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大河ドラマ『西郷どん』 も終わった

大河ドラマ『西郷ドン』も終わってしまった。

<雌雄を決する戦いの場であった現代の熊本城>

Image111その舞台となった西南戦争は圧倒的な物量を誇る政府軍に抗戦し、熊本から始まり、宮崎の延岡地方の和田越えで数千の薩軍、数万の政府軍と最後の大会戦で敗北した。既に300余の薩軍は重包囲網を突破し、道無き山岳路を駆け抜け鹿児島の城山で戦い、西郷以下亡くなり、西南戦争は終わった。
仰向けに天を仰ぎ亡くなる姿は印象的であった。

<花岡山で陣を敷く西郷軍が大砲を引き揚げ熊本城を砲撃する。
城下には火の手が上がり城は煙に包まれる。西郷軍は熊本城を落とせず撤退する>

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◇西南戦争終了後

激しい政争の渦の中政局牛耳ったは大久保利通は西南戦争後、西郷の信奉者から紀尾井坂で大久保が暗殺される。残された記録から、大久保は全身に16箇所の傷を受けており、そのうちの半数は、頭部に対するもので「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」とあり、激しい怨恨も込められていた。

◇大河ドラマ始まる前、供養祭で大河ドラマの話が話題に
2017年3月新選組隊士百五十回忌総供養祭で松平家14代目藩主松平保久さん「会津藩と新選組」講演された。
『元々接点のなかった「会津藩と新選組」は"誠と愚直"の言葉が二者を繋げるキーワードである。
大河ドラマ「八重の桜」でかなり朝敵の汚名が消せると言う思いで、皆大騒ぎして見ていた。かなり会津贔屓でドラマ化され、私自身としては嬉しかった。
来年の大河ドラマは西郷隆盛を予定されて居るが、個人的には八重の桜の再放送でもあったらなんて、冗談で思ったりしている』
(会場はどちらかといえば東軍よりの聴衆で、自然に反応し爆笑、大拍手、一番会場が盛り上がった)
会津藩を称して『愚直』ということであった。
松平容保公は松平慶永公から京都守護職を拝命されたときに、危険な役回りに藩内でも反対者が多い。
決定に躊躇したが、最後は真之公が作った会津藩の憲法、家訓(かきん)15箇条から、苦渋の決断であったようである。
これが、戊辰役で、味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者からなる悲劇が生まれる結果になってしまう。
そんな「八重の桜」が『西郷ドン』に繋がり、倒幕を終え、明治6年の政変が新日本の向かうべき世界が描かれている。

◇展開は「激しい抗争の嵐の維新」であった
岩倉使節団帰国後、政局は大久保利通を中核の派とそれに反対するる真っ二つに分裂し、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新兵・副島種臣のらが離れ、併せて自由民権運動や士族反乱が生まれていく岩倉具視が襲撃され、初代司法郷の江藤新平は佐賀の乱で処刑後梟首される。
西郷は反政府活動家に担がれ反政府の要として政府軍と戦う西南戦争で戦死する。
最後に西郷の信奉者から紀尾井坂で大久保が暗殺される。
国造りを巡る派遣争いから、一連のテロ活動や国内内戦で瞬く間に政府の中核が次々と失っている。

◇福沢諭吉が、西郷隆盛をべた褒め
そもそも西郷は、維新の時には徳川幕府を転覆し、維新後は西南戦争で不運に失敗に終わった。
しかるに最初の反逆には忠義の名を与え、後の反逆には国賊の名を与える、というのは筋の通らない話だ。
西郷が征韓論に破れて鹿児島に退いた時、政府による圧制が強まり、その噂が西の方にも流れてくるようになって、西郷旗下の連中は義憤に駆られ政府転覆の挙に及んだのである。
西郷の側の抵抗精神とは、政府の暴虐を正して一国を発展せしむる原動力となるものだ。人民の間に抵抗精神がなくなれば、その国民は衰退するほか道はない。
したがって西郷のような抵抗精神の豊富な人材を持ったことを、日本人は誇りとしなければならない。
西郷といえば、維新最大の功労者である。その功労者を、維新政府は、権力争いの末に殺してしまった。
福沢は、西郷の死が日本にとっていかに損失となったかを嘆きながら、この小論を結んでいるのである。

◇戦いの最中『明治天皇行幸』が行われた
こうして勝者・敗者の鮮烈を究める激しい抗争の中、生き残った要人が政治の中核を担う。
その事件も覚めやらぬ中、明治天皇以下中枢を担う三条実朝、伊藤博文他、要人300~400人の行列の豪壮な国内各地への明治天皇行幸に行われている。
激しい政権争いの中、勝ち取った大久保が新しい国づくりに邁進する中、恐らく企画した行幸に違いない。
そんな成果の行幸を見ないまま、消え去り、その遺志が三条実朝、伊藤博文によって継がれた。

