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「明治天皇行幸」の影に政府内の激しい抗争の嵐

       <甲州猿橋での明治天皇行幸姿>Image51

<明治6年、洋風に断髪された若き明治天皇>Img144明治13年6月16日、明治天皇が甲州路から木曽路を京都へ御巡行され、激しい雨の中、馬車で日野佐藤邸へ到着した。雨は激しさを増し、道路上に砂礫を撒くのみで、馬車は泥に車輪を取られ、難渋したと言われている。
明治天皇を乗せた重厚な儀装車を中心に前後を固めた小旗の日章旗を掲げて儀仗兵達
の物々しい制服姿の一団は街道筋の人々を驚かす、重厚で壮大なシーンであったと想像する。
随行者は300~400人と言われ、二品貞愛親王、太政大臣三条実美(長州系公家)、参議伊藤博文、同寺島宗則、他内務郷、文部郷、宮内郷、陸軍中条、などなど国の中枢を担う要人が多数含まれた。
日野宿では宿の指導者たちが、羽織・袴に威厳を正し明治天皇の巡行を迎えた。
元々幕府の天領地の日野に幕府が倒れ明治維新後、明治天皇と言うVIPを日野でお迎えすることになった。

◇何故、このような大々的な行列が必要であったか

<明治6年の政変で勝ち辣腕を振るった『大久保』>

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明治10年代は地租改正反対一揆や自由民権など高まり、力のみでは抑えきれないものがあった。時の明治政府は明治国家として人々の心を集め捉える必要があった。
そんな背景の中の明治天皇巡幸は「貴種崇拝」と言われ日本人の皇室など高貴な人を尊敬し,あがめることを、国民に植えつけ、皇室を通じて人心を捉えた。
恐らく岩倉具視・大久保利光の路線から明治10年代に大々的に行幸が行われた。
日本の近代化を目指し、政府内部の激しい路線闘争が生まれ大久保利光が勝利し、西郷派を放遂し、近代化路線へ一気に舵を切る。
明治維新の意志を込めて、明治天皇、以下三条実美、伊藤博文以下壮大な随行者、荘厳
晴れやかな行幸のパレードの蔭に時の要人が直前に次々と消えていった。
激しい抗争の中、国の中枢を担う、大久保は士族に襲撃され、西郷は西南戦争で散り、江藤は佐賀の乱で斬罪梟首で悲憤の最後で亡くなる。其の他の参議も第一線から消え去ってしまう。


近代化路線の意志を継いだ節目の行幸前に揺れ動いた激しい抗争と事件を追ってみる

◇明治6年の政変
<明治6年派遣延期を決めた会議、左から、大久保利通、光岩倉具視、三条実美>

Img1431
明治維新が行われ、日本か国家造りにかかるおり、世界帝国主義がアジアを呑み込もうとする時勢に「強兵富国」の近代路線に迫られた。
<多くの人々に見送られ、停泊中のアメリカ号へ、向かう使節団一行を載せた小舟。主役3人の姿が見える>
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明治4年~6年岩倉具視・大久保利光・木戸隆則・伊藤博文一行の米欧視察からの国際感覚を背景に西欧化することで「富強への道」を実現することであった。
一方、米欧視察団の留守居役 『西郷隆盛』 『江藤新兵』は四民平等・農民耕作権・鉄道・電信・太陽暦着々と改革を押し進める

留守中に『朝鮮問題勃発』し『西郷』は非武装で談判することになったが、天皇の裁量から岩倉の決断待となった。
視察団帰国後『三条』・『岩倉』から『大久保』へ参議起用を依頼する。

使節団は肝心の日米通商条約の改定が出来ず、『使節団派遣』は実質的に失敗、帰国後『大久保』は政界への復帰は責任から辞退する。
政治の混乱もあって『三条』・『岩倉』は『大久保』参議説得に集中し、『西郷』の派遣が店晒しに、結論は二転三転する。
『三条』・『岩倉』の『大久保』への懇願は続き、『大久保』は根負けし、参議をき受ける。しかし、『西郷』の派遣見合せを条件に引き受けたが、『三条』・『岩倉』周りの意見に動かされ『西郷』派遣すると裁定してしまった。
この約束違いの決定に『大久保』は怒り狂い再び辞意を表明し、衝撃を受けた『岩倉』も辞意し『三条』は苦悩の余り人事不省に陥り執務不能になる。

