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武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」その2

武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」で当ブログで書いているが、英名緑についてちょっと触れてみた。併せて攘夷家で棄葬された回向院に訪ねて見たい。

    <八王子、左入の高木家にある「真田範之介」誕生地碑>

Image21真田範之介は武州多摩郡左入村(現八王子左入)の豪農で名主小峰久次郎の長男として誕生する。父親久次郎は剣術天然理心流を学び、免許皆伝迄取っている。
自宅内に仮道場を設け剣に歩む親の背中を見ながら、範之介も自然に剣の道に入り、メキメキと腕を上げた。
小峰家の範之介及び松之助の両兄弟は養子として離れ、逆に高木家から養子を迎え入れ、現在「高木家」で継いでいる。

範之介は19歳で八王子戸吹村、天然理心流の松崎和多五郎に入門し、剣の素質にすぐれ、通常の半分の約3年ほどで、中極位目録迄取得してしまう。
範之介は何故か江戸に出て、神田お玉ヶ池の北辰一刀流の玄武館に入門、千葉周作の門弟になる。千葉周作は1年後に亡くなり、千葉栄次郎が後を継ぐ。
北辰一刀流でも非凡な才覚を発揮し玄武館の塾頭になるなど実力が評価される。
範之介は養子に行き、小峰軍司からに「真田範之介」に改める。

◇浪士姓名簿
範之介は推定ではあるが、色んな人と実際の試合をやり、相手の技量を図り万延元年(1860)出版した「英名緑」を造っている。
関東一圓を廻って武術行脚しており、其処に土方歳三の名前が出てくる。
歳三の天然理心流の習った資格の伝法状の記録が一切残されていない中で「英名緑」の記載は大変貴重である。
関東八か国と甲斐の一部で江戸や水戸の剣士などが除いたものが載っている。
江戸には相当の門人が多く、江戸英名緑が出版予定されたが、範之介自身が斬られ亡くなってしまい、実現しなかった。
その間、各地流派の道場を訪れ英名緑を作っている

(近藤勇の所(試衛館)を調べると以下、12名が抽出される。)
特徴は出身、家族構成で妻子が何人居るかが新しい事実である。
<浪士姓名簿の天然理心流の剣客>
中村太吉 24才  江川太郎左衛門支配所 武州多摩郡日野宿住 母妻子3人
井上源三郎35才 武州多摩郡千人同心井上松五郎の弟、
佐藤房次郎28才 武州多摩郡千人同心 佐藤惣兵衛の弟・妻子3人
馬場兵助24才   江川太郎左衛門支配所 武州多摩郡日野宿住
沖田林太郎38才 阿部播磨守浪人妻子4人、本人含め5人が近藤と同居
山南敬助28才   松平陸奥守浪人で牛込甘騎町小谷陽之助(近藤周助の門人)地内に罷在
沖田総司22才   阿部播磨守浪人 住所は牛込加賀屋敷であるが近藤勇方に同居
長倉新八25才   松前伊豆守浪人 住所は牛込加賀屋敷であるが近藤勇方に同居
原田佐之助24才 伊予松山浪人
土方歳三29才   江川太郎左衛門支配所 武州多摩郡石田村
藤堂平助20才   御当地浪人   当時近藤勇方に同居      
近藤勇30才     四代浪人 当時市ヶ谷加賀屋敷山川健太郎地借仕 父妻子3人
近藤勇邸 同居人12名

剣客名は新選組の著名な隊士があるが、同じ仲間で日野宿で残り、壺伊勢屋事件で薩摩浪士と戦った剣士も載っている。

◇天然理心流との絆
安政7年(1860)3月、八王子戸吹の天然理心流の松崎和多五郎は牛沼山王社(秋川神明社に天然理心流の大扇額を奉納している。

Image111客分として真田範之介と帯同した北辰一刀流の弟子の名前が載っている。
範之介が江戸に出て 北辰一刀流に移ってからも、剣術を始めた天然理心流との交遊関係があり、深い絆で結ばれていた。

