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「百花繚乱」今日の本陣

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全くの気まぐれの天気、酷暑が続いたが、一段落した。朝からどんよりした曇り時より雨が降るという、梅雨に戻ったような錯覚になる。
世の中3連休だそうであるが、この天気に人出はどうだろうか?
掃除も済まし、構えたが、待ち人、やはり来ず、出だしの客足は重かった。
そんな折、6~7人の女の子が群れなしてやってくる。夏休み最前線、夏着姿に中学生と思ったが高校生であった。
中にはメモを手に持つ子、知識欲旺盛で、一言も漏らすまいぞとそんな眼差しは皆真剣であった。
そんな真摯な姿に、どちらの学校と聞いたが、誉れ高き、隣接市の某東高校になるほどと思ってしまう。
団体は別にして、歴史好きの共通認識を持ちながら、友達同志でこれだけの人数が集まり、来館されるのも、珍しく、頼もしくさえ思えてくる。
じじいの語り手と、聞き手が一方通行ではすれ違いに感じるものも薄く、期待外れになってしまい折角来た、のに無為のものになってしまう。
何処に興味をもたれているか一応聞いてみる、「幕末史」「新選組」も好きのようである。
参勤交代として、大名を迎える格式の都内唯一の貴重な本陣。土方歳三の謂わば育ての親としての佐藤家。幕末から維新にかけての建物を訪れた歴史上の要人。など、など語り尽くせぬ話しに、何に心をうったのであろうか・・・。
そんな高校生を切り出しに、切れ目なく来館者が殺到。14時頃に敢えて中断し、昼食もそこそこに
現場復帰し、閉館まで対応に追われた。

<中庭から建屋全景>

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◇青い目の来館者
そんな午後の一時、怒派手なジエスチャを交え、二人のアメリカ人女性が入館した。
青い目、金髪のロングヘアー、肌も露わなタンクトップに口ピアス、ひざの破れたGパン姿のトップファッションに思わず、身を引けてしまった。
受付から、多少の日本語判ると引き継がれる。
「うわ~どうしよう」と、身構える準備もなかったが、勇気を出して

「Where did you co」me from?」と切り出したら「America」と返ってきた。

都心から来た様であるが、全く日本人の介添えなく、此処まで来られるのも、日本語はある程度理解しているようであった。
取り分け、口ピアスのお姉さんの方が日本語堪能で「シンセングミ・ヒジカタトシゾー」など怪しげな言葉が飛び出し、そのトップファッションから、窺い知れない言葉に改めて驚く。
どうやらネット世界からの入れ込みのようで、正に垣根を越えて異国文化の情報が流れ、想像以上に浸透していることに驚く。
ここで、格好よく振舞えたらと思いつつ、既に固化している濃ミソから、殆ど慣習のない英語の世界に単語さえ出てこない。
そんな時代背景にあわせて、和英併記の案内メモが準備され、急遽引っ張り出した。
折しも「役所の答弁書を朗読させていただく」と棒読みする、某国大臣としてあるまじき姿にこれが「仕事人内閣か」と顰蹙をかっている。
しかし、こちらは観光目的の案内メモ、棒読みでも大目に見てくれるだろう

This building was built in 1864(建物は1864年建てられた)
にはじまり、各部屋の案内した。
Toshizo slept in this roomで「わお~と」一番盛り上がり、誰も居なかったので寝姿を二人で撮りあっていた。
異国の地でサムライ文化を体感し、良いお土産になったのであろう。

タイムスリップして嘉永6年(1853)日本の開国を迫った、ペリー来航で

「・・・泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はい(四隻)で夜も眠れず」と開国前後の落首から国内を戦慄させた。このペリー来航から、揺るぎない幕藩体制が崩れ、国内が大きく変わっていくきっかけが生まれた。

あれから160余年、その青い目のアメリカ人が、国のベールが取り払われ、江戸から離れた多摩地域に今正にやってきて、こうして気軽に休む姿に、どんな想いで見ているだろうか。
こうした開放的なアメリカ人が土間から上がり、畳の感触を味わいながら、交える風情に、微笑ましくも、感慨深いシーンであった。
「百花繚乱(りょうらん)」、こうして異質で色々な人を迎い入れ、閉館まで息つく暇無く、対応に追われる一日であった。

