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甲陽鎮撫隊の地、勝沼にゆく

新選組をこよなく愛する会から依頼もあって、久しぶりの勝沼行きであった。
変転する予報に気をもみ、当初は雨であったが、見事に外れ幸い好天気であった。
紅葉の時期ともあって、登山姿に身を固めた客が、大勢いる中、JR中央本線で始発の高尾から乗車する。
ボックス席の一角を占め、これから向かう、勝沼へ、甲陽鎮撫隊の話など蘊蓄を語り合い、早くも、幕末一色にスイッチが入る。
大月当たりで、進行右手に見下ろす位置に甲州街道が並走し、走馬灯の様に移り変わる街並みに、『ほらほら、あれが下花咲本陣だよと』特徴ある姿に、果たして何人が捉えることが出来たのであろうか?、
電車は山間部の中へ、進み、笹子トンネルを抜け、甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる武田信玄の地域入り、あっと言う間に勝沼ブドウ卿駅に到着する。
<勝沼ブドウ卿駅>

Img_11601_3
駅沿いの専用軌道沿いに、東京方面に向かうと、観光の拠点、鉄ちゃんの拠点でもある大日陰トンネルの鉄道遺構があるが、地震の影響で2年程前から閉鎖されていた。
数年前に、ワクワクしながらトンネル潜るりの実体験をしたが、このトンネルの先が官軍が柏尾に襲いかかったルートで一度踏破したかったが、その機会を絶たれてしまった。
膠着状態の勝沼の決戦で土州藩の一隊は菱山(現勝沼ブドウ郷駅)を迂回し深澤部落から柏尾の陣にある敵の背後を衝かせ、幕府側一気に崩れたルートである。
勝沼ブドウ卿駅は高台に位置し、甲府から甲州街道を東下する、板垣退助、 谷千城率いる以下総員、1200名の東山道軍を見通せる位置にあるが、残念ながら、紹介する機会もなく控えるタクシーに慌ただしく乗車し、古戦場に向かった。

1)幕軍の陣を張った付近。

<甲州街道、現深澤川入口付近>Tinbutai201_3

崖が幕軍が陣を張った日向平であり、現在の甲州街道深澤入口で甲陽鎮撫隊は此処で陣を張る
<幕軍の陣地>
当時、江戸へ向かう唯一のルートが甲州道であり、幕軍の陣は交通の要所を抑えることで有効であった。
先端部分が出っ張り、Y字路で陣を構え正面からの敵に向き合えるが、側面からの攻撃には弱かった。山頂に陣を構えれば、下からの登坂者に対して上から制圧出来る位置にある。
そんな地形的な背景にありながら、三方から挟撃され、僅か2時間余りで甲陽鎮撫隊が破れ、敗退する。
肝心の戦闘場所は、明治13年、 明治天皇行幸で馬車が通るため、明治9年頃から改修工事が始まり当時の戦場跡が、道を下げる掘削工事で消えてしまった。
橋のたもとが明治天皇に示すために天上錘として碑がたてられ、戊辰の役のおり官軍が進軍し此処で、東国の最初に開いた戦いの場所と説明している。以来、古戦場と言う名前で伝えられた。
折しも大河ドラマ「西郷どん」で日本の近代化路線を走る、岩倉具視、大久保利光に抵抗した西郷は明治10年に戦死、翌年岩倉も紀尾井坂で襲撃される。大久保の意志は岩倉や伊藤博文に継がれ、明治維新の方針の国民膨示に地方巡幸を実施する。
大々的な従者を引き連れ、命運をかけた馬車道まで作ってしまった明治天皇行幸であったのである。目の前の陣を張った場所の変容した姿に、目まぐるしく変わった時代を見るようであった

2)岩崎山攻防戦
柏尾の陣から南側は日川が流れ、その川を挟んで向かい側が山になっており、広がった川を中心とした世界が俯瞰できる。日向平の南方に位置する岩崎山は諏訪兵と永倉新八の指揮する幕兵との戦闘があったが、瞬く間もなく敗れ、で余儀なく後退し柏尾の本隊に流する。
岩崎山を占拠した官軍は、日川の渓谷越え、日向平の側面から追撃する。