◇範之介の最期
千葉の門下生に多くの志士たちが集まり、範之介はその影響から攘夷に心動かし、西洋人のために日本が植民地化されることを恐れ、尊皇攘夷運動に走った。
元治元年(1864)3月上州筑波山に水戸藩攘夷天狗党が挙兵した。範之介は天狗党に参加
が、叶えられず、一派を連れ、横浜の夷人を襲う為、利根から鹿島に行こうとする時、幕吏と戦ったが、敗れ解散して流れた。
元治元年(1864)10月16日江戸に潜入中、深川船手屋で市中警護の幕吏新徴組6名に包囲され範之介と他は戦ったが、両名とも斬殺された。

真田藩之助の最後は幕士に滅多斬りされ21箇所余り傷を負い亡くなる。普通なら一太刀か二太刀で仕留められるところであるが、かすり傷でかわし、如何に剣が強かったためと言われている。

◇回向院へ

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範之介は31歳、二人の屍体は千住小塚原の*回向院下屋敷に棄葬された。当然、この訃報は左入の小峰の実家にも伝えられたが、墓はない。
小塚原回向院は、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり安政の大獄(1850)以降桜田門外事件、坂下門事件の橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎その他、憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬されたのである。
幕府に刃を向けた範之介も、同罪で、攘夷で杯を交わした仲間と境内で身を寄せ合い当院で静かに眠っている。

*「早春のお江戸ぶらり旅」
以下、回向院を含め江戸旅を計画し参加を募っています。
3月24日(土)9時~15時頃 
南千住・三ノ輪界隈を訪ね、幕末・明治の史跡を巡ります。
合流・10時30分 常磐線 南千住駅西口改札口)
行程:南千住駅 → 小塚原回向院(吉田松陰らの墓、観臓記念碑)→ 延命寺(4mの首切り地蔵)→ 素盞雄神社(芭蕉が奥の細道旅立に詠んだ句碑) →  円通寺(彰義隊戦死者埋葬黒門) → 浄閑寺(吉原の遊女の投込み寺 )

参加費:300円(資料代。交通費・昼食代は各自負担)
申込:佐彦会・吉澤光景(TEL/FAX:042-843-1210)

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小野路村名主「小島家と新選組」

◇小野路来訪の新選組隊士達
嘉永元年(1848)近藤周助は小島家に、来訪し、以来小島鹿之助は周助の門人となる。
嘉永5年(1852)近藤勇が初めて来訪し、以来間をおいているが、免許取得した安政4年(1857)以降は毎年来訪する。
同家を訪れ、後の新選組隊士となった剣士の来訪は近藤勇が37回が一番多く、土方歳三11回、沖田総司が12回、 山南敬助が2回と剣術稽古で訪れている。

<京都行きを前に小島家、最後の来訪>
文久3年(1863)浪士組と上洛が決まり土方歳三と一緒に来訪する。
小島鹿之助は物騒な京都行きを前に、近藤勇を通じて、鎖着込みを2着作製し、1着を勇に贈っており、1着は小島家に残る。池田屋騒動ではこれを着用して戦ったものと考えられる。その来訪の折に歳三には刀を贈っている。
その翌日に沖田と山南の二人が訪れ、二人にお金を贈っており、上洛前の浪士組として、彼らの武勲を祈って、それぞれにお祝いを贈っている。
その後、新選組を結成し、戦いの嵐に入って行くので、近藤勇以下の隊士は小島家には、最後の来訪となる。

日頃の剣術稽古が修練され、晴れて幕府配下の浪士として池田屋騒動など実践に入っていく。新選組の活躍に よって、天然理心流の名前が広く、世間に知れ渡った。

    <早朝から境内で稽古した京の壬生寺>

Img094111(小島邸での新選組隊士のエピソード)
◇近藤勇
1)近藤勇像
土方歳三の兄「喜六」の息子、四男の「力三郎」は歳三の甥で、写真画家で近藤勇の油絵を小島家に残している。
油絵であるが写実を追求した作品だけにカラー写真の様に近藤勇像を捉え、鋭い目付き角張った頬、剣術家として秀た才覚と新選組の組織を統括する手腕と威厳を備えた表情を今日伝えるている。

