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真田の強さ「六文銭」にあり

◇「司馬遼太郎」も絶賛する「真田昌幸」
上田城を造ったのは「真田昌幸」であるが、「昌幸」を時代を越えたヒーロとしていまだに地元に根強く慕われている
のは何故であろうか。
「司馬遼太郎」は上田に訪れ、「街道を行く」で「真田昌幸」を「司馬遼」流の独特の表現で以下のように絶賛している。
「昌幸」が近隣の家康嫌いで、その勢力を牽制して貰うこともあって上方の豊臣方と手を組んだ。秀吉の死後も忠実であったことは律儀者の信州人に好まれるところであろう。
                         「真田昌幸」

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                       「真田幸村」Ueda404
□徳川襲来から守った上田城
天正11年(1583)「真田幸村」の父「昌幸」が築城。当初から天守閣を持たない平城で現在は3つの隅櫓(すみやぐら)と石垣本丸堀が残っている。
城跡一帯はケヤキ並木が囲む公園となっており深い緑の中になっている。
<徳川軍の襲来を2度も破る>
①一回目、徳川軍を上田城に誘き寄せ、城内から撃退させる。
天正13年(1854)武田氏滅亡直後、「徳川家康」は「真田昌幸」に対し武田の旧領の沼田領の明け渡しを迫ったが「昌幸」は父祖伝来の土地として断った。
真田軍は上田城二の門際に誘き寄せ、矢玉を浴びせ城内から討って出て、徳川軍に大きな損害を与えた。
徳川軍は神川まで敗走したが、複雑な城下町にも伏兵や罠が仕掛けられ、徳川軍は混乱する。、増水した神川に流され多くの将兵が死亡した。
攻め寄せた7千の徳川勢に対して2千の真田勢は巧妙な戦術で徳川勢は思わぬ大敗となり、真田の死者40名余りに対して徳川方は1千数百名を出した。
②二回目、徳川秀忠の本陣を襲撃し、徳川軍を大混乱し敗退させる
慶長5年(1600)「徳川秀忠」率いる徳川本隊3万8千を中山道、それ以外を東海道に分けて西上し関が原の合戦に向かう途中再び、上田へ押し寄せた。
徳川の大軍を迎えうった真田勢は僅か2千5百ほどで昌幸は虚空蔵山(こくぞうさん)に伏兵を置いて「秀忠」本陣を急襲、上田城の城兵が討って出て徳川軍は大混乱に陥った。「秀忠」は上田城攻略を諦め抑えの将兵だけを残し て中山道を西上したが、木曽路の行軍に手間取り、関ヶ原合戦に遅参する憂き目に遭った。
この結果から、秀忠が家康から不信の念をもたれ合戦以降、江戸へ移った 秀忠は監視される。

地方の小城で石垣も少なく一見したところ要塞兼備な城とも見えないが、実際は周囲の河川や城下町を含めた全 体が極めて秀れた構造になっていた。
圧倒的数の多い徳川軍を2度も追い払った戦国の名城である。
<南櫓>

Ueda402◇真田軍の強さの秘訣は

①知能的に優れていた「真田昌幸」の采配
「昌幸」の場合は知能的に最も優れているといっていい。かれは義経や正成と同様、政略や調略を用いて敵を腐 敗させたり、利を与えて敵の有力者を寝返らせたりするような手を用いず、徹底的に軍事的でその巧緻さは それを芸術的に楽しんでいるのではないかと思わせるほどであった。
このあたりも、代表的信州人という印象を後世にまであたえる由縁である。
②真田軍を支えた『真田の六連銭』

Image1111)◇六文銭とは
六文銭(六連銭、六文連銭)は家紋の名称でもともと仏教の世界で言う六道銭のことである。
六道銭は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に収めるものである。
真田の戦ではこうした仏教の考えを旗印に死をも厭わず、真田の精神力の強さはこの六文銭にかけたことが伝わって くる。
◇六道銭・・・広辞苑から
死人を葬るとき、棺に入れる六文の銭。俗に「三途の川の渡し銭」だと言うが、金属の呪力で悪霊の近づくのを避け ようとしたのが起源と言われている。

2)仏教に関わる、『三途の川の意味』

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三途の川は仏教において死者が死後7日目に渡るとされている川である。三途の元々の意味は悪行をかさねた者が行く、地獄道・畜生道・餓鬼道の3つの世界のことであったが、三途の意味が変形し、三途の川での3つと言う数字は世界の数でなく、通り道になっている。
三途の川を渡る方法は3つあり、生前の生き方によって、善人は橋、軽い罪人は浅瀬、重い罪人は流れの早い深みを渡ることになっている。
『死後、渡らなければならない三途の川』
さて衆生の生前の生き方はどうであったかのであろうか?、生前の悪事は死後も付いて廻り、三途の川に誘導される。

3)<六道の意味>
六道銭の六道とは仏教において命あるものは迷いの世界で現世とあの世の境界を繰り返すことを"輪廻転生"と言わ れている。
その輪廻する迷いの世界が仏教において地獄(道)・餓鬼(道)・畜生(道)・修羅(道)・人間(道)・天(道)の6つ世界(道)のことを言う。
六道」に輪廻し苦しむ衆生(生きている全て)を自ら赴き救済して下さる仏さまとして、六観音や六地蔵がある。
特に衆生の地獄からの救済を地蔵菩薩が導いてくれる。、地蔵の持つお徳仏門の教えを説いている

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修羅場を潜ったとか、地獄を見た何て言葉は此処から生れている。 この六道に苦しみを救ってくれる仏様が寺や街角で見かける「六地蔵」である。
整然と並んだ六地蔵さん。台座に書かれた名称がそれぞれ六道の役割を持っている。

4)真田の六連銭
死後の最初の行き先であろう六道に銭を持たせれば清く成仏できるだろうと、「六道銭」ができたようである。
信濃の名族滋野氏の流れの海野氏から生れ、その支流の真田氏が戦国武将で使われ"真田の六連銭"で有名となった。
三途の川は地獄道・畜生道・餓鬼道を表す様で、六道銭を持たせれば安心なのであろう。
「真田昌幸」は「武田信玄」に属し「信玄」の卓越した陣法と民政を身に付けた一人であったといわれている。
信玄の子勝頼が「織田信長」によって滅ぼされ、その「信長」本能寺で非業に死ぬと、武田の信州旧領は無主の国、東海の徳川家康と小田原の北条がそれぞれ草刈り場のように兵を入れた。
こんな背景の中にあったとき、「昌幸」が千曲川流域に独立国を作ろうとした。
「六文銭」「六連銭」の旗印が有効になったのはこの時からと言われている。

5)真田赤備え兜

Ueda503二度に亘り徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に響き大阪夏の陣において武具を赤で統一し「真田 赤備え」部隊を率いた真田幸村が被った朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」である。
幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称された。自ら信じる道を民ととも に歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしている。
・・・「真田神社奉賛会」

上田城他、詳細はこちらでも書いています。ご覧ください

上田城

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