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2017年ひの新選組まつり、「日野宿本陣」にて

京都守護職の格別の思し召しを賜り、市中見回りの大役を負せられた。
「誠」の心で市民の安寧を守ろうとした。
新選組隊士たちの武士としての理想を表していたに違いはないであろう。
取り分け今年は新選組隊士、百五十回忌の記念すべき年にあたるが、人集めには繋がらなかった。

Img344「誠」のシャツを着て新選組の血を掻き立て、今年も本陣に立つ開館間もなく、ぽつりぽつりとやってきた入館者も、時間も経たずにど~っとやってきて、閉館まで切れ目なく続く。
予想はしていたが、この日のためにやってくるエネルギー、熱意は凄い。
当日集計の結果は約850人、去年は約940人、一昨年1000人越えであったが、徐々に入館者が減っていることが否めない。

慣らし運転は未だしも、30分単位の休みのない繰り返しに、遂に喉を傷め、声が割れ、出なくなってしまった。しかし何時もと違う、熱いまなざしを前に「気」を貰い、覚悟の上でのこの日と、何とか頑張った。

☆盛り上がりは歳三の昼寝の場所

慶応元年、新選組の成長過程に忙殺される歳三であったが、江戸で念願の隊士募集に目途が立ち日野へ来た。束の間の安らぎに安堵したのか、5月の爽やかな風に、気付いた時にはふと、昼寝の世界に入ってしまったのであろう。
その2年前、浪士組として上洛、京の治安維持で評価され『池田屋』の死闘、継いで会津藩の配下で『蛤御門の変』で本格的な戦闘体勢で新選組が幕府軍の第一線で立つている。
歳三は新選組の参謀役として、第一線に立ちながら、隊士募集などでより強固な体勢造りをする一方では、組織内の体勢維持の為、時には鬼になって、切腹などで維持に勤めた。
京都からの長時間の長旅とも併せ、息も付けない戦いのラッシュで、追われ、実家同様の佐藤家で気が休めた一時であった。
式台のある玄関口で歳三の姿を思い浮かべ、重ね併せ、一緒に居る空間として、入館者が共有できる一番盛り上がるのが、この場所での語りであった。
僅か二日間の逗留で再び、最前線の京へ向かった。

☆甲陽鎮撫隊として敗走の悲劇

鳥羽伏見の戦いで破れ、幕府軍は東下する。
幕府討征軍は江戸城総攻撃を目標に東海、東山、北陸の三道から江戸を目指している。その一つ東山道軍が諏訪から甲州街道下って江戸を入りを図っている。
その進軍阻止の為、新選組の生き残りを集めて甲陽鎮撫隊を編成し、甲府へ目指し、江戸を出発する。

慶応4年3月始め日野宿へ到着し、休憩し、西へ下っていく。
試衛館時代の仲間であった、山南敬助は切腹、藤堂平助は斬殺、井上源三郎は戦死、沖田総司は病気で離脱し、既にこの組織には居なかった。
佐藤彦五郎と日野の農兵は兵糧部隊として参加する。
目指す甲府は既に東山道軍の手に落ち、途中の勝沼で甲陽鎮撫隊は陣を構えるが、圧倒的な数の東山道軍の前に破れ、再び江戸へ敗走する。

<凝縮された勝沼の戦場>

(画像をクリックして拡大)

Tinbutai204①幕府軍の陣地
②永倉新八と諏訪兵の攻防戦の岩崎山
詳細はこちらで説明
http://bkmts.on.coocan.jp/tinbutai.htm

江戸敗走後、勇は会津行きの同行を求めたが、一緒に勝沼に行った永倉新八は請共隊を組織原田佐之助以下数名はそれぞれ、勇から離れてゆく。
東山道軍は甲陽鎮撫隊を追うように東下し、日野に厳しい探索の手が入る。
彦五郎も参加していることが既に東山道軍に割れ、彦五郎一家はばらばらになって逃げる。
彦五郎とおのぶさんは五日市の大久野村へ、長男の源之助は八王子宇津木村で捕縛、次男力之助以下兄弟は小野路の小島家に隠れる。
近藤勇は日野宿へ休憩して以来、2カ月も経たない4月25日、板橋で処刑される。
そんな悲劇の一頁が繰り広げられる、日野宿本陣での新選組集団で束の間の休憩の場であったのである。

