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戊辰役東軍兵士眠る「円通寺」

◇円通寺

Syougi607お江戸日本橋と日光を結ばれる日光街道(国道4号線)は大事な物流ルートとして激しく車両が行き交い騒音の渦の中にある。
その日光街道沿いの南千住に高さ12メートルの銀色に輝く観音像が立っている姿がいやでも目につく場所が円通寺である。日光には、東照大権現と崇められた徳川家康の墓があり、歴代将軍や諸大名の社参の道として、役割を担っていた。
江戸無血開城上野戦争で敗れた旧幕軍兵士や、新たな制圧を目指し新政府軍がそれぞれこの街道筋をも利用し北上した。

宇都宮、今市、白河、更に会津へ転戦し、戦場は北方面へ向かった。

<黒門>

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戊辰役での東軍側の墓石、墓碑がここ円通寺に集約される。彰義隊の遺体を埋葬し、供養したご縁で、上野戦争の主戦場となった黒門が、明治40年に上野の山内より戊辰戦争の記念物として現在の南千住の円通寺に移築された。
蜂の巣のように無数に貫通した、生生しい弾痕跡。

上野戦闘配置図より、黒門が要となる戦闘拠点で激しい戦いがあったことが、この黒門が語り伝えている。
こんな分厚い材木も、えり抜かれるように貫通している、銃火器も、高性能化したものが使われる近代戦になっている。
この黒門前では銃弾の嵐に、ひとたまりもなく、貫かれ、生きて帰ることは殆ど不可能で、近代戦の恐ろしさを見るようであった。
黒門の間近に立ち、ドリルで空けられたように貫通した穴が、無数に広がり、標的とされた跡が不気味に迫ってくる。此処で果して何人、射抜かれたのであろうか・・・。

◇彰義隊戦士の墓

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上野の山に官軍の死体は片づけられているのに、彰義隊の死体ははごろごろ放りぱなしに捨ておかれた。

これを直視した神田の三河屋の骨董屋を営む幸三郎はたまりかね、三ノ輪の円通寺「大禪佛磨大和尚」と相談し、官軍側に荼毘の許可を得た。
幸三郎は若い集を動員し266の死体を集め、山王台の塵溜(ちりだめ)に入れ、荼毘にし、一 部は埋めた。焼いた骨は円通寺で持ち帰り、墓石をたてて手厚く葬った。
三河屋の幸三郎の自費で一切をやったという。下町江戸っ子の美談として讃えられている
戊辰役以降、新政府は賊軍の幕府軍には戦死者に対しても非情な扱いに、制約を加えられ、死体が放置され、明治2年になって死体の埋葬が許された 。
但し、墓標の文字まで制約が加えられ、墓標の文字が限定され、「戦士墓」の刻み込まれた三文字が、苦衷の証として此処の墓石に残されている。

◇死節之墓

Syougi703円通寺の彰義隊の戦士の他に「死節之墓」がある。
彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎はが向島の別荘に旧幕府軍の墓を秘そかに立て戦死者を供養した。
鳥羽、伏見から、会津、函館の戊辰戦争軌跡を辿りながら戊辰の始まりから終わりまでの関わりのある、旧幕府側の戦死者が明記されてある。
時の新政府から賊軍扱いとされ、おおぴらに供養出来なかったが彰義隊の供養許可を得た後に墓石を移築し、彰義隊と一緒に供養出来る様になった。
墓石には97名にも及ぶ、名前が書かれているが新選組の近藤勇、土方歳 三などがある。
この中に余り、取り上げる機会の少なく、幕府軍として最後まで戦った神木隊(しんぼくたい)の名前がある。
不忍池の弁天の中島で 弾丸を全身に受けながらも敵軍に立ち向かい山内の清水堂割腹
したり、凄惨極めた戦いで 上野の山では17名戦死したと言われている。

◇樹木の成育に墓碑も呑み込まれる
東軍、関係者の記念碑には境目なく樹木が植えられ、時の経過で大きく成長した樹木が
碑も呑み込んでいる。その異様な姿に敗者の姿を見るようであった。

