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武田の遺稿を残す八王子を巡る

八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地として栄えた。
八王子の歴史を飾る代表的な千人同心、松姫、大久保長安、などなど武田遺稿から誕生していることに改めて思い知らされた。
戦国時代から幕末にかけて、今日の八王子に繋がる遺跡を訪ねて、JR八王子駅の南側からJR西八王子駅に至る周辺を歩いてみた。
◇八王子郷土資料館にて
<倒幕の先頭を走った浪士落合直亮像>

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八王子の土地柄、佐幕地帯でありながら幕末期に倒幕の先頭を走る人物が居たことに驚いてしまう。何故そこまで掻き立てしまったのであろうか?
落合家は関東防衛の軍事拠点の一つ小仏の関守に徳川代官配下の最前線の要職を代々続けられていた。
直亮は、江戸中期に興った国学の流れに染まって行く。
20才で後を継ぎ関守になるが、家督を弟の直澄に譲り、関所番をやめてしまい国学と兵学で名声あげた国学者で尊皇譲位の挙兵で同志を募った相楽総三の元へ走る。
西郷隆盛は王政復古の契機を掴み、倒幕を画策する。薩摩屋敷へ、続々と浪人が集まり、直亮も門人五人を率いてに入る。浪士隊を組織、 総裁は相楽総三、直亮は副総裁となる。
「御用党」と称し、関東周辺の放火など錯乱計画を次々に実行する
テロ活動で、江戸市中を混乱させた。 激怒した幕府側は薩摩屋敷を焼き打ちする
藩邸から脱出する浪士たちを指揮し、翔凰丸に乗って江戸を出港、幕府海軍の回天丸らと砲撃戦を繰り広げながらも逃げ切った
これが引き金となって幕府と薩・長が鳥羽 伏見で戦うの戊辰戦争へと入る。
京に入り、西郷隆盛と面会し、薩摩藩邸焼打ちから、今日の戦争となり、愉快な時が来たと、功をねぎらわれる。
 相楽総三は赤報隊を編成し、官軍の東海道鎮撫総督の指揮下に入り建白した「年貢、 半減令」で民心に応えた。しかしが太政官はこれを実施すると財政に欠陥を生じ、一度許可した布告令を取り止めた。一方では設楽らが力をつけることを封じるため相楽以下は偽官軍と称され下諏訪で総督府に捕縛、処刑される。
 相楽総三の死を知った直亮は、それを操った岩倉具視を殺害しようとしたが、失 敗し、岩倉に諭され、帰順してしまう。
 明治期には西郷隆盛に関東の事情を伝えたり岩倉具視にも協力し、新政府の要人に絆を深め、岩倉の政治力で地方の政治に携わるように世話を受ける。
 明治元年(1868)落合直亮は陸前志波塩釜神社宮司、伊那県判事、3年後に伊那県大 参事(副知事)に昇進した。しかし、翌4年に冤罪で失脚、多くの国学者と同様に閉職に甘んじ、不遇のうちに明治27年没する。

◇信松院

<階段の頂部に荘厳な本堂が構える、信松院>

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松姫は武田家に縁のある多くの人達の精神的支柱となっている。

さらに養蚕と絹織物の普及に努め、今日の八王子の養蚕業に継がれるなど八王子の看板のお姫様である。
松姫は永禄3年(1560)武田信玄の4女として誕生する。7歳で織田信長の嫡男「信忠」と婚約するが両家が三方が原の戦いで婚約は破棄する。
信玄没後、織田勢が甲州征伐を開始、これに抗戦した髙遠城主の実兄(信玄5男)の仁科盛信は信忠の降伏勧告を拒否し自刃する。
松姫は姪たちを連れて従者とともに山中を逃避行し恩方村全照庵に逃れる。


<松姫は心源院をを訪ね、入道し信松尼と名乗る。>

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代官頭大久保長安や同心の庇護の元、現在の台町付近に信松院を営み、3人の遺児を養育する傍ら、近隣の子供たちに読み書きを教えた。
栄えある武田の娘でありながら、結婚の夢叶えず、身内の不幸など重ね追われ身。仏門に入り、遺児や子供たちの養育に生涯を八王子にかけた。