この間、政治の空白に『伊藤博文』の『大久保』への非常手段の提案で、「天皇の誘導を図る」献策が通ってしまい最終的に『西郷の朝鮮派遣不裁可』となる。
この裏取引、不明朗さの決定に『西郷』は抗議し辞表を提出する。
『岩倉』・『大久保』ラインと対立した『板垣』『後藤』『江藤』『副島』4参議も辞表を提出した。
この政変から生まれた対立の構図が、以降の活動に鮮明となる。

◇『佐賀の乱』
<佐賀の乱首謀者として、元参議『江藤』も斬罪梟首>

Img145明治政府は四民平等を目指し士族特権解消を強力に押し進めた。
渦巻く士族の不満から参議『江藤新兵』を擁して大規模な武力反乱が始まる。

明治7年『江藤』・『副島』は『板垣』と共に自由民権運動を始める。
『岩倉』は征韓論者の『武市熊吉』高知士族らに赤坂喰違坂で襲撃されるが暗殺未遂に終わったが 西郷の朝鮮派遣問題は尾をひく。
政府当事者は神経過敏になり『江藤』の帰郷に異常反応する
佐賀県士族は下野した『江藤』を頭に『憂国党』は佐賀県庁に入る。

内部郷の『大久保』は軍事・刑罰で現地へ、総計1万の政府陸海軍が出動し、鎮圧する。
『大久保』の強権は留まることなく、かっては政権の中枢を担う参議の一人であった『江藤』をも容赦なく斬罪梟首する。

◇『大久保』軍隊動員など強固な専制国家
<自由民権運動に走った元参議『副島』>

Img146明治8年『大久保』専制政治に流れ、 殖産興業の一方『警察政治』をしき、専制国家建設に狂奔した『自由民権運動』を抑圧した。
軍隊による鎮圧などの挑発で『大久保』政権の基盤強化する。
『廃刀令』を機に熊本で『神風連』の反乱、更に『秋月の乱』『萩の乱』に引火し、牙城の薩摩退治にかかる。

◇西南戦争
<死後、キヨソーネが描いた西郷像>
Img147
下野し帰郷した『西郷』は山野で狩り、田畑を耕す隠居生活を送っていた。
争点であった、自身の朝鮮派遣に一度決まったことが、寝業、裏技で覆されてしまう不信の義はとても耐えられず、政治の世界から身を引いたと思われる。
西郷を追って、軍人官吏や郷党の若者は反政府運動に燃え、西郷の消えかかった火を付けてしまった。
予期以上に燃え広がるエネルギーに鎮静化のため『私学校』が作られた。
一方では『大久保』の腹心『川路利良』警視長官は鹿児島出身警官120名余を帰郷させ『私学党』の離間工作やスパイ活動に従事させた。
政府は輸送船を送り、鹿児島の火薬庫の弾薬を運び出そうと画策したが、私学校の生徒は火薬庫を襲い弾薬を奪い取った
私学校党は1万3千の薩軍、熊本で7千の他県の士族を加え大隊編成の行軍体系で『西郷』の御輿を担ぎ出発した。
『西郷』出立の報に政府も呼応し『鹿児島県暴徒征討』の詔(しょう)を発する。
『谷千城』の3千の兵を率いるの熊本城攻防戦、『田原坂』で約半月死闘を繰り広げる熊本県南部の『人吉』、更に宮崎、延岡、鹿児島に転戦する。
明治10年、9月24日、城山にこもる370人を四方の政府軍が包囲して、総攻撃が始まり、『西郷』は敵弾を受け、亡くなり『西南戦争』は終わった。

その1年後、明治11年5月、『大久保』は紀尾井坂の変(現千代田区紀尾井町清水谷)で石川県士族・島田一良6人の襲撃にあい、斬殺される。
こうして激しい抗争を踏まえ、人心が納まらぬ中、明治13年 明治天皇の京都行幸が粛々とおこなわれているのである。

NHK大河ドラマ『西郷どん』もいよいよ大詰め、明治維新を迎えて間もなく、新政府が歩む過程で、眠っていたマグマが目を覚まし、次々と事件と激しい戦い  が生まれていった。その姿をこちらでも追ってみました。

明治維新推進過程の抗争

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