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小野路村名主「小島家と新選組」

◇小野路来訪の新選組隊士達
嘉永元年(1848)近藤周助は小島家に、来訪し、以来小島鹿之助は周助の門人となる。
嘉永5年(1852)近藤勇が初めて来訪し、以来間をおいているが、免許取得した安政4年(1857)以降は毎年来訪する。
同家を訪れ、後の新選組隊士となった剣士の来訪は近藤勇が37回が一番多く、土方歳三11回、沖田総司が12回、 山南敬助が2回と剣術稽古で訪れている。

<京都行きを前に小島家、最後の来訪>
文久3年(1863)浪士組と上洛が決まり土方歳三と一緒に来訪する。
小島鹿之助は物騒な京都行きを前に、近藤勇を通じて、鎖着込みを2着作製し、1着を勇に贈っており、1着は小島家に残る。池田屋騒動ではこれを着用して戦ったものと考えられる。その来訪の折に歳三には刀を贈っている。
その翌日に沖田と山南の二人が訪れ、二人にお金を贈っており、上洛前の浪士組として、彼らの武勲を祈って、それぞれにお祝いを贈っている。
その後、新選組を結成し、戦いの嵐に入って行くので、近藤勇以下の隊士は小島家には、最後の来訪となる。

日頃の剣術稽古が修練され、晴れて幕府配下の浪士として池田屋騒動など実践に入っていく。新選組の活躍に よって、天然理心流の名前が広く、世間に知れ渡った。

    <早朝から境内で稽古した京の壬生寺>

Img094111(小島邸での新選組隊士のエピソード)
◇近藤勇
1)近藤勇像
土方歳三の兄「喜六」の息子、四男の「力三郎」は歳三の甥で、写真画家で近藤勇の油絵を小島家に残している。
油絵であるが写実を追求した作品だけにカラー写真の様に近藤勇像を捉え、鋭い目付き角張った頬、剣術家として秀た才覚と新選組の組織を統括する手腕と威厳を備えた表情を今日伝えるている。

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2)勇の稽古着
剣術練習着の背中のドクロは勇の妻つねが刺繍したもので、勇はこれを着て剣術を教えたと言われる。
ドクロの意味は戦国時代に旗や胸に付けて戦ったが、戦では相手の首を取るか、取られるかで、死んでも構わ ないと言う決死の意気込み、強い意志を表現したものと言われている。池田屋騒動で「主人はおるか御用改めてござる」と浪士相手に敢然と勇が襲撃するのも、死を恐れず踏み込む のもこのドクロの精神を背負い込む、勇の気迫が伝わってくる。
ドクロの稽古着は資料館に展示されている。Onoji303
◇土方歳三
1)すこぶる美男子(両雄士傳補遺から)
小島鹿之助が近藤勇と土方歳三が逆賊になってしまったので 、その汚名を晴らすために明治7年10月に作った漢文である。それを編集したのが橋本政直である。
「土方歳三義豊は多摩郡石田村ぼ豪農、土方隼人義諄の四男なり。生まれるに数月に父義諄は病没し、三歳の時母も死亡し、兄隼人の鞠育(きくいく)を受け、十一歳にして江戸に出る。某商家にて奉公する、資性沈毅(ちんぎ)頗(すこぶ)る大度あり。喜怒色に顕(あらわ)れず。商估(商売)の事を屑(いさぎよし)とせす幾くばくならすして家に帰り、専(もっぱら)
を文武に志し、近藤邦武先生の門に入りて理心流の剣法学び昌宣(まさよし)と兄弟の義を結び、共に琢磨究む。
年歯昌宣に後るる一歳、身丈五尺五寸(165㎝)眉目(みもく)清秀にして 頗る(すこぶる)美男子たり。」

Onoji401既に居なくなった歳三を 鹿之助はこんな形で好男子振りを後世に伝えている。

2)京都で女性に持てた歳三

好男子振りを背景に、「どうだ、俺はこんなに、もてるんだぞ」と正直に豪語している。
「文久3年11月松本捨助が新選組隊士に入りたいと突然、 歳三の居る京都に訪ねた。土方は捨助が長男で両親が居るので新選組に入るのはまかりならぬと返される。その時に捨助が土方から預かり小島家に届けた手紙