墓碑建立時はこんな樹木の成長によもやこんな姿になることを誰も予想しなかったのであろう。

<トウカエデの勢いに吸い込まれる「相馬翁輔」>

Syougi705下総国結城(現茨城)藩の藩主、水野家は徳川家の武功から譜代であった。
慶応3年(1867)大政奉還で徳川政権は終焉したが、結城藩が佐幕か新政権か藩内で二分され大きく揺れた。15代藩主水野勝知は江戸で就封中に国 許では新政権に恭順した。
佐幕派の藩主水野勝知や彰義隊を加えて自らの居城を攻め、勝利を収める。
以後、合戦は新政府軍と旧幕府軍との戦いになり、新政府軍の勝利から勝寛を新藩主として擁立する。
一橋家家臣であった「相馬翁輔」は水野勝知側の片腕として彰義隊遊撃隊として、慶応4年(1868)3月から隊の指揮をとるが戦死する。
東軍記念墓碑として、建立したが 時代の経過にカエデの逞しい成長の前に「相馬翁輔」が埋まり、吸い込まれて いる。墓碑の下部の文字が完全に樹木の下に隠れている。

守り抜いた徳川の世界が周囲から押さえ込まれ、身動き取れなくなっている、時代を見るようである。

<抱えられる「荒井郁之助」の追弔碑>

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「荒井郁之助」は長崎の軍艦操練所頭取、海軍奉行となり、幕府艦隊を指揮した。
戊辰戦争では、榎本艦隊の司令官である軍艦頭として品川沖から宮古湾や函館五稜郭で新政府軍に抵抗、幕府 海軍の表看板でもあった。箱館湾海戦では軍艦回天丸で砲弾を蒙り、動けなくなるまで戦ったが幕軍敗れる。
戊辰戦争後は 他の幹部同様囚われ、2年半の獄中生活を送った。
荒井は戦った相手の新政府軍の黒田清隆から才気をに見いだされ新政府で重用された一人であった。
この追弔碑も、側面から頭部に掛けて背後から抱えられる用に押さえ込まれている。大勢の新政府軍に取り込まれ、抵抗虚しく箱館で身動きできなくなった軍艦回天丸の最後を見るようであった。

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彰義隊と靖国神社

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「上野彰義隊」かく戦えり

幕末期、長い間築いていた磐石な幕藩体勢が崩れ世の中大きく変わろうとしている。
武力倒幕を目指す薩摩藩・長州藩に対して倒幕の密勅を牽制するため15代将軍、 徳川慶喜は朝廷に大政を奉還し、ここに制度上の幕府は消滅した。
武力倒幕派はクーデターを起こし、「王政復活の大号令」を宣言した。
これに反発した、前将軍の慶喜は兵を集め、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争が始まった。

戊辰戦争で幕軍総崩れの敗報が持たされる中、慶喜は松平容保、松平定敬兄弟を随従させ大坂城の裏門から、さっさと開陽丸に乗り込んで江戸に向かった。

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江戸に戻った慶喜公は一カ月間の幕閣の議論を聴取した上で、謹慎を決意し慶応4年(1868)2月12日 寛永寺の大慈院(五代将軍綱吉公の別当院)の徳川慶喜公謹慎の間(現在の根本中堂に再現)に入った。

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将軍の位をかなぐり捨て、表舞台から退き、ひたすら身を隠し、時の過ぎ去るのを待った。

Kign5a02本人の意志から、江戸城の無血開城の4月11日 此処を発って、自分の生家である水戸へ向かった。

◇江戸市中大混乱
幕府が倒れ、その時の江戸市中は御家人(将軍直属の家来)崩れが市中の商家の目ぼしい所に押し込み、朝廷との戦いに軍資金をよこせと、抜刀し、強奪するなど行われ、市中は混乱した。
秩序・治安が失われる中、大名屋敷は引き払い、道具を売り払って立ち退くものも出てきた。
将軍慶喜が江戸を去った後は更に混乱がひどく、日夜問わず、近郊へ貨物運送が激しく、人夫が動員され、市街出火の如くと言われている