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2)勇の稽古着
剣術練習着の背中のドクロは勇の妻つねが刺繍したもので、勇はこれを着て剣術を教えたと言われる。
ドクロの意味は戦国時代に旗や胸に付けて戦ったが、戦では相手の首を取るか、取られるかで、死んでも構わ ないと言う決死の意気込み、強い意志を表現したものと言われている。池田屋騒動で「主人はおるか御用改めてござる」と浪士相手に敢然と勇が襲撃するのも、死を恐れず踏み込む のもこのドクロの精神を背負い込む、勇の気迫が伝わってくる。
ドクロの稽古着は資料館に展示されている。Onoji303
◇土方歳三
1)すこぶる美男子(両雄士傳補遺から)
小島鹿之助が近藤勇と土方歳三が逆賊になってしまったので 、その汚名を晴らすために明治7年10月に作った漢文である。それを編集したのが橋本政直である。
「土方歳三義豊は多摩郡石田村ぼ豪農、土方隼人義諄の四男なり。生まれるに数月に父義諄は病没し、三歳の時母も死亡し、兄隼人の鞠育(きくいく)を受け、十一歳にして江戸に出る。某商家にて奉公する、資性沈毅(ちんぎ)頗(すこぶ)る大度あり。喜怒色に顕(あらわ)れず。商估(商売)の事を屑(いさぎよし)とせす幾くばくならすして家に帰り、専(もっぱら)
を文武に志し、近藤邦武先生の門に入りて理心流の剣法学び昌宣(まさよし)と兄弟の義を結び、共に琢磨究む。
年歯昌宣に後るる一歳、身丈五尺五寸(165㎝)眉目(みもく)清秀にして 頗る(すこぶる)美男子たり。」

Onoji401既に居なくなった歳三を 鹿之助はこんな形で好男子振りを後世に伝えている。

2)京都で女性に持てた歳三

好男子振りを背景に、「どうだ、俺はこんなに、もてるんだぞ」と正直に豪語している。
「文久3年11月松本捨助が新選組隊士に入りたいと突然、 歳三の居る京都に訪ねた。土方は捨助が長男で両親が居るので新選組に入るのはまかりならぬと返される。その時に捨助が土方から預かり小島家に届けた手紙

「尚々、私どもは報国の有志をめざしていますが、婦人(女性)が我々を慕うことは、手紙には、書き尽くせません。
先、京にては、嶋原の花君太夫、天神、一之、祇園にては、いわゆる芸子が三人程います。
北野にては、君菊、小楽と申す舞妓、大坂新町にては、若鶴太夫の外に二、三人もおります。
北の新地にては沢山いますので筆では、書き尽せません。先はお知らせします。」
尚々から始まる手紙は男前で面目躍如たる歳三の女性の自慢話であるが名前まで書いてあるところが大変リアルで面白い。ここで紹介される女性も実在の人物であったようである。
この手紙の後に「報国の心を忘する婦人かな」という句をつけている。忠義を尽くして国に報いる「報国」の言 葉が浪士組上洛以来のスローガンでもあった。
浪士組上洛の意向は 将軍家茂の護衛と攘夷の実行であったが、中々実現しないことの鬱積も、美女の前に一挙に弾け飛んでしまったのであろうか・・・。「禁門の変」で新選組は鎮圧に出陣。翌年は池田屋騒動など、 息も付けない嵐に束の間の一時でもあったろう。

3)小島家へ富沢忠右衛門が持参した宝もの
富沢忠右衛門は豪農であるが、将軍が京都に行った時に旗本が付いていく。
「小島角左衛門聴書」元治元年五月十五日(小島日記から)
「 連光寺富沢忠右衛門帰宅。京都より土方歳造日野宿佐藤彦五郎方へ差し送り書面・日記帳など昨日参り候歳造より甲(かぶと)鉢鉄(はちがね)送り来たり、真面弐カ所切りかけ候 疵の跡これあり、是も書面の趣には、 万一京都において打ち死等も致し候はば、歳造と思い呉れ朝暮回向致し呉れ候様申し来たり候」
鉢鉄についた書面から「万一京都において打ち死した時はこれを形見として、朝暮、鉢鉄を拝んでくれ」と面白い表記であるが、既に死を覚悟の上での切迫した毎日であったのである。
<拡大写真に2箇所の刀傷が生生しく残っている。歳三から富沢忠右衛門に託したのは池田屋騒動の前であるが、 既にこんな乱闘が起こっていた。>