「尚々、私どもは報国の有志をめざしていますが、婦人(女性)が我々を慕うことは、手紙には、書き尽くせません。
先、京にては、嶋原の花君太夫、天神、一之、祇園にては、いわゆる芸子が三人程います。
北野にては、君菊、小楽と申す舞妓、大坂新町にては、若鶴太夫の外に二、三人もおります。
北の新地にては沢山いますので筆では、書き尽せません。先はお知らせします。」
尚々から始まる手紙は男前で面目躍如たる歳三の女性の自慢話であるが名前まで書いてあるところが大変リアルで面白い。ここで紹介される女性も実在の人物であったようである。
この手紙の後に「報国の心を忘する婦人かな」という句をつけている。忠義を尽くして国に報いる「報国」の言 葉が浪士組上洛以来のスローガンでもあった。
浪士組上洛の意向は 将軍家茂の護衛と攘夷の実行であったが、中々実現しないことの鬱積も、美女の前に一挙に弾け飛んでしまったのであろうか・・・。「禁門の変」で新選組は鎮圧に出陣。翌年は池田屋騒動など、 息も付けない嵐に束の間の一時でもあったろう。

3)小島家へ富沢忠右衛門が持参した宝もの
富沢忠右衛門は豪農であるが、将軍が京都に行った時に旗本が付いていく。
「小島角左衛門聴書」元治元年五月十五日(小島日記から)
「 連光寺富沢忠右衛門帰宅。京都より土方歳造日野宿佐藤彦五郎方へ差し送り書面・日記帳など昨日参り候歳造より甲(かぶと)鉢鉄(はちがね)送り来たり、真面弐カ所切りかけ候 疵の跡これあり、是も書面の趣には、 万一京都において打ち死等も致し候はば、歳造と思い呉れ朝暮回向致し呉れ候様申し来たり候」
鉢鉄についた書面から「万一京都において打ち死した時はこれを形見として、朝暮、鉢鉄を拝んでくれ」と面白い表記であるが、既に死を覚悟の上での切迫した毎日であったのである。
<拡大写真に2箇所の刀傷が生生しく残っている。歳三から富沢忠右衛門に託したのは池田屋騒動の前であるが、 既にこんな乱闘が起こっていた。>

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4)歳三の訃報を伝える市村鉄之介
明治2年6月に小島家、橋本家に佐藤彦五郎にも日記が残っている
歳三の訃報を遥々函館から日野宿へ伝えたのが市村鉄之介であった。しかし、新政府に変わって間もないこの時期に賊軍である新選組の当事者は厳しい監視下にあり、市村鉄之介の名前は伏せられ、当然、佐藤日記にも名前が載せられなかった。
当事者たる、佐藤彦五郎の娘の「なみ」が橋本家に嫁ぎ、佐藤家に里帰りした折に、市村の話を聞き及び橋本家に戻った折に、衝撃的な土方の訃報『北海之凶音』を伝えている。

◇出稽古で通った道
天然理心流の近藤勇以下の門下生はに出稽古で以下のルートで足しげく通った。
小島資料館の前は都道158号線が走り北西側に向かい、途中(細野ハイツ)で脇道に入ると布田道に繋がり、鎌倉街 道に交差する。
布田道の途中で枝道に北方向に鎌倉街道に並行して一本杉公園、豊ケ岡公園、愛宕団地を越えると多摩川の一宮に出る。
都市開発が広範囲に進んでいるが、田圃、牧畜、鬱蒼とした木立の中の切り通し、 里の風情など自然路が残され、出 稽古の姿を思い浮かべながら、幕末をタイムスリップ出来る。

<布田道の中、関屋の切り通しが往時の姿を留めている。アップダウンの激しく、人が通れるだけの道、土の壁に切り株が そっくり残され、往時の姿を留めるべく、案内看板が道先案内してくれる>