敢えて、我が家への帰路は市役所の前の神明の坂越えでの長い道のり、緊張感が解かれ、一気に疲れが、足にもきて、酔っぱらいの如く、ふらふらと横揺れしていた。

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会津城落城後の『斗南』地へ

Image411本州の北端に近い尻屋崎は、下北半島の北東部で、海につき出した陸地の突端である。
絶えず潮風に吹きさらされ、樹木が育たない荒れ地、この近くにかっての東北開花があったが、今は三菱マテリアルに吸収合併した。在職中は何度か通った、セメント会社であった。
上野から東北本線に乗って、「野辺地」でローカル線の大湊線に乗り換え終点の「大湊」まで向かう。「大湊」から更に車で県道6号線で尻屋にむかう。
打ち合わせ2~3時間で、東京から往復3日間は遥か遠い尻屋崎が、とても遠い、遠い場所であった。
この県道6号線沿いが旧斗南藩の生活拠点であった。当時、歴史には全く疎い存在であったが自然の中、特別なものが無い中で、旧斗南藩史跡が蘇ってくる。会津藩は戊辰役で破れ、厳しい自然の中、この斗南の地で暮らさざるを得なかった。その痕跡を辿ってみる。

◇会津城落城の様子
慶応4年(1868)、戸ノ口原で会津軍を撃破した政府軍は滝沢峠を越えて怒濤のように若松城下になだれ込んだ。
若松城下の戦闘は戊辰戦争のうちでも最大の激戦となった。会津藩士の戦死者は460余人、その家族の殉難者は230余人にも上った。

Wakamatsua201◇小田山からの砲撃

鶴ヶ城を包囲した政府軍は城の東南にある小田山の要害であることを探り出し、山頂に巨砲を据え付け砲撃を開始し、狙いすました砲弾は正確に城内の目標に命中始めた。
このため城内は死者が続出したちまち地獄図を描き、余りにも戦死者が多いため葬る土地さえ無くなってしまった。
9月14日袋のネズミとなった鶴ヶ城に対し政府軍は総攻撃を開始した。
小田山、館、愛宕山から打撃ち出された砲弾は糸を引くように鶴ヶ城に内に吸い込まれ、砲弾が天守閣を包んだ。同時に城の城の四方から政府軍が包囲網絞った。
9月16日、頑強に抵抗する会津軍に対して、征討軍参謀板垣退助は、松平容保に降伏を勧告した。
容保は重臣を集め協議したが抗戦派も多かったが、、城外の政府軍は10万城内に兵は3000余人、しかも1カ月の籠城で既に2000余人を失い、弾薬、食料も乏しく、兵は疲れている。
9月19日容保はついに開城を決断した。
「その方らは皆わがために戦い、父は傷つき子は討ち死にし、骨は地に積み血は曲がれて川になっている。これはもはや見るに忍びないところである。
もし。その方らがなおも王師と戦うというのであれば、われ一人でも降りるつもりである」と言いきり、家臣らもやむなく降伏を承知した。
9月22日鶴ヶ城の追手門に「降参」と大書した白旗が掲げられた。

◇転封地「斗南」建設

      <県道6号線、右側の樹林帯が「斗南ケ丘」>Image7111_2
明治2年(1869)家名再興が許され、未だ5カ月の松平容大が跡を継ぎ、三万石を与えられ斗南藩とした。幼令の容大を支えるため山川浩が権大参事として、執行責任を負った。
斗南藩は領内の開拓拠点として市街地を建設し、ここを「斗南ケ丘」と名付けられた。
市街地には一戸建て約50棟、二戸建て約80棟、掘井戸18箇所を建設した。
一番町から六番町まで大通りによって屋敷割りされ、一屋敷を百坪単位で土塀がめぐらされ区画された。Wakamatsua502
Wakamatsua503(落城後の外国人の目)
イギリス人医師「ウイリアム・ウイルス」は会津城落城後の会津の捕虜が人道的に扱われているかを検分した。ウイルス が目にしたものは会津の農民が領主階級に非常に冷たい態度を取っていることであった。
ウイルスによれば
「一般農民は残酷で無用な戦争を起こした会津藩士に敗北のさい「切腹」しなかったかぎり、彼らに尊敬に値する総ての資格を失った」
会津藩は足元の農民から憎まれており、会津藩士も判っていたのであろう。そうした背景から彼らの転封地を会津猪苗 代でなく斗南を選んだ共言われている。
いずれにしてもウイリスの行動は戊辰戦役に関して西洋人の関心が何処にあるのか物語る重要なエピソードであった。

