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殉節両雄之碑の篆額作成に慶喜の涙

高幡不動の境内には土方歳三像と並んで殉節両雄之碑が立っている。

<高幡不動の殉節両雄之碑>、
良く見ると、 何故か篆額の部分に白く、霞みがかかっている

◇両雄とは、
多摩の出身で幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の隊長近藤勇と副長土方 歳三を指している。

◇大槻磐渓は感慨を含めてこのように整理総括している。
言うまでもなく新選組の近藤・土方両子は有らん限りの忠を尽くして主君に仕えた者であり、死を以ってその生涯を全うし他に比すべき者などいないと謂ったとしても誰も意義をさしはさむこなど出来ないであろう。 世は変わって、明治の治世になったが、近藤、土方の志を翻すことなく武士として貫き殉じた意志は人々の心 を捉えていた。二人の行動に揺り動かされ、建碑に繋がった。

◇碑の建立起案に関わった人々、
篆額は旧会津藩主松平容保、碑文は小野路村、小島為政が起草した「両雄士伝」を基に大槻 磐渓が撰文し、碑文の約1600文字は松本良順が書いている。

碑文の訴えたいもの、建立起案に尽力した人々に光を当ててみたい。 篆額の揮毫は最初、松本良順の斡旋で徳川慶喜に申請したが慶喜は依頼の書面を見入り、繰り返し目を通して、ただ黙って涙を流し、はっきりした返事もなく、結局受けないことで終わってしまった。良順は慶喜公の揮毫 を断念し、松平容保に依頼することにした。

<150回忌総供養祭の講演から>

           <松平家14代当主松平保久氏>

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文久2年(1862)から京都守護職に就いてから会津藩の運命は大きく変わっていく。
当時の京都は新しい時代を切り開こうとする尊皇攘夷派などそれに乗じた過激派などで治安が悪化した。幕府側に支援する公家の家を襲撃したり、首をはねたりテロ活動が暗躍した。
幕政に登場した松平慶永公は京都守護職と言う職制を設け、徳川親藩の会津藩に白羽の矢を立てた。
幕府の命令に背くことが出来ないが、藩内では守護職のような、火中の栗を拾いに行くようなもの、危険の任を引き受けるな、との意見や、容保公も体が丈夫でなかったこともあり固辞続けていた。
しかし、慶永公から就任を迫られ、会津藩家訓第一条から、守護職を受ける苦渋の決断をする。
この決断が後々の悲劇に繋がる。

鳥羽伏見の戦いで破れ戊辰役で、慶喜自身も錦の旗が上がった以上、これはもう逆らえない、朝敵にはなりたくない。慶喜は容保らを引き連れ大阪から「開陽丸」に乗って江戸に戻って、ひたすら恭順の意を示し、容保には一切関わってくれるなと、とまで言って 会津藩は見捨てられてしまう。 味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者が生まれる。

<顕彰碑の建立を計画>、
こんな背景の中、戊辰の傷も癒えぬ、明治7年(1874)、日野宿の佐藤俊正が中心に顕彰碑の建立を計画した。
会津藩、配下にある新選組近藤・土方両雄の顕彰碑の建立に関わる慶喜の涙は主君のために散って行った、会津藩兵士や新選組隊士の償い切れない残痕の思いであろう
慶喜が書けなかったことも、松平保久さんの話しで明確になり、こんな話が繋がってくることを改めて、思い知らされた。
何よりも、松平保久さんのお話の中で、会津藩を称して『愚直』ということであった。
高幡でその碑を見てきたが長年の風雪から全体に風化しているが、何故か 篆額の 部分だけが白色に変化しており、会津藩兵士や新選組隊士に対する、積年の悲しみを見るようであった。

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