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「新選組」の残照

国内内乱を巻き込んだ戊辰役は、慶応4年(1868)旧幕府軍と新政府軍が戦い、新政府側が圧勝し慶長以来、265年間続いた>幕藩体制が崩れ>新政府に大きく変わっていく。
戊辰以降の旧 幕府側で支えた新選組の郷里日野と周辺の地域ではどんな形で新しい時代を迎え、今日に繋がったか、整理してみた。
1戊辰役以降の日野の姿
1)日野宿名主の佐藤彦五郎も官軍に追われ身を隠す。
慶応4年3月、官軍の江戸行きを阻止のため、新選組生き残りで編成した「甲陽鎮撫隊」が江戸を出発し、甲州街道を西下し甲府に目指す。土方の故郷、日野宿に寄っている。
甲府は既に官軍に落ち、途中の勝沼で戦うが、2時間余りで官軍に破れ甲陽鎮撫隊は江戸に敗走する。 生き残り集め会津往きを目指すが、この敗退を機に仲間であった永倉新八や原田佐の助はと新選組から離れていく。
名主佐藤彦五郎は鎮撫隊に参加するが、その事実が官軍に割れてしまう。
敗走する鎮撫隊の後を追う、官軍は探索の手が日野にも及び彦五郎一家は追われる。彦五郎と妻おのぶは五日市の大久野村の羽生家で身を潜める。長男の源之助は八王子で捕縛され、父の行方など、厳しい尋問にあうが、釈放される。
土方家も佐藤家と同様、探索の手が入るが、探索が入る前に証拠となるものを、土中に埋め高幡の山中に3日間も身を潜め、探索の手を逃れたと言われている。
維新を迎える直前の日野は厳しい暗黒の闇夜であったことが判る。

<都の最西部、今もたっぷりと幕末を残す五日市の大久野村の羽生家。広大な敷地の一角で彦五郎は隠れた>

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<高幡山境内は背後が、自然の懐の深い山が控える不動ヶ丘は山内八十八ヶ所めぐりや高幡城址など、自然の立地の、恰好の隠れ場所で土方家はここで身を潜めた>

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彦五郎は助命工作を、近藤・土方を介して大久保一翁、勝海舟に頼み、密使を立て大本営詰め西郷から助命嘆願され、約2カ月後に帰宅することが出来た。
佐久間象山の正妻は勝海舟の妹『順子』であったが子供が居らず、象山の妾の子『三浦恪次郎』が唯一の子供であった。象山がテロ集団に殺害されるが、恪次郎は敵討ちに新選組に入隊し、世話になったことから、海舟が彦五郎の赦免に一役買っていると言われている。
2)賊軍の武術、「天然理心流」は隠された
(1)天然理心流の聖地
天然理心流は『近藤内蔵之助』によって創始された武術の一流派である。
初代内蔵之助の道場は両国薬研(やげん)堀にあったが、出稽古に歩き、門人を増やしていった、一つが、武州八王子 戸吹村(現八王子市戸吹町)であった。
坂本家は武田氏滅亡時に一族と共に戸吹に住み、代々名主を勤めた名家である。
内蔵之助が戸吹に訪れた時に 坂本家七代目当主、戸右衛門の長男三助と出会う。
20歳の若さの三助であったが非凡な才覚を見いだされ、天然理心流宗家二代目を引き継ぎ、『近藤三助』を名乗り、自宅に道場を開いた。三助は内蔵之助に同伴し、 出稽古に廻り多摩地域を中心に飛躍的に門人を増やした。
門人は1500名余りを数えるが、 千人同心や新選組の武州多摩地域に広まり、天然理心流の聖地として八王子市の郊外、戸吹町の桂福寺が知られている。
天然理心流の宗家の初代近藤蔵之助、二代目近藤三助の墓が八王子戸吹町桂福寺にある。
(2)近藤勇処刑の事実が戸吹に及んだ
甲陽鎮撫隊が破れ、生き残りを集め会津往きを目指すが、千葉の流山で屯集中に新政府軍に包囲され、近藤勇は官軍の前に出頭し板橋へ連行される。
大久保大和の変名で通していたが、新選組の近藤勇名が割れてしまい同年4月25日首を刎ねられる。
衝撃的な勇の処刑事実は、関係先に伝えられ、天然理心流の仲間として、この滝山の地、八王子戸吹にまで報じられた。その後難を及ぶことを恐れ、天然理心流の二人の宗家の墓を地中に埋めてしまった。
その埋設から約100年後の昭和45年、二人の墓は掘り起され、深い眠りから覚め、地上に戻された。三助の墓は大きく砕かれ埋設された。砕かれた墓石は丹念に拾い集められ、接合され、傷跡も生々しく当時の厳しい様子を語り伝えている。
             <近藤三助の墓>