◇「彰義隊」が結成

Sennin301こうした江戸市中の混乱の姿をみた旗本御家人達に情けないと憤懣する人々が、立ち上げり、慶喜が気の毒と檄を、飛ばし「多年の報恩に報いるのはこの時と相談したいと、雑司ヶ谷のに集まったのがたったの17名であった。
しかし、これをきっかけに、呼びかけ場所を四谷鮫が橋、円応寺に変え、会合の度に人が増え、浅草本願寺を本拠地に頭取「渋沢誠一」副頭取「天野八郎」とする、「彰義隊」が結成される。
東本願寺の本山は京都にあり、浅草本願寺の拠点は朝廷に知られ、問題の火種にもなり、上野の寛永寺本拠を置くことになった。上野の寛永寺には宮門跡(せき)、門主は輪王寺宮であり、慶喜の謹慎先が上野であることから慶喜護衛を旗印にすることになった。
<隊内抗争>
主義主張が異なる渋沢・天野は隊の運営にことごとく衝突すると、二派に別れた。
渋沢派は一橋系の幕臣集団で慶喜の身を案じ、隊員勧誘もひたすら一橋系限定で徳川を支える集団であった。
一方の天野派は枠に拘らず、徳川家の社稷を全うしようとする考え方であった。
その間、勝海舟が江戸無血開城に向け、進めていた。江戸府内に抗戦そ叫ぶ、200~300と言わ各種団体が居たが、海舟か彼等を追い出し、解散させようとした。
こうした抗戦分子が、天野を慕って、彰義隊に流れ込んできた。結果的に天野が彰義隊を全体を掌握し、渋沢は少数となり、追い詰められ彰義隊から離れる。
<彰義隊の事実上の首領は天野になる>
Syougi402大井田忠吉は百姓の伜、上州甘楽群磐戸出身で富農大井田吉五郎の三男で、後に「天野八郎」に改名する。
取り巻く世の中に乱世の機運が、志をを抱かせ、 文久1~3年、蘭書を参考に水雷に有毒火薬を詰めた「水雷術」を考案する時の老 中に進呈し、目通り叶う。
剣道の修行はしないが、丈が大きく、太っていたが敏捷で、二間位の壕は飛び、眼光は鋭く、一人で「切返し」の稽古をしていた。
この男の凄さは正統剣術に交じわらず在野のあくの強さにあった。自己顕示欲が強く、 鋭敏、時流に便乗する縦横家(しょうおうか,(時勢の変化を洞察して政治,外交について巧みな弁舌をもって諸侯に説く))の才に恵まれていた。
旗本たちに憧憬の念を持って仰がれ、人気を博す。

◇戦闘の火蓋が開かれる
東征軍、彰義隊が対座したまま、双方決めてをかき、動かなかった。
こうした局面に長州陣大村益次郎が三条・岩倉具視らの支援を取り付け、西郷のもっていた指揮権を一時的に取り上げ、東下した。東征軍の指揮系統を含め実権は完全に長州側が握り、配下に薩摩がつくことになった。
江戸城の大下場(二重橋の外)に1万2千の兵が集結した。
上野、正面・黒門口は薩摩、因旛、肥後の三藩、搦手((からめて)とは城の裏門や敵陣の後ろ側)の根津、谷中は長州 、佐賀、久留米、佐土原、大村諸藩、他の諸藩は神田川を第二の絶対防御圏として非戦闘地域に拡大を防いだ。
決戦日を5月17日と喧伝し、前々日、彰義隊は暇乞いで山を降りた。その隙を突いて15日東征軍は戦闘は黒門口小倉 壮九郎の一番遊撃半隊と川路之進足軽隊で開戦となった
<アームストロング砲火で状況一変>
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六つ半(午前7時)黒門口に向かった一番遊撃隊に対する足軽隊の発砲によって開戦となる。
午前中の戦況は彰義隊有利に展開した。ところが午後になって山下、雁鍋に据えた東征軍のアームストロング砲が火を噴き威力を発揮することより、戦局は一変した。
もっともこれには裏があって、大村が事前に長州の一隊を会津支援隊と偽って、上野に入れ、彰義隊は砲撃を中止して出迎えた。砲声を合図に正体を表し、山内がパ ニックになったのが真相で、完全に大村の作戦に騙された。
これがきっかけで彰義隊が崩れ、根本中堂は火に包まれる夕刻、彰義隊はちりじりになって会津方面這走した。
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官軍は残っていた上野の山は寛永寺全部を焼き払ってしまう、継いで谷中方面は焼失、上野山下は兵火ですっかり焼ける市民の打撃は甚大、市中は静まりかえった

上野戦争の結果は長州陣大村益次郎の戦略によって、意のまま、新政府軍の勝利であっけなく終わってしまった。
上野の山に、容赦ない仕打ちに彰義隊の死体は放置され悲惨な姿を残して、勝者、敗者の姿を鮮明にした。

その処理について、江戸っ子が黙って見過ごすことはなかった。

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戊辰役東軍兵士眠る「円通寺」

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