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『川辺堀之内城館

日野市内の台地の一角が森で覆われ、その部分がなんと城館であったと言われる、その痕跡が残されいると言う報告がされている。
市内でも里の風情を残す「川辺堀之内」であるが、折しも輸送ルートの一つとして国道日野バイパス道路誕生を控え 周辺に建設造機が入り、道路建設に自然の風情を含め大きく変わりつつある。
そんな環境変化を前に、僅かに残される、姿を捉え、一方ではここで残される歴史ロマンを求め、その痕跡を追って みた。

<川辺堀之内の城館の縄張り図>
南北に迫り出す台地の南端の海抜が83.8mある。台地の縁の部分で、南・東・西の三方向は細い線の表記で囲むに描かれているが、この部分が崖になっている。
台地から崖下の部分は東側は海抜80mある。崖下西側の耕作地帯が海抜74.2~74.8mとなっている。
従って10mの僅かな高低差の台地になっている。
高台の台地に欠落があるが、崖で囲まれ、一応城の形態になっている。

Tyuseihino01◇東側から台地の頂上を目指す
地図にある城館の東端部の全景である。バイパス道路のコンクリート壁が此処まで迫り、壁の上が小道で緩やかな勾配で台地の頂部に繋がっている。この道を登って台地の頂部を目指す。

『神の坂』

Tyuseihino202_2竹藪に僅かな空間に人が通れる位の道が整備されている。台地の頂部は宅地と併せ道が生まれているが、かっては台地に繋がる唯一の道であったようである。
この道は『神の坂』と言われ、お盆に先祖の霊が迷走しないよう、道で藁を燃やし、迎え火、送り火行った。かっての生活道路も、利用頻度が限られ生い茂る自然の中に埋没しそうである。
道の右手に絵馬始め江戸時代の貴重な歴史遺産が収蔵されている、お稲荷さんがある。収蔵品は市の歴史担当が一時、持ち返り、歴史視点から、のメスが入り、色々の歴史事実が明らかにされているようである。
藪を進むとお茶の植え込みが、途中で寸断され、往時の待機場の痕跡がある。
大八車などの待機所で、昭和30年代まで使っていた。待機所は上下2ヶ所あり、下の待機所に樹齢300年余に及びさるすべりの木が植えてあり、この道が当時からあったことが推測出来る。その切り株はお稲荷さんの所にある、

<墓石群>

Tyuseihino206
竹藪を進むと、台地の頂部に出て、増田家の墓石が並んでいる。

  幕末期、多摩地域では広い土地を背景に比較的豊かな豪農層を中心に『天然理心流』の剣術の流行った。
その格となる日野宿名主、佐藤彦五郎が道場を持ち剣術師範となっているが、川辺堀之内からも門弟が居る。
文久久3年(1863)神紋帳に門人の一人として、『増田紋之助』や同じく川辺堀之内から岸野新治郎、 伊藤百平、治郎など名前が神紋帳に名前が入っており、往時から川辺堀之内を代表する名家でもあったのである。

<台地からの展望>

Tyuseihino205慕域の広場は台地の東端に位置する。頂部から南側を俯瞰する。
直下の水田から、その先がこんもりした森の中に延命寺が見える。その先が浅川を越え、緩やかな斜面が多摩丘陵である。
その左手の森が高幡不動である。それほど高くはないが台地からこの開けた展望が要害の最適地と充分想像出来る。この眺望こそがこの城の生命線であった。

◇台地上部の様子
縄張りとは、城全体の平面プランである。川辺堀之内は城館の平坦な台地続きで北側の台地に空豪と土塁を設け南北約100m、東西約80mの城館である。
ゴルフ練習場側の北方の台地続きは地形が完全に開いているため、防禦の困難なこの方面に曲輪(くるわ)など設ける可能性は少ない

<歴史ロマンが眠る、竹林>

Tyuseihino307城館側は一面、竹林で覆われている。旺盛な繁殖力から、地面を掘りおこす「根切り溝」などの手入れが行き届かなく、 竹林は根を張り、この半世紀でも二倍以上の広さに拡大した。
未だ手の付けられない竹林から土器、石器、分銅、嘉永通宝、梅小鉢、醤油の壺、といった、歴史的な遺産が出土さ れているため、この辺り一帯は人が住んでいた証でもある。
この鬱蒼とした竹林が開発の手を阻んでいる一方、城館に繋る歴史ロマンが眠っているのである。

<城館の西側から見た全体像>
Tyuseihino401
城館の台地を西側の水田地帯から捉えて観る。北側のネットがゴルフ練習場に変わっているが、こんもりとした森が続き城館の北端がこのような形になっている。
水路は水田の活用共併せ、急な壁面は防御的な役割を持たせている。

◇台地頂部に土塁
台地の頂部のフラットな部分に、樹木が取り払われ、ポッカリ開いた急坂が見える、下に降りてみる

Tyuseihino406
断面がV字形になった堀である。途中で狭くなっており、曲がりくねり勾配も一番急になっている。狭い空間に急な坂で登坂側は身 動きが取れなくなり、 投石や槍などの上側からの攻撃に対して、登坂側は無防備である。地面・壁面のむき出し自然のまま、此処が一番城跡と思われる。

◇城館の南端側を見る

Tyuseihino501外壁の最下層は水路が走り、前述の西側から外周部を囲むように形成される。その水路を沿う用に小道が走る。
水路は途中でゲートがあり水田との導引の役割を持たしている。用水の壁面は石が積まれ垂直の建箇な堀りが形成される。更にその上が盛り土で固められ 急角度の斜面になっている。用水堀り側からの登坂は困難で防御的な役割がより鮮明に伝わってくる

<果たしてこの城は>
さて、城館の台地を上から、横から見て廻った。案内板もなく、不確かな情景だけで、それが何に結びつくの正に暗中模索であった。
本件に関し、1994年日野市教育委員会で発表された論文『縄張りから見た日野市域の中世城館』を参考に以下 、整理してみた。
◇この城館の性格
地形が険しく、敵を防ぎ、味方を守る土地柄を効率よく活かし、良くまとまった縄張りであるが所詮は最低限の労力で構築した小規模の城館である。
数十人規模の攻撃に対しては有効な防戦が可能であるが、大規模な包囲攻撃には一溜まりもなく、呑み込まれて しまうであろう。大軍が長期間に渡って籠城を続けられる要塞ではない
◇城館の利用は

Tyuseihino103_2天文 7年( 1538 )『後北条氏』と『山内 上杉氏』と関東官僚が二人存在し 、関東の支配権を主張する両者の覇権争いは激しくなる。
その後、支配合戦が続き、戦国 時代となるが、 相模から多摩川・浅川以南の多摩丘陵を制圧しつつある後北条に対抗して、扇谷・山内上杉氏側が構築した可能 性が高い。
戦国大名などの大勢力が戦時目的で築いた砦(前線基地の監視所として高幡城、平山の監視と推測される。.

一先ずこんな所が『川辺堀之内城館』であったことで話を納める。

覚悟はしていたが、藪の中、蚊の温床地帯で あった。城館に格好のかもが、やってきたと思い切り襲撃され、目茶苦茶に刺された。不審者の侵入に毒を持って征する、時代を越えて城を守っているようであった。

詳細はこちらHP にも載せています、どうぞご覧ください

川辺堀之内城館跡

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