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(3)禁じられた天然理心流
京都で暗躍する攘夷浪士などによるテロ活動で荒廃した。京都守護職会津藩配下で治安維持に新選組は活躍した。新選組の剣術は天然理心流で、その名は自然に知れ渡った。戊辰役で幕府側が破れ新政府から恐れられた 賊軍の武術として、禁じられ、維新以降は一時水面下に隠れた。

<戸吹は背後に滝山の山中を控えた奥地であるが、勇の処刑された事実がこんな所まで影響を及ぼしている>
<桂福寺の墓域の一角に「剣聖光武神」と大書された看板の天然理心流の祠がある。中央に初代の『近藤内蔵之助』 二代目の『近藤三助』の墓が並んでいる>
墓石の背後には木刀が掲げられた奉納額があり、ここに天然理心流の系譜が書かれた碑がたっている>

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3)戊辰動乱の怨念
高幡不動の境内には土方歳三像と並んで殉節両雄之碑が立っている。

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(1)碑の建立許可に10年もかかった
明治7年(1874)8月明治政府は今後、戊辰戦争で新政府軍に敵対し「朝敵」となった戦死者の霊を祭ることが出来る太政官布告を出した。即ち、「朝敵」も碑を造って良いというと言うお触れであった。
布告に基づき、旧幕府の典医松本良順の呼びかけで、高幡山金剛寺(日野市高幡)で近藤、 土方の墓碑建立の計画が生れ、 佐藤彦五郎や小島為政らも賛同し旧門人や有志から募金を集められ、より具体化される。
碑文は近藤・土方二人の誕生から死に至るまでの略歴と功績を顕彰し、両氏の賊名を晴らし、忠勇義烈を讃える顕彰碑であった。
戊辰戦争が始まってから幕引き迄の大きな歴史の渦の中で、近藤と土方の二人がどう関わったかを、この両雄の碑が熱く語ってくれる。
明治9年の銘が入っているが、内容が単なる慰霊碑ではなく、両氏の賊名を晴らし、忠勇義烈を讃える顕彰碑で あった。
内容から、碑文を神奈川県(当時の日野は神奈川県下であった)に提出したが建立の許可が貰えず、実際に建つたのが、起案から10余年経過した、明治21年であった。
「朝敵」とされた二人に対する戊辰動乱の怨念の激しさが許可に長期間要したことが伺える。
篆額は旧会津藩主松平容保、碑文は小野路村、小島為政が起草した「両雄士伝」を基に大槻磐渓が撰文し、碑 文の約1600文字は松本良順が書いている。
(2)篆額の揮毫作成に慶喜、只涙
篆額の揮毫は最初、松本良順の斡旋で徳川慶喜に申請したが慶喜は依頼の書面を見入り、繰り返し目を通して、ただ黙って涙を流し、はっきりした返事もなく、結局受けないことで終わってしまった。良順は慶喜公の揮毫を断念し、松平容保に依頼することにした
(3)取り残される会津藩と新選組
京都は尊皇攘夷派や過激派などで。幕府側に支援する公家の家を襲撃したり、首をはねたりテロ活動が暗躍し治安が悪化した。松平慶永公は「京都守護職」と言う職制を設け、会津藩に白羽の矢を立て、危険の任に就任反対もあったが受けた。
会津藩や配下の新選組も主君のため治安維持に活躍する。
鳥羽伏見の戦いで幕府側が破れ、新政府軍側で錦の旗が上がった。慶喜はこれ以上はもう逆らえない、朝敵にはなりたくないと、慶喜は容保らを引き連れ大阪から江戸に戻って、しまう。
戊辰役で、味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残されるが、ひたすら恭順の意を示す慶喜は、終戦前に容保には一切関わってくれるなととまで言って 会津藩は見捨てられてしまう。
新選組の近藤も土方も忠を尽くして主君に仕え、最後まで戦った。
慶喜は云うまでもなく、主君に最後まで支え、戦ったが、彼らに手を差し伸べず、恭順に走ってしまったことに、とても、書くことが出来なかったのである。
<展額の部分が劣化が激しく、霞みがかかり、詠みにくくなっている。これも会津藩と新選組の涙かと思えてくる>Sinsengumizanshou302