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4)歳三の訃報を伝える市村鉄之介
明治2年6月に小島家、橋本家に佐藤彦五郎にも日記が残っている
歳三の訃報を遥々函館から日野宿へ伝えたのが市村鉄之介であった。しかし、新政府に変わって間もないこの時期に賊軍である新選組の当事者は厳しい監視下にあり、市村鉄之介の名前は伏せられ、当然、佐藤日記にも名前が載せられなかった。
当事者たる、佐藤彦五郎の娘の「なみ」が橋本家に嫁ぎ、佐藤家に里帰りした折に、市村の話を聞き及び橋本家に戻った折に、衝撃的な土方の訃報『北海之凶音』を伝えている。

◇出稽古で通った道
天然理心流の近藤勇以下の門下生はに出稽古で以下のルートで足しげく通った。
小島資料館の前は都道158号線が走り北西側に向かい、途中(細野ハイツ)で脇道に入ると布田道に繋がり、鎌倉街 道に交差する。
布田道の途中で枝道に北方向に鎌倉街道に並行して一本杉公園、豊ケ岡公園、愛宕団地を越えると多摩川の一宮に出る。
都市開発が広範囲に進んでいるが、田圃、牧畜、鬱蒼とした木立の中の切り通し、 里の風情など自然路が残され、出 稽古の姿を思い浮かべながら、幕末をタイムスリップ出来る。

<布田道の中、関屋の切り通しが往時の姿を留めている。アップダウンの激しく、人が通れるだけの道、土の壁に切り株が そっくり残され、往時の姿を留めるべく、案内看板が道先案内してくれる>

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◇馬に揺すられる惣次郎の姿を想う
文久2年(1862)7月13日21歳の沖田惣次郎が小野路、橋本道助の道場に出稽古に就いたが具合悪く咳が止まらなかった。
小島鹿之助が町医者をつれてきたが、麻疹で安静を言い渡された。惣次郎は病床につき二日後、熱も下がり、小島鹿之助は左十郎という門人を付け惣次郎を馬に乗せ、甲州街道沿いの布田宿まで送った。
布田宿から早馬で知らせ試衛館から門人が迎えにきた。江戸に辿り着いた惣次郎は再び高熱を発し寝込んだ。
当時 麻疹によって何人か死者もでていたので周りも心配した。
麻疹で斃れたということ以外経過が分らないまま書き記した小島鹿之助の日記に「病の軽重 あい分らず此人剣術は 晩年 必ず名人にいたるべき人なり。故に我ら深く心配いたす。」とある
病に弱り切った惣司郎が振り落とせまいと、必死に馬にしがみつき、喘ぎながら、この難路を越え、江戸へ向かったのであろう。
惣司郎に対する小島鹿之助の思いやり、浪士組として上洛前、既に病に蝕まれていたのであろうか、剣術にかけた惣司郎も病には勝てなかった

鬱蒼とし竹藪の中、僅かな光が通る道のりに、未だこんな所があるのだと万感を究める。何回来ても飽きることの無い希少な場所である。

◇)両雄の戦死に賊軍の汚名を晴らす「両雄士伝」を残す
小島鹿之助が戊辰役で亡くなった後近藤勇と土方歳三が逆賊になってしまったので 、その汚名を晴らすために明治 7年10月に作った漢文が「両雄士伝」である。
「両雄士伝補遺」を編集したのが橋本政直である。
「両雄士伝」を元に大槻盤渓が撰文し、近藤、土方が幕府をへの忠節を讃えるえる顕彰碑が高幡不動に「殉節両雄 碑」が建立された。
「殉節両雄碑」は「両雄士伝」から両雄が多摩川の両岸での誕生から、始まる。成長過程で剣法を学び究め、将軍警 護で浪士組として京に上り、「新選組」として数々の武勇が幕府から評価される。
池田屋事件、禁門の変、天王山の戦い、鳥羽伏見の戦い、甲斐鎮撫、流山で昌宣(勇)の捕縛後板橋で処刑。
残された義豊(歳三)が宇都宮、会津若松、箱館と転戦し戦死するまでの軌跡までを丹念に碑文として纏められている。
(土方戦死)
明治2年5月11日土方は箱館の一本木で腹部に銃弾を受け戦死した。
「両雄士伝」では土方は戦死後、五稜郭内に埋葬されたと書かれている。
「両雄士伝補遺」には土方の辞世の和歌 「タトイ身ハ、蝦夷ノ島根に朽チルトモ、魂ハ東ノ君ヤ、マモラン」と言う有名な句が記入されている。

