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岩倉具視と『喰違の変』

温かい陽気に後押しされ、赤坂の迎賓館の前から紀尾井坂へ向かう。
平日にも関わらず四谷駅から限定公開で迎賓館へ向かう群れ衆が一杯で、特に見物欲旺盛な群れを組む、おばさん族が取り分け多かった。
元々徳川御三家の一つ、紀伊殿(紀伊和歌山藩)の広大な中屋敷で、紀州徳川家の江戸中屋敷、天璋院篤姫江戸城から移り住んだ屋敷の一つ。
中屋敷は、明治維新後に天皇家に献上され、明治天皇が東京入りして、皇居出火後、新皇居が完成するまで、この赤坂御所が使われた。
この御所から勤めを終え、馬場先門の自宅へ帰る途中、紀尾井坂に隣接する喰違坂で岩倉具視が襲撃された。
何故、事変が発生したのであろうか?、一介の貧乏公家から、国のトップに上り詰めるサクセスストーリの岩倉具視の足どりを辿りながら、事変の内容を追ってみる。

◇岩倉具視、

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1)貧乏公家から高位の地位へ
岩倉具視は文政8年(1825)堀河家の次男として生まれ、14歳で岩倉家に養子となる。
京都の中で暮らし官位と気位だけは高いが、生活は非常に貧しいお公家様。
野望を抱く、岩倉は、安政元年(1854)30歳にして鷹司の推挙で孝明天皇の侍従の地位を獲得する。

2)変転する時代
安政元年、日米和親条約が締結し、世相は尊皇攘夷の運動に騒然とした時代であった。日米通商条約で、幕府は勅許を京都朝廷に求めるが、岩倉は朝廷の権威回復を図ろうと幕府に勅許が下されることの阻止を図る。
大老井伊直弼は独断で条約を調印し、激怒する尊皇攘夷派を弾圧するが、その反動から水戸藩主体の攘夷派に井伊も暗殺される。
崩壊に瀕する幕府は朝廷の和解に、皇女和宮を将軍家茂に結婚する公武合体を図り、未だ薩長の支え無い時期、岩倉は取り敢えず幕府と手を組み、公武合体を押し進め、和宮の降嫁が実現する。

3)岩倉は官中から追放、公武合体から倒幕へ
京都で日毎に尊攘派が台頭し、佐幕派に地するテロ行為が続発し、岩倉も狙われ、身の危険を感じた岩倉は官を辞し、頭を丸め入道となり、郊外の寺に身を潜める。岩倉陰栖中は、暴漢に襲われたり、同志の切り取った腕を投げ込まれ平穏ではなかった。岩倉と最も
気脈を通じたのが大久保利満で、岩倉の身を案じ、ピストルを届けた。 この間、5年間であったが、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎、薩摩の西郷隆盛、大久保利満、長州の桂小五郎など薩長土の志士と出会い倒幕に傾注していく。

慶応2年、孝明天皇が急死し、倒幕の勢いが一挙に高まる。
慶応3年(1867)岩倉は宮中に参与として復帰し、薩長土の兵を京都御所に控え、西郷、大久保、岩倉が中心になって、「王政復古」のクーデターが起こす。
慶喜の大臣職放棄と、領地取り上げに、幕府側は不服とし、兵を挙げ、戊辰戦争が始まるが、幕府は破れ、慶応4年(1868)江戸城開城となる。明治維新として、王政復古し、岩倉が描いていた朝廷が政権を握る。

4)政治の表舞台、征韓論
大政奉還後、間もなく、明治政府が未だ地盤造りの過程で一介の公家である、岩倉具視が政府の中枢を担う一人として躍り出た。岩倉使節団として欧米に向かい見識を深めるなど近代化の先鞭を切り走っていた。
使節団派遣で岩倉、大久保ら不在中の留守を預かる西郷隆盛らが、政府の機能を果たしていた。
時恰も日朝関係が悪化するなか、板垣退助は居留民保護を理由に派兵を提案したが明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定する。
所が、帰国間もない時期に岩倉らがこの決定を覆し、中止になった。この間、二転三転する結論の不明朗さに抗議し西郷、板垣が下野する。
世論もこれを圧倒的に支持し、これを機会に、俸祿が少ないこと、兵になれないことなど処遇を巡り、新政府に対し、不満を持つ士族が九州・中国地方を中心に反乱が生まれた。明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や土佐で自由民権を唱える契機となった。

