一の子であるが、妾の子供である。
妻妾は江戸時代の武家社会では珍しいことではなく、明治時代にもその残滓(ざんし)は残っていた。象山が特別の存在だったわけではない。
啓次郎は勝海舟の甥(但し、妾の子)に当たるのである。

◇新選組入隊

      <幼少のおりの居りの三浦恪次郎>

Img446象山は万一の時は啓之助を頼むと門弟である会津藩士の山本覚馬に依頼しており、覚馬から新選組の近藤勇に頼み預けたと言われている。
こうしてて啓之助は藩から捨てられ、その数日後、三浦啓之助は父親の仇討ちのために新選組に入隊した。
勇はその境遇に同情し、敵討ちを隊が支援する旨、受け入れたと言われている。
新選組に属し、恪次郎から『啓之助』に改め、僅か二日後、禁門の変に参加している

◇素行悪く、新選組脱走
啓之助は象山の実子であり、幕府の軍艦奉行の勝海舟の甥と言う、血筋を重んじ、勇や土方歳三も丁重に扱った。そんな背景に啓次郎は自然と甘えるばかりか、隊内では馬鹿にされた隊士への怨恨から斬りつけたり常軌を逸する行動に、周囲に顰蹙を買う。
常軌を逸した行動は更にエスカレートしていく。

町人を斬殺したり、島原で大喧嘩し手に負えなくなっていくが、流石に居づらくなったのか、遂に新選組を脱走する。戒律の厳しい新選組も啓之助を追わなかった。

◇薩摩藩に入隊
啓之助は新選組から脱走したが、その後、三浦姓から佐久間姓に戻し『佐久間恪次郎』を名乗る。
戊辰戦争で、官軍の薩摩軍で武功をあげるが、其の戦った相手はなんと象山の門下で両虎の一人、小林虎三郎の長岡藩であった。
戦後、恪次郎は西郷隆盛の口利きで帰藩し、明治3年『家名再興』する。

◇官職に就くが、自ら潰す
明治4年(1871)勝のコネで慶応義塾に入学。
明治6年恪次郎、司法省に出仕
明治8年恪次郎、松山裁判所の判事
明治10年恪次郎、現職のまま31歳で逝去
恪次郎、宮使いで鬱の毎日、何時も瓢箪に酒を満たし千鳥足日本橋で車夫と喧嘩、駆けつけた警官を殴り罰金刑を負う。
偉大な亡父、偉大な伯父、偉大な父の門弟に囲まれ威圧感に萎縮し、酒で紛らわした。親の七光に押しつぶされ、殻を破りきれなかったのであろうか、不幸な幕引きであった。

◇象山の仇は
明治4年、反乱を起こした奇兵隊士を匿った罪で『河上彦斎』が伝馬町獄舎で斬罪される
象山を殺害した犯人の一人『安藤源五郎』が慶応義塾に在籍していた。
慶応在籍中『源五郎』は同室の『城泉太郎』に犯行を語っている。
明治7年源五郎は、恪次郎を追うように司法省出仕し、長崎上等裁判所へ赴く、更に大審院(最高裁)検事長へ栄転する。
皮肉なことに源五郎の方が出世している

◇新選組と勝海舟
勝海舟の甥であり、啓之助は、親の敵討ちは成就出来なかったが、新選組に預け、世話になっている。戊辰役で新選組甲陽鎮撫隊が破れ、勇捕縛や日野宿佐藤彦五郎が潜伏中の赦免に幕臣として海舟が尽力しているのも、その恩義から動いたのではなかろうか
具体的な海舟の救いの手は以下に紹介されている。

;『ようこそ幕末の世界へ』

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