« 武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」その2 | トップページ | 「上野彰義隊」かく戦えり »

千駄ヶ谷徳川邸、篤姫の遺影の前で

大河ドラマで再び篤姫の姿が登場する。
薩摩から政略的に将軍の正室として迎えられ幕末から維新へ崩壊する幕府に、歴史の渦に巻き込まれてゆく。
将軍の正室として大奥で君臨した誉れ大きな姿が油絵として残され、今日に伝えている。
篤姫は千駄ヶ谷の徳川邸で息を引き取るが、篤姫亡き後も、絵を前に故人に纏わる行事が営まれたが、改めて影響の大きさを物語る。

そんな絵を描いたのが川村清雄であった。
海舟から徳川宗家の肖像画制作を斡旋されたが、その作品の一つが、篤姫像である。
1)エリートの家柄
嘉永5年(1852)江戸麹町て、御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男として生まれる。
川村家は、初期の御庭番の奉行職を務め御庭番家筋の中でも名門の一つであった。
御庭番とは竹箒を手に将軍の前で直接命を受け、諸大名の動静を探って報告する、将軍 専用の隠密役。庭の番人姿で、動静を探る、諜報機関とでも言える。
7歳の時絵師に入門し、南画家や花鳥画を学ぶ。
文久3年(1863年)英学留学のため開成所に通い、西洋画法を学ぶ。
御庭番家筋のエリートコースに乗れば、将来、約束される官僚の道を歩むことが出来たが、敢えて画家の道を選んだ。

2)渡米・渡欧で絵の才覚を磨く
明治元年(1868年)徳川家達の奥詰として使え(いわゆる将軍御学友)、翌年家達に従い静岡へ移住する。大久保 一翁、勝海舟らの斡旋により、明治4年(1871年)3月、徳川宗家給費生として清雄ほか5人で渡米し更にイタリア、パリに移り、歴史画、風景画など学ぶ。
本場の洋行に行き、才覚を磨かれ一流洋画家として育っていくが、その過程は決して順風満帆ではなかった。
帰国後、 絵を始めたが、フランス美術に染まる日本洋画壇にあって、清雄が収めたイタリア伝統の油彩画法は時流に容れられず、一 時、画壇に背を向けた。

そんな清雄に手を差し伸べたのが勝海舟であったのであった。
明治16年(1883年)勝海舟から徳川家代々の肖像画制作を依頼され、勝の援助により画室「心華書房」まで準備され絵に取り込む事が出来た。
印刷局を辞め生活に困った清雄に、海舟が徳川宗家に肖像画制作を斡旋し、清雄は月給30円を受けとり糊口(ここう(貧しい生活))をしの ぐことができた。

3)歴代将軍像、仕上がりの遅さに海舟も怒る
清雄の伯父は家茂近くに仕えており、この伯父から家茂のことを聞き取って描いたという。
しかし、束帯などの装束や有職故 実に間違いがあってはならず、一年後にようやく家茂像や海舟像など完成する。

    <特に、時間をかけて、何回も塗り上げたと言われる徳川慶喜公の束帯などの装束部分>

Kawamura202
しかし、余りの遅さに勝は怒り心頭で絵なんぞ見なくてもいいとまで言われたが、清雄のねばりで、何とか接見され、その出来ばえに最後は悦んくれた。
次いで海舟の勧めで千駄ヶ谷の徳川家に持って行くと、実成院も大変悦び、家令も「どうし てこんなに似ているのだろう」と驚いたという。

4)篤姫像の作成

篤姫は第13代将軍家定の正室として嫁ぐが、家定が亡くなり天璋院を名乗る。
天璋院が御台所として、江戸城で君臨していたころ、仕える侍女は御年寄7人を筆頭に御客会釈・御表使・御祐筆 御使番などなど、合せて170人程に及ぶと言われていた。
正に栄華をきわめていた世界の江戸城の大奥で幕府を支えていたが、大政奉還で 、江戸城を追われ、一気に慎ま しい世界に強いられる。
徳川宗家として、本拠となる邸を持たぬまま転々とするが千駄ヶ谷に宗家が明治10年頃完成し、天璋院や実成院(14代家茂の生母)ら家人らと一緒に移り住む。
家達は英国留学後、明治15年(1882)から千駄ヶ谷に住み始める。
天璋院は明治16年(1863)に千駄ヶ谷徳川旧邸で逝去し、遺影として作成し、彼女の一周忌にこの作品が完成する。

Kawamura401
着衣は、装束でもなく、和服ともつかず、不思議な服の姿を描いた。道服(どうふく)と言われ、公卿や大納言以上の人が家庭で内々に着た上衣で、袖が広く腰から下にひだがあり、着物の上に羽織る。

5)篤姫没後も、その壁画の前で故人を忍んだ
その壁画は「はつかさま」行事、として掲げられた。
千駄ヶ谷の徳川邸では天璋院の十一月二十日の命日は『はつかさま』と言われ、邸内にの巨大な壁画が掲げら れた。
当日は天璋院が好きだった、あんかけ豆腐、きがら茶の膳(茶めし)、甘い白いんげんの煮物で豪華にならず、篤姫の強い思いもあったのか庶民的なものであった。
『はつかさま』は毎月時、欠かさず続けられた行事で、第二次世界大戦前まで続いたと言われている。
徳川家達・妻泰子にとって天璋院が如何に大きな存在であったと想像できる。
御台所として、気品備えた天璋院の姿が亡き後も、身近なところにあったのだ。

5)晩年の作品
明治29年に東京美術学校に西洋画科が設置されるが、薩摩藩や佐賀藩出身であり幕臣出身の清雄は加わっていない。
反面、藩閥政治に反感をもつ旧幕臣たち、特に海軍関係者や斡旋から三井系をはじめとした実業界に熱心な川村ファン を多く作ることにもなった。

時代は大きく変わって、徳川邸は大正6年(1917)新築(現体育館側)された。
その間徳川将軍家は16代家達、17代家正、18代恒孝と継いでいく。家正は外交官として、英国、豪州シドニー、カナダ、トルコと海外生活が長かった。 
家正の長女豊子がカナダ滞在中に、筆まめの家達が以下の手紙を送っている。
「~外苑絵画館へ掲げるべき川村清雄油絵ほぼ完成、8月1日より本月5日迄、千駄ヶ谷邸へ参り、したため候、この程絵画館へ移し、同所にて仕上げ候。来月は全く完成候こと存じ候。~」
作品は徳川家の衆目の中、壁画を千駄ヶ谷の徳川邸で描き、絵画館で仕上げていることが判る。
同壁画は「振天府」と言われ、日清戦争の戦利品や搬入する幻想的な世界が描かれている。写実的な描写が多い作品の中、異色な存在である。
作品は昭和6年10月完成、清雄79歳、最晩年の壁画と言われ、#69で掲示され絵画館で見ることが出来る

|

« 武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」その2 | トップページ | 「上野彰義隊」かく戦えり »

09、四谷・千駄ヶ谷歴史散策」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/211410/73104059

この記事へのトラックバック一覧です: 千駄ヶ谷徳川邸、篤姫の遺影の前で:

« 武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」その2 | トップページ | 「上野彰義隊」かく戦えり »