         <「両雄士伝」から生まれた高幡不動にある「殉節両雄 碑」>

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◇)明治以降の剣術
天然理心流は賊軍とされた新選組の武術として、表向きは新政府が認めなかった。水面下で「撃剣」と称して精神や
肉体を鍛える体育的要素で多くの青年たちが学び続けられた。
こうした若者に隣村の野津田の自由民権運の思想家である石坂昌孝も参加し、小島鹿之助と交友関係が生まれる。
鹿之助は自由民権運を支石坂昌孝と義兄弟となる。当時、薩長土中心に作られた明治新政府の政策に理論という武器で挑んだ自由民権運に繋がる。
こうして戊辰役で静められたエネルギーは形を変えて、多摩地域で尚、燃えさかるのである。

「最後に」:天然理心流の門下から剣術を通じて、新選組隊士と深い関わりを持ち支えた小野路の名主小島家。
小島日記や新選組に関わる書簡が大量に残され、 :新選組史や同家に関わりを持つ隊士の生の姿を触れる ことが出来た。

此処をクリックすると前頁小野路村名主「小島家」に戻ります

詳しくは此方hpにも載せています。是非ご覧ください

小野路の小島家と新選組

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小野路村名主「小島家」

◇往時の雰囲気を残す小野路宿

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小島資料館の前は都道158号線でこの先が小野神社前交差点から小野路バス停留所付近までの約500mの区間が 大山街道の宿場町として栄えた小野路宿の街並みを残している。
小野路の地形が200年前の昔のまま、残っている。小野路の宿は八王子、調布、府中に繋がる、船の利用で府中が一番、重要で、旅籠が600もあった。

◇新選組を支えた名主連

小野路村は鎌倉街道で鎌倉と府中に抜ける道の宿である。江戸時代の後期、当時は関八州(現関東一圓)の無宿人や浪人が増加して治安が悪く、文政10年(1827)の改革で関東取締出役がおかれ、地域を巡回し、治安の維持や犯 罪など現在の警察機能が行われた。
小島家は、34か村の組合を作り、寄場名主を勤めており、この関東取締出役に協力した。
関東取締出役は色々の事件を担当し、道案内や捕縛など動員させられた。そのため、武術を学ばなければならず、 地域の剣術普及に熱心であった天然理心流の門下に入った。
この新選組を物心両面から支えたのが日野宿の寄場名主佐藤家や小野路村寄場名主小島家であった。剣術稽古で結ばれた絆から、新選組に育っていた以降も名主との深い関係が維持され、手紙のやりとりやそれぞれの名主の日記など大量に残されている。
これらの資料が、徐々に明らかにされ、新選組の生い立ちから、池田屋騒動など活動時期、最後は新政府から追わ れ散っていく、足跡を含め事実の開明に繋がってくる。

小島家第二十四代当主の小島政孝氏は自ら小島家に残される遺品や膨大な資料を詳らかにされ、現在小島資料 館館長として、展示案内され、幕末史に光を当て、現代に伝えている。

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小島家の広い敷地は板囲いで覆われ、玄関は重厚な山門で構えられ、歴史の重みを感じさせられる。敷地に覆われ、豊かな樹木、この閉ざされた向こう側に何があるのだろう、異郷の世界にかきたてられる