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◇馬に揺すられる惣次郎の姿を想う
文久2年(1862)7月13日21歳の沖田惣次郎が小野路、橋本道助の道場に出稽古に就いたが具合悪く咳が止まらなかった。
小島鹿之助が町医者をつれてきたが、麻疹で安静を言い渡された。惣次郎は病床につき二日後、熱も下がり、小島鹿之助は左十郎という門人を付け惣次郎を馬に乗せ、甲州街道沿いの布田宿まで送った。
布田宿から早馬で知らせ試衛館から門人が迎えにきた。江戸に辿り着いた惣次郎は再び高熱を発し寝込んだ。
当時 麻疹によって何人か死者もでていたので周りも心配した。
麻疹で斃れたということ以外経過が分らないまま書き記した小島鹿之助の日記に「病の軽重 あい分らず此人剣術は 晩年 必ず名人にいたるべき人なり。故に我ら深く心配いたす。」とある
病に弱り切った惣司郎が振り落とせまいと、必死に馬にしがみつき、喘ぎながら、この難路を越え、江戸へ向かったのであろう。
惣司郎に対する小島鹿之助の思いやり、浪士組として上洛前、既に病に蝕まれていたのであろうか、剣術にかけた惣司郎も病には勝てなかった

鬱蒼とし竹藪の中、僅かな光が通る道のりに、未だこんな所があるのだと万感を究める。何回来ても飽きることの無い希少な場所である。

◇)両雄の戦死に賊軍の汚名を晴らす「両雄士伝」を残す
小島鹿之助が戊辰役で亡くなった後近藤勇と土方歳三が逆賊になってしまったので 、その汚名を晴らすために明治 7年10月に作った漢文が「両雄士伝」である。
「両雄士伝補遺」を編集したのが橋本政直である。
「両雄士伝」を元に大槻盤渓が撰文し、近藤、土方が幕府をへの忠節を讃えるえる顕彰碑が高幡不動に「殉節両雄 碑」が建立された。
「殉節両雄碑」は「両雄士伝」から両雄が多摩川の両岸での誕生から、始まる。成長過程で剣法を学び究め、将軍警 護で浪士組として京に上り、「新選組」として数々の武勇が幕府から評価される。
池田屋事件、禁門の変、天王山の戦い、鳥羽伏見の戦い、甲斐鎮撫、流山で昌宣(勇)の捕縛後板橋で処刑。
残された義豊(歳三)が宇都宮、会津若松、箱館と転戦し戦死するまでの軌跡までを丹念に碑文として纏められている。
(土方戦死)
明治2年5月11日土方は箱館の一本木で腹部に銃弾を受け戦死した。
「両雄士伝」では土方は戦死後、五稜郭内に埋葬されたと書かれている。
「両雄士伝補遺」には土方の辞世の和歌 「タトイ身ハ、蝦夷ノ島根に朽チルトモ、魂ハ東ノ君ヤ、マモラン」と言う有名な句が記入されている。

         <「両雄士伝」から生まれた高幡不動にある「殉節両雄 碑」>

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◇)明治以降の剣術
天然理心流は賊軍とされた新選組の武術として、表向きは新政府が認めなかった。水面下で「撃剣」と称して精神や
肉体を鍛える体育的要素で多くの青年たちが学び続けられた。
こうした若者に隣村の野津田の自由民権運の思想家である石坂昌孝も参加し、小島鹿之助と交友関係が生まれる。
鹿之助は自由民権運を支石坂昌孝と義兄弟となる。当時、薩長土中心に作られた明治新政府の政策に理論という武器で挑んだ自由民権運に繋がる。
こうして戊辰役で静められたエネルギーは形を変えて、多摩地域で尚、燃えさかるのである。

「最後に」:天然理心流の門下から剣術を通じて、新選組隊士と深い関わりを持ち支えた小野路の名主小島家。
小島日記や新選組に関わる書簡が大量に残され、 :新選組史や同家に関わりを持つ隊士の生の姿を触れる ことが出来た。

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詳しくは此方hpにも載せています。是非ご覧ください

小野路の小島家と新選組

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