明治10年西南戦争勃発時期に天皇は近畿地方を行幸中で京都を巡行する直前に西郷軍が進撃開始。天皇は東京へ戻らず急遽京都に滞在された。

このきらびやかな行幸の蔭に雌雄を架けた抗争が渦巻いていた。

<明治天皇の行幸姿>1181

・・・と色々話題はつきない

その一端について>『ようこそ幕末の世界』で纏めてみました。
ご覧いただければ幸甚です。

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武田信玄の陣中食『ほうとう』

風林火山は、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)の通称である

◇武田信玄の強さ

        <風林火山の旗をかざし、赤備えの軍団>

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    <武田勝頼香まつりから、甲冑姿も、まぶしく勇ましい>Img1511武田信玄には赤備えの軍隊があった。武具、甲冑を赤一色で統一したド派手な見た目の軍隊である。
さらにその軍隊は騎馬隊で構成されており、戦場では半端ない強さを発揮した。
武田信玄の掲げる旗印『風林火山』の『火』の意味は、侵略すること火の如しであるが、武田の戦法もまさにその通りだったようである。
敵陣に、騎馬隊が一気に突っ込んで先ず敵陣を崩す。追い打ちをかけるように槍隊、歩兵が更にに突っ込んで敵を倒す。怒涛の攻撃で敵を圧倒し、甲斐を制圧し、周辺地域も配下に領地を広げた『武田の騎馬隊は最強』『武田の赤備えは最強』と世に有名になった。

◇ほうとう
<笹子峠を越えて西側は甲府盆地、ここ一帯を国中と言われる>
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この弛まざる武田軍のエンジンを動かす燃料は『ほうとう』あった。
武田信玄の領地甲府盆地は国中と言われ、その代表食は『ほうとう』である。うどんとは一線を画し、食塩を全く加えないことによって、こしが少なく、汁の中で煮込むと、麺からでんぷんが溶けてとろみが付くため独特の風味が作り出される。味噌を主体に薄く伸ばしたもちもちとした独特の食感は堪らなく美味い。
この『ほうとう』は戦国時代同地方を席巻した武将、武田信玄の陣中食であったと、言われ、身近な食を通じて果てしない戦国武将のロマンに繋がってくる。
郷土食として誕生し、同地に根付いている背景にはこんなことが言われている。
慶長3年(1598)の見地目録にある甲斐の米の生産は22万8千石、上杉謙信の39万7千石で6割程度で、米が採れない土地柄から、小麦、大麦他の雑穀が中心の粉食文化が発達している。
群雄割拠の戦国時代、武田、今川、北条、上杉、織田の激しい戦いの中、戦略の一つに『塩』を巡る
駆け引きがあったことなど、面白いが如何に大事であったかを物語る。
永禄10年(1567)武田信玄は今川氏との同盟を破棄し、東海方面への進出を企てるが、それに怒った今川氏は北条氏と協力し、武田領内への「塩留め」を行う。
海に面していない甲斐・信濃(現在の山梨・長野)武田の領地は、塩を取ることが出来ず領民は苦しんだ。
この、武田の領民の苦しみの事態をみて、見過ごすことが出来なかった、信玄の好敵手上杉謙信は義を重んじ、越後から信濃へ塩を送り、武田氏とその領民を救った。
由来「敵に塩を送る」と言う言葉に繋がっている。
今日、有名な言葉として知れ渡るが、それ以上に敵対関係にある相手でも、相手が苦しい立場にあるときに救いの手を差し伸べた上杉謙信の懐の深さを思い知らされる
流通機構が発達した今日、容易に手に入る塩も、諺に載るぐらいに、当時では海から離れた土地では希少な存在であった、事が判る。
常食に近い、「ほうとう」の手法に希少な塩を使わない、製法を練り上げたことは充分考えられる。
仕上げられた製法から、独特の口当たりののもちもち感はこんな意外な所から生まれている。
◇陣中食としての『ほうとう』

Img155小麦粉、味噌、鍋さえあれば、山中であろうと場所を問わず何処でも簡単に作ることが出来る。
消化も良く、直ぐにエネルギーになるから陣中食としてさ最適である。
戦いの移動過程で野生動物の出会いに狩りで捕えたイノシシ、鹿などを鍋にぶち込み、一段とバラエティに飛んだメニュウにしたに違いない。
ほうとうは米に比べて軽く、機動性を求められる、山野の野戦移動など『疾如風』(疾(はや)きこと風の如く)武田軍の強さを支えたのもこの軽便性でもなかろうか

◇余りの美味さに

Img_761611甲州街道、旧勝沼宿の西側に位置する勝沼町の、御屋敷にある慶千庵で中庭の風情を確かめながら、武田信玄の思いを馳せながら、じっくりと『ほうとう』の味を堪能した。

  <ドンブリ鉢に一杯に豊かな食材とあわせ、濃厚なほうとう>

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これから陣移動にも関わらず、大きなドンブリに味の染みこんだ野菜、ほうとうなどなど、かなりのボリュウムに、美味さの余り、幸せ一杯と感動し、完食してしまう。
加齢と共に食も狭くなった昨今、並以上に食べてしまい、「疾(はや)きこと風の如く」とはほど遠い食後の立ち上がりであった。
「ああ、これではとても武田軍に付いていけないなあ~と思いつつ、よっこいしょ」と重くなった体にムチ討って、甲州街道を東に向かった。

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