3)柏尾橋
<深澤川を挟んで、両軍戦った場所、手前側に旧橋の欄干が見える>

Tinbutai301
甲陽鎮撫隊の陣を張った場所は深澤川と言われる急峻な渓谷にある。この深澤川に柏尾橋が架けられ、甲州街道を勝沼と江戸方面に繋がる橋として大変重要な役割を担う。
古い橋の橋桁と草藪の影に対岸の橋桁が僅かに見える、その下が深澤川である。対岸の民 家付近は甲陽鎮撫隊が破れ、退陣するおり、火がかけられた。
この先が深澤川で切り立つ崖で、谷底のようになっており、落ちたら二度と上がれないような、奈落の底である

<垂直に切り立つ石積み>Image211_2木立の裏側に石積みの壁がほぼ垂直に切り立っている姿が写真を通して僅かに見える。
甲陽鎮撫隊と相対座した新政府軍の陣座はこの谷底の深澤川で向き合うが、大変短い距離である。

4)祇園淵
   <幕軍兵、追い詰めら飛び込み、逃げた祇園淵>
Tinbutai302_2柏尾の陣の古戦場から水力発電所で整備された緩やかな坂道を降りきった所に、見事な飛瀑に息を飲んだ巨大な滝壺の祇園淵に到着する。
追い詰められた幕兵の一部は逃げ場を失い、滝壺にダイブ、日川沿いに逃げたと言われる。、激しいしぶきを上げる、自然から生まれた急に開けた炯眼、懐の深い、日川沿いの舞台の出会いに、同行者の感動の声が上がる。

5)陣中食で信玄公に心酔
<一杯入ったほうとうのドンブリ>

Img_11681_2アップダウンのある古戦場周辺を散策し、一段落、車で予約積みの勝沼町の慶千庵に向かい武田信玄の陣中食のほうとうを食べる。
元々水田の少ない土地柄、それに取って代わる陣中食が甲斐の郷土食として育った。
此処は拘りを持って味噌味、野菜満載の「ほうとう」食べ身も心も武田信玄になり濃い味に心酔した。

6)甲州街道を東下
さてここから、甲府から甲州街道を東下した板垣退助率いる東山道軍にならって、勝沼宿を抜け、更に大善寺へ向かう。

7)勝沼宿
勝沼宿は甲府盆地の東端の宿として、問屋場、本陣と複数の脇本陣が構え繁栄を極めたが当時の建物は殆ど無くなりブドウ農家に変わってしまった。
僅かに江戸後期、以来と言われる貴重な仲松屋住宅の東屋敷が残される。板葺き二階建てで道路側には縦の格子が使われ落ち着いた雰囲気作りに一役買っている。この手の建屋が街道筋に軒を連ね、厳めしい 武装した新政府軍の一行が、屋敷の前を通過、柏尾の戦場へ向かった姿を見届け、幕末か維新へ激しく変わる時代を越えて語り伝えている。

勝沼宿から前方を見上げると、丸で剃り込みを入れた異様な柏尾山の姿が嫌でも目に入る。
鎌倉時代からブドウ害虫駆除に柏尾山の「鳥居平」で10月に鳥居型の山焼きが鳥居焼が
行われる。柏尾山の山頂の鳥居平では伐採され、刈り取られた部分が鳥居の姿が甲州街道からはっきり見える。

8)大善寺
ほうとうで重くなった体に、腹減らしと、気負い込み、 旧田中銀行、本陣跡、勝沼氏館跡を見て、大善寺を目指す。カーブを伴う緩やかな坂道が、延々と続き、中々大善寺の看板が見えず、途方にくれたが、ムチを入れ、足を引きずりながら何とか辿りつく。
休む間もなく、本堂(薬師堂)に通じる待ち受ける急階段の難所が立ちはだかり、疲れ切った足腰に絶望感も漂うが、此処が最後と思って、気力で登る。

勝沼戦争で甲陽鎮撫隊は大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家、縁の寺宝があるという理由から諦め戦闘による、草刈り場になることは避けられた。
<紅葉真っ盛り>

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本堂で参拝し、此処まで辿りついた無事に完走できたことを感謝する。
階段脇に、真っ赤に色づいた紅葉の花舞台をたっぷり堪能しながら、勝沼旅は無事終了した。
<新選組の羽織と真っ赤な『誠』隊旗>
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同行の皆さんは新選組縁の地として、大善寺の山門で新選組羽織で身を包み、持参した大きな『誠』の隊旗を掲げ、記念撮影する。
満足した笑顔に新選組に心酔する思いが、この甲州の地で叶えられたようであった。

当該記事はHP『勝沼宿と柏尾古戦場跡』 でも詳細が書かれており、併せてご覧いただければ幸甚です。

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