未だ熱気の消えぬ閉館後、入り口の門付近はフアンがかなり居た。
甲州街道から、高幡不動へ向かう「大門」と言う小道で、用水路のところで背後から「〇〇さ~ん」と何処か聞き覚えのある声が掛かってきた。
うわ~佐藤彦五郎館長である。「誠」を付けた青色のユニフォームから、直ぐ判ったようである。
やっぱり入館者は本陣同様、資料館でも少なかったが、嵐の通り過ぎに、お互いに慰労の声をかけあって、お別れした。
人込みから開放され、神明の長い急坂を市役所側に向かうが、緊張も解かれ、疲れも一気に出た。敗残兵のように体を斜めにしながら、ふらふらしながら家路についた。

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殉節両雄之碑の篆額作成に慶喜の涙

高幡不動の境内には土方歳三像と並んで殉節両雄之碑が立っている。

<高幡不動の殉節両雄之碑>、
良く見ると、 何故か篆額の部分に白く、霞みがかかっている

◇両雄とは、
多摩の出身で幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の隊長近藤勇と副長土方 歳三を指している。

◇大槻磐渓は感慨を含めてこのように整理総括している。
言うまでもなく新選組の近藤・土方両子は有らん限りの忠を尽くして主君に仕えた者であり、死を以ってその生涯を全うし他に比すべき者などいないと謂ったとしても誰も意義をさしはさむこなど出来ないであろう。 世は変わって、明治の治世になったが、近藤、土方の志を翻すことなく武士として貫き殉じた意志は人々の心 を捉えていた。二人の行動に揺り動かされ、建碑に繋がった。

◇碑の建立起案に関わった人々、
篆額は旧会津藩主松平容保、碑文は小野路村、小島為政が起草した「両雄士伝」を基に大槻 磐渓が撰文し、碑文の約1600文字は松本良順が書いている。

碑文の訴えたいもの、建立起案に尽力した人々に光を当ててみたい。 篆額の揮毫は最初、松本良順の斡旋で徳川慶喜に申請したが慶喜は依頼の書面を見入り、繰り返し目を通して、ただ黙って涙を流し、はっきりした返事もなく、結局受けないことで終わってしまった。良順は慶喜公の揮毫 を断念し、松平容保に依頼することにした。

<150回忌総供養祭の講演から>

           <松平家14代当主松平保久氏>

Image11



文久2年(1862)から京都守護職に就いてから会津藩の運命は大きく変わっていく。
当時の京都は新しい時代を切り開こうとする尊皇攘夷派などそれに乗じた過激派などで治安が悪化した。幕府側に支援する公家の家を襲撃したり、首をはねたりテロ活動が暗躍した。
幕政に登場した松平慶永公は京都守護職と言う職制を設け、徳川親藩の会津藩に白羽の矢を立てた。
幕府の命令に背くことが出来ないが、藩内では守護職のような、火中の栗を拾いに行くようなもの、危険の任を引き受けるな、との意見や、容保公も体が丈夫でなかったこともあり固辞続けていた。
しかし、慶永公から就任を迫られ、会津藩家訓第一条から、守護職を受ける苦渋の決断をする。
この決断が後々の悲劇に繋がる。

鳥羽伏見の戦いで破れ戊辰役で、慶喜自身も錦の旗が上がった以上、これはもう逆らえない、朝敵にはなりたくない。慶喜は容保らを引き連れ大阪から「開陽丸」に乗って江戸に戻って、ひたすら恭順の意を示し、容保には一切関わってくれるなと、とまで言って 会津藩は見捨てられてしまう。 味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者が生まれる。

<顕彰碑の建立を計画>、
こんな背景の中、戊辰の傷も癒えぬ、明治7年(1874)、日野宿の佐藤俊正が中心に顕彰碑の建立を計画した。
会津藩、配下にある新選組近藤・土方両雄の顕彰碑の建立に関わる慶喜の涙は主君のために散って行った、会津藩兵士や新選組隊士の償い切れない残痕の思いであろう
慶喜が書けなかったことも、松平保久さんの話しで明確になり、こんな話が繋がってくることを改めて、思い知らされた。
何よりも、松平保久さんのお話の中で、会津藩を称して『愚直』ということであった。
高幡でその碑を見てきたが長年の風雪から全体に風化しているが、何故か 篆額の 部分だけが白色に変化しており、会津藩兵士や新選組隊士に対する、積年の悲しみを見るようであった。

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