◇会津から斗南へ厳しい旅路

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旧会津藩士と家族の移動が始まった。東京から、越後高田から、会津から海路、陸路を巡ってって北へ、北へ向かった。
政府から支給された路銀は乏しく、食うや、食わずの苦しい旅であった。野辺地から陸奥湾海岸線が大きく湾曲して北方にのび、その果てを恐山が遮っている。
この海岸線を強風にさらされながら、田名部へと辿った。
「みちのくの斗南はいかにと 人、問わば、神代(かみよ)のままの国答えよ」
神代のままだと響きが良いが、人も住み着かないような土地である。と山川浩は歌っている

◇北の防衛拠点造り
新政府は、戦後の処理は比較的に穏便に内乱の長期化をさけ、国民国家の建設を目指した新政府の存立に かかっていた。
ペリー来航以来の西欧列強の東洋進出は日本に大きく影響を与えた。この背景から蝦夷地や下北半島の開拓は近代日本の防衛拠点として欠くべかざるものであった
斗南の中心地田名部は現むつ市で日本海軍の重要基地が大湊である。日露戦争後、大湊での軍艦は平時は オホーツク海の漁船防衛まで行い北の防衛拠点の役割を果たした。大湊の発展は元会津藩士の斗南入植が契機であったことはいうまでもない、近代日本の発展の影に戊辰戦役敗軍の将兵の努力が支えた。

◇斗南藩消滅
明治4年(1871)7月新政府は旧来の封建制からの離脱のため、廃藩置県を断行した。斗南は県に改められ、旧藩主を切り離す為、旧大名は全て東京に召喚された。斗南県知事となった松平容大(かたはる)(容保の実子)は東京移住と なった。
同年9月斗南県は弘前県に合併され、更に青森県に改称された。こうして斗南藩は誕生以来僅か1年数カ月で消滅した。
藩がなくなり藩主さえ失い、斗南藩士の心の拠り所が無くなる。不毛の斗南に留まる理由も無くなり、開墾地の小屋から一戸、一戸離れていった。明治17年の調査記録から斗南から会津に戻った者は10300人余となっており、開拓に夢を かけた「斗南が丘」が再び無人の荒野に化していった。

◇斗南からの人材輩出
しかし、こんな斗南で辛酸を舐めた会津人から、多彩な人材が輩出している。

<山川浩>

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山川家藩祖保科正之の時代から仕えてきた名門である。会津戦争では日光方面で転戦。政府軍の重囲に落ちた鶴ヶ城へ、彼岸獅子の行列を装い、笛や太鼓の囃子に乗り、政府軍の包囲を潜り、無血入城した。
斗南藩大参事であったが、陸軍に入り少将に昇進する。東京高等師範学校長、東京高等女子師範学校長を歴任し貴族院議員・男爵となった。
弟の健次郎は帝国大学総長・貴族院議員・枢密院顧問官・男爵となっている
<柴 五郎>
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斗南移住後、青森県庁の給仕。上京後、陸軍幼年学校に入学 陸軍軍人として出生する。軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功 二級に至る。 陸軍部内きっての中国通としても知られ、事ある毎に中国へ派遣された。義和団の乱に総指揮を取った イギリス公使は、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ賞賛を浴び、欧米各国から数々の勲章を授与された。
◇斗南の藩主の姪、皇室入り
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昭和3年、昭和天皇の弟秩父宮雍仁(やすひと)親王と松平容大の姪にあたる「勢津子」と婚儀がおこなわれた。
戊辰以来、朝敵の汚名を被され悲憤の思いも、皇室へ入ったことで大きな節目を迎えた。会津では提灯行列、花火で祝った 。秩父宮夫妻は下北一帯を巡遊し斗南が丘にも立ち寄り、斗南の子孫を感激させた。
悲憤の思いもこの婚儀が大きな節目を迎えたのでなかろうか・・・。

併せて此方HPでも書いて見ましたご覧ください

会津戦争とその足跡

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