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佐藤彦五郎逃亡先五日市、『羽生家』を訪ねる

慶応4年(1868年)3月、鳥羽伏見の戦いに破れ甲陽鎮撫隊に名を変えた新選組が甲府城を目指した。
この勝沼戦争に日野宿問屋佐藤彦五郎は近藤に協力しようと、日野宿の農兵で組織し、甲陽鎮撫隊の後を追った。

       <新選組祭り、先頭に武装姿の彦五郎役>

Toubou01<日野宿農兵隊が使用した旗>

Yasutugu104しかし甲陽鎮撫隊は甲府城先取に失敗し、板垣退助率いる東征軍と勝沼で戦い破れた。
逃げ戻った彦五郎は「朝敵」とされ東征軍に追われ、親戚や知人を頼って身を隠した。
その約一月後、流山に転陣した近藤は東征軍に降伏し、板橋刑場で斬首された。
そんな背景もあって東征軍の厳しい探索は戦慄が日野宿を走った。 身に迫ってくる、厳しい追求の中に彦五郎始め家族全員がそれぞれ逃げまくった。
彦五郎(42歳) 妻のぶ(38歳) 二女とも(5歳)を下女あさ(18歳)に背負わせ日野宿から西へ下った。
東光寺道より粟の須、多摩川周辺から五日市街道を西下二宮村茂平宅に辿り着く。
途中粟の須で官軍の追求もあったが何とかかわし、逃れた。茂平氏の案内で五日市在大久野村なる、羽生家にすでに夜半の1時頃で着いた。
<果てし無く続く塀の広大な敷地の羽生家>
Image111同家主人始め皆起き出て、茂平氏より委細を聞きかつ同情せられ、奥座敷に招かれて食事万端手厚き待遇を受け、全く安心して床に着いた。
もう此処まで来れば、追っ手は此処まで及ぶことはないだろう、緊張感を解かれ安堵感と長旅の疲れで、深い眠りにつき、一先ず長い長い追送劇の一日はようやく終わった。
彦五郎一同は此処で匿われ、暫く長逗留し、懇切なる待遇を受け、その間茂平氏 からの日野宿はじめ官軍の動向を伺った。
◇助命嘆願の工作
彦五郎は傘を冠りござをまとい、脚絆草鞋のの商人体で潜伏した居た大久野村からただ一人、様子を探りに出た。
粟の須の井上家で捕縛された息子の源之助が釈放され、騒動以来、初めて親子対面、一座嗚咽の声に満ちた。
明方近く彦五郎は出立。砂川街道を廻って江戸に入り、忍びしのんで、向島に潜んでいる近藤、土方を訪ねて、 一族赦免の件を相談した。
近藤は大久保一翁に、土 方は海舟勝安房守に、密使を立て懇々書き送るところあって、朝廷寛典(かんてん)の御処置を希願した。
数旬の後、日野佐藤彦五郎一家差構(さしかまい)なしと、大本営詰め西郷候より達しがあり、漸く離散潜伏していた家族一同が、帰宅することが出来た。
こうした、近藤、土方らの働きかけとは別に地元日野宿から帰村嘆願が官軍に提出され嘆願叶い、彦五郎は帰宅が出来た。

◇そんな羽生家を訪ねて見た。
羽生家は天正2年(1574)後北条家に出した文書に、この地に武士団『大久野七騎』の一つとして羽生が挙げられる。
小田原城主北条早雲から五代目『氏直』に仕え、檜原城落城後、天正17年(1589)、前後に当地へ土着したと言われ ている。
、小田原北条の武士であったが、兄弟で当地に移り、武士から離れ農林業に転じる。兄弟がそれぞれ後を継ぎ、、現在は上羽生、中羽生、下羽生含め7家が羽生一族を形成している。年一度、中羽生家に集まり、山に登って住職が、お経を上げた後、、先祖様の感謝の念をこめて、宴がもたれる。

五日市街道の幸神、(地図上では大久野中学校)から分岐した道が『羽生通り』と言われ、この道沿いに誉れ高い名家 『羽生家』の一族が住まわれている屋敷がある。
この『羽生通り』の先がこんもりした森に繋がるが、羽生家がある

◇羽生家
(敷地と建物)
1)広大な敷地
敷地面積は大凡25、000坪と言われ、羽生通り沿いに、羽生家の屋敷の一角に到達する。数少ない巨大な3階建ての倉が、更にその脇に巨大な薬居門が、でんと構え、地域の歴史を今日に伝えるシンボル的な役割を担っている。
周りに建物がなく、板塀越しの倉、切妻屋根の風格を備えた門を前に重厚な格式と歴史にタイムスリップ出来る。
その倉に沿える様にある巨木は昭和18年頃植えられ、小字落合の雑山にあった4~5尺の欅で、幹周320cm、推定 高さは31mと言われ、日の出町の名木の一つと言われている。