4)新選組の語りはタブー
(1)新選組隊士「松本捨助」
松本 捨助、は弘化2年(1825) - 大正7年(1918)は、新選組の八番組隊士である。
武蔵国多摩郡本宿村(現・東京都府中市本宿)の名主の松本友八の長男であり、土方歳三の縁戚関係でもある。
家業の百姓をやらなければならないが、元々武田の家来という血筋から天然理心流の門人になると熱心に剣の修業を励んだ。
地元の侠客「小金井小次郎」一家と関わりを持ち、「放蕩」(自分の思うままに振る舞う)を尽くしたかどで勘当されたと伝わる。それも剣の道に進みたいという一心のようであった。
家業を継げという声を余所に、京都へ二度三度行き、執念で新選組に入った。
鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮撫隊に参加し、会津戦争時に仙台で降伏し、郷里に帰る。
一時、小金井一家と関わりを持ったが、井上源三郎の兄、松五郎の娘「もと」と再婚し、四谷。名古屋に暮らし、米穀商を営んだが各地で転々とし、故郷へ戻った。
晩年は娘「トラ」が嫁いだ、八王子、横山町の斉藤旅館に、身を寄せ、亡くなった。
戊辰の戦いも終わってから、追われている身分から、身を隠すために実家のねぐらが土蔵の中で、危なくなると芋穴(保管する穴倉)の生活で身を隠し、不遇の晩年を送った時代であったようである。
(2)当時の時代背景から新選組は語れなかった
松本一男さんは。新選組隊士、松本捨助の末裔で 市役所の仕事を一筋に活躍された。
在職時代は新選組タブーであったこともあり、新選組の末裔であることは全く語らず、守り通され、誰も知らなかった。
その間、幕末期に日野剣士であった末裔の市長に変わり、新選組の故郷として、見直す機運が生まれた。高幡不動境内の歳三象の建立や、町おこしの一環で新選組まつりなど行われる位に地域ぐるみの活動が行われるようになった。
大河ドラマが引き金になり、全国から新選組フアンが日野に注がれる機運が生まれ新選組に対する見方も大きく変わってきた。
松本さんが、晴れて定年を迎えられ後に厚いベールが解かれ、末裔であったことが明らかにされた。松本捨助は府中の出身の隊士ではあるが、土方家とも親戚関係にある。まつりの中核を担う市役所の職員であった方の、突如の隊士末裔の発表は正に衝撃的であった。
今やオープン化された時代の象徴である新選組はこのように長く、重く隠された、時代を踏まえ、今日に繋がっている。、
<新選組が光を浴びるこの時期に捨助の遺志を継いで立派な墓石が建てられた。  墓は、東京都府中市の本宿共同墓地にある。>

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詳細記事は此方にも載せています。ご覧ください

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