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小野路村名主「小島家」

◇往時の雰囲気を残す小野路宿

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小島資料館の前は都道158号線でこの先が小野神社前交差点から小野路バス停留所付近までの約500mの区間が 大山街道の宿場町として栄えた小野路宿の街並みを残している。
小野路の地形が200年前の昔のまま、残っている。小野路の宿は八王子、調布、府中に繋がる、船の利用で府中が一番、重要で、旅籠が600もあった。

◇新選組を支えた名主連

小野路村は鎌倉街道で鎌倉と府中に抜ける道の宿である。江戸時代の後期、当時は関八州(現関東一圓)の無宿人や浪人が増加して治安が悪く、文政10年(1827)の改革で関東取締出役がおかれ、地域を巡回し、治安の維持や犯 罪など現在の警察機能が行われた。
小島家は、34か村の組合を作り、寄場名主を勤めており、この関東取締出役に協力した。
関東取締出役は色々の事件を担当し、道案内や捕縛など動員させられた。そのため、武術を学ばなければならず、 地域の剣術普及に熱心であった天然理心流の門下に入った。
この新選組を物心両面から支えたのが日野宿の寄場名主佐藤家や小野路村寄場名主小島家であった。剣術稽古で結ばれた絆から、新選組に育っていた以降も名主との深い関係が維持され、手紙のやりとりやそれぞれの名主の日記など大量に残されている。
これらの資料が、徐々に明らかにされ、新選組の生い立ちから、池田屋騒動など活動時期、最後は新政府から追わ れ散っていく、足跡を含め事実の開明に繋がってくる。

小島家第二十四代当主の小島政孝氏は自ら小島家に残される遺品や膨大な資料を詳らかにされ、現在小島資料 館館長として、展示案内され、幕末史に光を当て、現代に伝えている。

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小島家の広い敷地は板囲いで覆われ、玄関は重厚な山門で構えられ、歴史の重みを感じさせられる。敷地に覆われ、豊かな樹木、この閉ざされた向こう側に何があるのだろう、異郷の世界にかきたてられる

◇小島鹿之助
文政13年(1830年)、武蔵国多摩郡小野路村の名主・小島角左衛門の長男に生まれる。漢学を菊地菊城、遠山雲如らに学んだとされ18歳で小野路村名主となる。

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1)天然理心流入門
嘉永元年(1848年)、天然理心流宗家3代目・近藤周助の門人となり後の新選組局長近藤勇(天然理心流宗家4代 目)や同門で日野宿名主の佐藤彦五郎と三国志の故事にならい、3名は「義兄弟」の契りを交わしている。
近藤や土方らが浪士組として京都へ上洛し、新選組を結成した後も文通を欠かさず良き相談役となっていた。

2)農兵隊
慶応2年(1866)幕府支配体制が揺るぎ、国の社会秩序も乱れ始める。同年6月には武州世直し一揆が起こっている。
日野宿では佐藤彦五郎以下の農兵隊が世直し勢と衝突している。小野路も急遽農兵隊が組織化されたが、出動機 会は無かった。

<銃練習中の農兵隊>Image111
◇書き継がれた「小島日記」
小島角左衛門が天保7年(1836)日記をつけ始め嘉永3年(1850)にブランクがあるが、鹿之助に譲って続き守政、孝、小島家当主が4代にわたって大正10年まで86年間 書き継がれた。
角左衛門から鹿之助が亡くなったのが慶応3年(1867)で親子の日記が17年続いたが丁度新選組の記述が日記に残さ れる。書を旗本石川梧堂から学び、「梧」の一字をもらい自分の号とした『梧山堂雑書』と呼ばれている。

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日野宿の佐藤彦五郎が書いた佐藤日記もあるが、慶応4年(1868)3月以降の、日野宿へ官軍の侵攻探索を受け彦五郎は逃避のため復帰するまで記録は途絶えている。

◇何故武芸が流行ったか
江戸時代後期、多摩地域では天然理心流など多くの武術が豪農に広まった。これは現町田市域でも、天然理心流 宗家三代目の近藤周助が小山村出身であることもあって、多くの門人が育った。
周助の養子である近藤勇や門弟の土方歳三、沖田総司など度々出稽古に多摩に訪れている。
豪農層が「在村文化」と言われる生産活動と俳諧・生花・書画・武術・儒学などの文化活動を両立させ、生活面で多少余裕のある豪農たちに取って武芸は嗜みであった。
長年培われた士農工商の封建社会の階層概念から、上位の武士の持つ、(帯刀)と言う権威、(士道)という哲学を体得することへの欲求の現れでもあった。
一方、一揆への不安や村方騒動、盗賊の増加などに対する村の治安対策も、武芸を必要とした。

<日野宿名主佐藤芳三郎(上佐藤)が着用した剣術用革製胴>

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◇豪農層では道場準備
天然理心流の二代目近藤三助が八王子出身で門人は八王子をテリトリーとしている。
従って近藤周助は多摩でも門人のいない多摩の豪農層を狙い目に開拓した。八王子千人同心は地域の警護で幕府を担う武士として本来剣術を習っていたが、農民は禁止されていた。
所が幕末に関東取締出役の下に組合村が出来ると捕り物に動員される体制が作られ、農民の武術禁止は崩れた。
豪農層でも力のある家を中心に敷地の一角を、道場に据えている。例えば小野寺村の小島家、連光寺村の富澤家、日野宿の佐藤家など道場にして周辺の人が其処に習いに来た。

◇天然理心流神文帳
天然理心流に入門した暁には天然理心流神文帳に記名登録され、血判する。
こんな約束事が書かれ、門下生はこれを守ると言う一種の誓約書である。
・指南免許のない者が他者に稽古をつけることを禁じる
・未熟な内に他流試合、他流批判の禁止。
・自らの稽古不熱心を棚に上げて師匠を恨むことを戒める
など文言が記されている。天然理心流に入門を希望する者はこの文言を守ることを天地神明に誓い、血判した。

こうして小野路村に剣術を習う環境が生まれ近藤勇や門弟の土方歳三、沖田総司など度々出稽古に小島家に訪れ、絆が生まれていく。次回は新選組に羽ばたく隊士達の個々の小島家、残された足跡・記録について紹介する。

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