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「上野彰義隊」かく戦えり

幕末期、長い間築いていた磐石な幕藩体勢が崩れ世の中大きく変わろうとしている。
武力倒幕を目指す薩摩藩・長州藩に対して倒幕の密勅を牽制するため15代将軍、 徳川慶喜は朝廷に大政を奉還し、ここに制度上の幕府は消滅した。
武力倒幕派はクーデターを起こし、「王政復活の大号令」を宣言した。
これに反発した、前将軍の慶喜は兵を集め、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争が始まった。

戊辰戦争で幕軍総崩れの敗報が持たされる中、慶喜は松平容保、松平定敬兄弟を随従させ大坂城の裏門から、さっさと開陽丸に乗り込んで江戸に向かった。

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江戸に戻った慶喜公は一カ月間の幕閣の議論を聴取した上で、謹慎を決意し慶応4年(1868)2月12日 寛永寺の大慈院(五代将軍綱吉公の別当院)の徳川慶喜公謹慎の間(現在の根本中堂に再現)に入った。

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将軍の位をかなぐり捨て、表舞台から退き、ひたすら身を隠し、時の過ぎ去るのを待った。

Kign5a02本人の意志から、江戸城の無血開城の4月11日 此処を発って、自分の生家である水戸へ向かった。

◇江戸市中大混乱
幕府が倒れ、その時の江戸市中は御家人(将軍直属の家来)崩れが市中の商家の目ぼしい所に押し込み、朝廷との戦いに軍資金をよこせと、抜刀し、強奪するなど行われ、市中は混乱した。
秩序・治安が失われる中、大名屋敷は引き払い、道具を売り払って立ち退くものも出てきた。
将軍慶喜が江戸を去った後は更に混乱がひどく、日夜問わず、近郊へ貨物運送が激しく、人夫が動員され、市街出火の如くと言われている

◇「彰義隊」が結成

Sennin301こうした江戸市中の混乱の姿をみた旗本御家人達に情けないと憤懣する人々が、立ち上げり、慶喜が気の毒と檄を、飛ばし「多年の報恩に報いるのはこの時と相談したいと、雑司ヶ谷のに集まったのがたったの17名であった。
しかし、これをきっかけに、呼びかけ場所を四谷鮫が橋、円応寺に変え、会合の度に人が増え、浅草本願寺を本拠地に頭取「渋沢誠一」副頭取「天野八郎」とする、「彰義隊」が結成される。
東本願寺の本山は京都にあり、浅草本願寺の拠点は朝廷に知られ、問題の火種にもなり、上野の寛永寺本拠を置くことになった。上野の寛永寺には宮門跡(せき)、門主は輪王寺宮であり、慶喜の謹慎先が上野であることから慶喜護衛を旗印にすることになった。
<隊内抗争>
主義主張が異なる渋沢・天野は隊の運営にことごとく衝突すると、二派に別れた。
渋沢派は一橋系の幕臣集団で慶喜の身を案じ、隊員勧誘もひたすら一橋系限定で徳川を支える集団であった。
一方の天野派は枠に拘らず、徳川家の社稷を全うしようとする考え方であった。
その間、勝海舟が江戸無血開城に向け、進めていた。江戸府内に抗戦そ叫ぶ、200~300と言わ各種団体が居たが、海舟か彼等を追い出し、解散させようとした。
こうした抗戦分子が、天野を慕って、彰義隊に流れ込んできた。結果的に天野が彰義隊を全体を掌握し、渋沢は少数となり、追い詰められ彰義隊から離れる。
<彰義隊の事実上の首領は天野になる>
Syougi402大井田忠吉は百姓の伜、上州甘楽群磐戸出身で富農大井田吉五郎の三男で、後に「天野八郎」に改名する。
取り巻く世の中に乱世の機運が、志をを抱かせ、 文久1~3年、蘭書を参考に水雷に有毒火薬を詰めた「水雷術」を考案する時の老 中に進呈し、目通り叶う。
剣道の修行はしないが、丈が大きく、太っていたが敏捷で、二間位の壕は飛び、眼光は鋭く、一人で「切返し」の稽古をしていた。
この男の凄さは正統剣術に交じわらず在野のあくの強さにあった。自己顕示欲が強く、 鋭敏、時流に便乗する縦横家(しょうおうか,(時勢の変化を洞察して政治,外交について巧みな弁舌をもって諸侯に説く))の才に恵まれていた。
旗本たちに憧憬の念を持って仰がれ、人気を博す。

◇戦闘の火蓋が開かれる
東征軍、彰義隊が対座したまま、双方決めてをかき、動かなかった。
こうした局面に長州陣大村益次郎が三条・岩倉具視らの支援を取り付け、西郷のもっていた指揮権を一時的に取り上げ、東下した。東征軍の指揮系統を含め実権は完全に長州側が握り、配下に薩摩がつくことになった。
江戸城の大下場(二重橋の外)に1万2千の兵が集結した。
上野、正面・黒門口は薩摩、因旛、肥後の三藩、搦手((からめて)とは城の裏門や敵陣の後ろ側)の根津、谷中は長州 、佐賀、久留米、佐土原、大村諸藩、他の諸藩は神田川を第二の絶対防御圏として非戦闘地域に拡大を防いだ。
決戦日を5月17日と喧伝し、前々日、彰義隊は暇乞いで山を降りた。その隙を突いて15日東征軍は戦闘は黒門口小倉 壮九郎の一番遊撃半隊と川路之進足軽隊で開戦となった
<アームストロング砲火で状況一変>
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六つ半(午前7時)黒門口に向かった一番遊撃隊に対する足軽隊の発砲によって開戦となる。
午前中の戦況は彰義隊有利に展開した。ところが午後になって山下、雁鍋に据えた東征軍のアームストロング砲が火を噴き威力を発揮することより、戦局は一変した。
もっともこれには裏があって、大村が事前に長州の一隊を会津支援隊と偽って、上野に入れ、彰義隊は砲撃を中止して出迎えた。砲声を合図に正体を表し、山内がパ ニックになったのが真相で、完全に大村の作戦に騙された。
これがきっかけで彰義隊が崩れ、根本中堂は火に包まれる夕刻、彰義隊はちりじりになって会津方面這走した。
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官軍は残っていた上野の山は寛永寺全部を焼き払ってしまう、継いで谷中方面は焼失、上野山下は兵火ですっかり焼ける市民の打撃は甚大、市中は静まりかえった

上野戦争の結果は長州陣大村益次郎の戦略によって、意のまま、新政府軍の勝利であっけなく終わってしまった。
上野の山に、容赦ない仕打ちに彰義隊の死体は放置され悲惨な姿を残して、勝者、敗者の姿を鮮明にした。

その処理について、江戸っ子が黙って見過ごすことはなかった。

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