◇「喰違の変」
そんな世情を背景に岩倉具視は赤坂喰違坂で多数の兇徒に襲撃される、「喰違の変」が発生した。
明治7年正月、具視は天皇の晩餐に陪席後、馬車に乗って赤坂御所から出て自宅に向かう。
具視を乗せた馬車は赤坂御所から赤坂喰違坂にさしかかった際、兇徒がおり、7、8人が道端で目あてもなく歩き回っていた。具視が馬車に乗っていることを見て、一人二人が前にすすんで、将に手にとらんとするところであった。
馬丁は「誰か」と名を問いただす。
兇徒は急に刀を出し、馬車の右の舵棒をよじ登り、更に馬車の背後から、幌を壊しに かかるもの者もいた。具視と馭者は馬車の左から逃げた。 街灯もなく人通りもない喰違見附の漆黒の闇の中、具視は額に軽い傷と左腰を斬られるも短刀の鞘で深手にならな白刃で探しに来る。兇徒は具視達を追って、四方に走り、探し求める。
一、二人が 具視を後を追い、ピストル撃つが当たらず。
具視は壕に転がり、身をいばら・とげが繁っている中に隠れるが、一人が左手に提灯、右手にく歩き廻っていた。
具視は兇徒に見つかる事を恐れ、黒色羽織の襟を翻して覆い身を隠した。
たまたま宮門の前で、二人の喧々諤々の騒ぎに、兇徒は皆恐れ、慌てふためき、逃げる。具視崖をよじ登り堀を出る。 岩倉公は宮内省で傷の手当てを受けて、数日後に馬場先門の本邸に戻る。こうして、具視は危機一髪、急な傾斜地と茂みに救われた
現場に残された武市熊吉の下駄が手がかりになって3日後、武市熊吉ら9人は逮捕された。
内務卿大久保利通は、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見て半年後、全員が伝馬町牢屋敷にて処刑された。

◇現在の喰違坂

<道を阻むように、土塁が積まれている、かっては柵門で侵入を防いだ>

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その乱闘となった喰違坂の現場に行って見る。行く手には土塁を積み上げ、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)がそのまま残され、 直進を阻む姿がそのまま残されている。この土塁を抜けて、背後に廻ると下り坂になり紀尾井坂に繋がる。

   <道の側面は急な斜面の底が堀、その上を首都高が走る>

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道の側面は、急斜面で堀になっている。生い繁る茂みは傾斜部分を覆っている。道を挟んで反対側は堀の部分は埋められ、グランドになっているが、当時は恐らく同じ姿であったろう。
この自然の茂みの中に具視が隠れ、危機一髪で兇徒の探索の手を免れた。 堀の淵の生い茂る樹木の部分は井伊家の屋敷の一角である。
紀尾井坂は急な坂道で、清水谷に出る。この清水谷で喰違の変の4年後、大久保利通がやはり馬車で通過するところ兇徒に襲撃され、殺害され「紀尾井坂の変」と言われている。紀尾井坂の一番下部はのオフイス街に囲まれた一角に池と樹木の清水谷公園になっている。公園の一角に大久保公哀悼碑が建っている。

              <贈右大臣大久保公哀悼碑>
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二人の明治の高官が同じ坂道で襲撃、不安定な明治時代のテロ活動のメッカとも言える。
場所、事件の詳細は此方で紹介している。

岩倉具視と「喰違の変

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09、四谷・千駄ヶ谷歴史散策」カテゴリの記事

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