◇小島鹿之助
文政13年(1830年)、武蔵国多摩郡小野路村の名主・小島角左衛門の長男に生まれる。漢学を菊地菊城、遠山雲如らに学んだとされ18歳で小野路村名主となる。

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1)天然理心流入門
嘉永元年(1848年)、天然理心流宗家3代目・近藤周助の門人となり後の新選組局長近藤勇(天然理心流宗家4代 目)や同門で日野宿名主の佐藤彦五郎と三国志の故事にならい、3名は「義兄弟」の契りを交わしている。
近藤や土方らが浪士組として京都へ上洛し、新選組を結成した後も文通を欠かさず良き相談役となっていた。

2)農兵隊
慶応2年(1866)幕府支配体制が揺るぎ、国の社会秩序も乱れ始める。同年6月には武州世直し一揆が起こっている。
日野宿では佐藤彦五郎以下の農兵隊が世直し勢と衝突している。小野路も急遽農兵隊が組織化されたが、出動機 会は無かった。

<銃練習中の農兵隊>Image111
◇書き継がれた「小島日記」
小島角左衛門が天保7年(1836)日記をつけ始め嘉永3年(1850)にブランクがあるが、鹿之助に譲って続き守政、孝、小島家当主が4代にわたって大正10年まで86年間 書き継がれた。
角左衛門から鹿之助が亡くなったのが慶応3年(1867)で親子の日記が17年続いたが丁度新選組の記述が日記に残さ れる。書を旗本石川梧堂から学び、「梧」の一字をもらい自分の号とした『梧山堂雑書』と呼ばれている。

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日野宿の佐藤彦五郎が書いた佐藤日記もあるが、慶応4年(1868)3月以降の、日野宿へ官軍の侵攻探索を受け彦五郎は逃避のため復帰するまで記録は途絶えている。

◇何故武芸が流行ったか
江戸時代後期、多摩地域では天然理心流など多くの武術が豪農に広まった。これは現町田市域でも、天然理心流 宗家三代目の近藤周助が小山村出身であることもあって、多くの門人が育った。
周助の養子である近藤勇や門弟の土方歳三、沖田総司など度々出稽古に多摩に訪れている。
豪農層が「在村文化」と言われる生産活動と俳諧・生花・書画・武術・儒学などの文化活動を両立させ、生活面で多少余裕のある豪農たちに取って武芸は嗜みであった。
長年培われた士農工商の封建社会の階層概念から、上位の武士の持つ、(帯刀)と言う権威、(士道)という哲学を体得することへの欲求の現れでもあった。
一方、一揆への不安や村方騒動、盗賊の増加などに対する村の治安対策も、武芸を必要とした。

<日野宿名主佐藤芳三郎(上佐藤)が着用した剣術用革製胴>

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◇豪農層では道場準備
天然理心流の二代目近藤三助が八王子出身で門人は八王子をテリトリーとしている。
従って近藤周助は多摩でも門人のいない多摩の豪農層を狙い目に開拓した。八王子千人同心は地域の警護で幕府を担う武士として本来剣術を習っていたが、農民は禁止されていた。
所が幕末に関東取締出役の下に組合村が出来ると捕り物に動員される体制が作られ、農民の武術禁止は崩れた。
豪農層でも力のある家を中心に敷地の一角を、道場に据えている。例えば小野寺村の小島家、連光寺村の富澤家、日野宿の佐藤家など道場にして周辺の人が其処に習いに来た。

◇天然理心流神文帳
天然理心流に入門した暁には天然理心流神文帳に記名登録され、血判する。
こんな約束事が書かれ、門下生はこれを守ると言う一種の誓約書である。
・指南免許のない者が他者に稽古をつけることを禁じる
・未熟な内に他流試合、他流批判の禁止。
・自らの稽古不熱心を棚に上げて師匠を恨むことを戒める
など文言が記されている。天然理心流に入門を希望する者はこの文言を守ることを天地神明に誓い、血判した。

こうして小野路村に剣術を習う環境が生まれ近藤勇や門弟の土方歳三、沖田総司など度々出稽古に小島家に訪れ、絆が生まれていく。次回は新選組に羽ばたく隊士達の個々の小島家、残された足跡・記録について紹介する。

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