Toubou404

①番小屋付き通用門)
広大な敷地は黒い板塀が敷かれ、南都方向には石垣など築かれている。奥が番小屋付きの『通用門』で通常の敷地の出入り口利用される。出番所が付いており、立派な詰め所を供え門番を配置する かなり身分の高い武士の屋敷であったことが、理解出来る。

Toubou501

② 薬居門

Toubou504明治15年製の薬居門は随所に装飾金具を付け、重厚な構えは表門として格式を備えている。
門は木目が揃い吟味された材料を使い、高さ5~6mの壮大な構造の門である。構造的に少し重心が後ろの方に行くように、塀の奥側に屋根の中心になるような構造になっている。
屋敷の出入りは通用門で薬居門は何時も閉まっており、冠婚葬祭や年に何回かの祭りの時の限定利用に、門の重さ、風格を感じられる

*薬居門:本柱の後方に控柱2本を建て、切妻屋根をかけた門

③ 中庭
表門を潜って、正面の主屋に結ばれる花道は石畳が敷かれ両側は庭石と植木が植えられ風情を備えた日本庭園風に綺麗に整備されている。
主屋の前は性格の異なる2つの庭園が板塀によって仕切られ、手の込んだ庭作りに、持ち主の思い入れに格別のも のを感じられる

④ 主屋

Toubou502主屋は、数年がかりで建築し、明治24年(1891)に完成した。当初の平面構成は東西2列、8間(14.5m)に並んでいる。
表門は南側に格式を重んじた入母屋造りの屋根に式台付きの玄関口で出迎えられ、繋がる部屋には欄間や床の間 棚、付書院が設けられ、高い格式が備えられている。
床に置かれている書は『砂川源五右衛門』の作品である。砂川は神道無念流の免許皆伝の剣術を供え、幕末時砂川村の名主を勤める。維新以降では、『三条実美』とも関係を持ち、三多摩誕生時、北多摩の郡長になっている。
春夏秋冬の絵は大政奉還図を描いた立川に住んでいた『邨田丹陵(むらたたんりょう)』の一級品の作品が飾られてある。
等々、羽生家にある書・絵からも、当時の高位な人脈にも繋がっている。

⑤)6棟の土蔵
敷地内は6棟の土蔵があり、白漆喰で比較的小振りな穀蔵と味噌蔵の3棟は江戸後期に建築され、大火事で屋根が焼け落ち修復したと言われている。
残りの3棟は火事の後、明治中期に建築されたものと言われている。これ程多くの蔵が建てられた のも『大久野焼け』の甚大な被害の反省から地域共通の傾向と言われている

◇お宝発見
昭和63年(1988)頃、同家の土蔵から、近藤勇の手紙が発見された。佐藤彦五郎が同家に匿われた時に近藤の書簡を預かっていた彦五郎が置いていったと言われている。
彦五郎来所以来であれば土蔵の中に約120年眠っていた『三浦休太郎宛近藤勇書簡』が白日の元に晒された

Toubou602慶応3年(1867)11月18日付けの近藤勇から『三浦休太郎』宛であるが、未提出のままである。
紀州藩士の三浦休太郎は坂本龍馬暗殺の疑いを持たれ海援隊から命を狙われていた。そのため三浦は会津播を通じて新選組に身辺警備依頼していた。
この手紙では三浦の元に潜伏していた「二郎」という者を必要とする事件が出来たので無断で引き取ったことをわ びている。
手紙が書かれた翌12月には三浦が旅宿していた京の天満屋を海援隊が襲撃、新選組と斬り合いになった。三浦は軽症であったが、近藤勇の従弟で新選組の宮川新吉が戦死している。
油小路事件の当日に書かれた。その直前に『斉藤一』が御陵衛士 から脱走して新選組へ戻るが、その間 三浦休 太郎の元で斉藤一を使っていたが、近藤勇が戻した詫び状でここにある「二郎」は 斉藤一である。
近藤と御陵衛士 との約束で一端御陵衛士 に行った者は戻さないと言う約束であったので、斉藤一では帰れず「山口二郎」と言う名前を使っている

御陵衛士が新選組から離脱する渦中の生生しい話である。三浦休太郎への近藤勇のわびの手紙が此処五日市 大久野村、羽生家眠っていたのであった。
そんな記録を直に接する機会を頂き、身の引き締まる思いで拝見することが出来た。

詳細はこちらHP にも載せています、どうぞご覧ください

彦五郎逃亡記 

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