◇信松尼と会津松平家の始祖「保科正之」の奇縁
信松尼の晩年、二代将軍徳川秀忠の愛妾のお静の方が身ごもり、正妻の嫉妬を避けて身を隠した時に、それを守ったのが姉の見性院と信松尼と言われている。この子供が高遠の領主保科正光に養子として入り、後の会津松平家の始祖となる保科正之である。
髙遠の落城と兄の戦死から、始まった信松尼の逃避行は最後に守った子供を城主として返すことで叶えられたのでは無かろうか。


(松平家14代藩主の新選組パレード参加)

<信松院の加護に育った松平家の始祖と繋がりから時代を超えて14代目松平保久氏が日野に晴れやかな姿で登場された。>

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幕末動乱時期に会津松平藩は京都守護職として治安維持に一役を担い、その配下に新選組が活躍し、全国にその名を留める。義を信じ貫く心は会津も新選組も同じ、となびくものがあり、会津松平家第14代当主も自ら新選組パレードに参加された。日野と背中合わせの八王子の信松尼の手招きか、時代を超えて縁を感じる。


◇金丸四郎兵衛
金丸氏は甲州武田家の旧臣で後に徳川氏に仕え、四郎兵衛は各地の代官を勤めている。
 正徳4年(1714)7代将軍家継の生母月光院は自分の仕えている年寄り絵島を増上寺へ、代参させたが絵島は寺の接待を断り、山村座の芝居見物に行ってしまった。
 芝居が終わると茶屋に役者の生島新五郎を招いて大酒宴が寺の訴えから発覚し「絵島は遠島、生島新五郎は流罪」となる「絵島生島事件」であった。
代官・金丸四郎兵衛が関与し、「絵島生島事件」に連座して浪人となった。他の事件に巻き込まれため八王子の姉に頼ってきたものの、自首を勧められ、江戸へ帰る途中日野宝泉寺で切腹した。
 寺では四郎兵衛の遺骨を寺内に葬り、墓石を建て弔った。いつの頃かこの「金丸の墓」の墓石を撫でると病気が直ると言われ詣でる人も多かったと伝えられる。
墓石の脇に案内板が僅かにその記録を留めていたが、案内板もなくなり、知る人ぞ知るで忘れられた存在になってしまった。
そんな金丸四郎兵衛の名前が載っている金丸家の墓碑を信松院の募域近くで見つけることが出来た

◇八王子作りの原点はここから
1)大久保長安の誕生
天文14年(1545)大久保長安は甲州武田領の出身で猿楽師大蔵太夫十郎信安の次男として誕生する。兄の新之丞と一緒に武田信玄に取り立てられ、後に武士となる。
 天正10年(1582)武田氏滅亡後、駿河に移り、大久保姓を与えられ、推挙で家康へ出仕した。
 石見銀山・佐渡金山奉行となり やがては、日本全体の金銀山の総奉行となってしまう。
その才覚と英知がビッグな役回りに幕府の頂点に登りつめ鉱山の開発や増産で、徳川政権の財政基盤を確立させた人物と伝えられている。

2)八王子の原点はこうして誕生
大久保長安は徳川奉行の重臣として活躍する一方の英知から、浅川の害から守る治水計画、千人同心を配置し外敵から守る警備機能、江戸に繋がる街道に接続させ,・物の流れから文化交易を図る。
江戸から10里、甲州に繋がる幕府の一大拠点として、幕政を支えた代表的な宿の姿がこの絵に凝縮されている今日の八王子旧市街の原形は完成した。
行政の中心である大久保石見守長安陣屋跡は石見屋敷は東西に二分されていた。

<大久保石見守長安陣屋跡>

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東西併せて、14,000㎡ 規模の大きさは時の統率指揮した大久保長安の力を象徴するものであった。

3)長安没後の大悲劇
慶長18年(1613)四月に没した。享年、69歳。
立場上金銀を扱う役割から、武州八王子で国奉行として晩年迄、羽振りを利かせていた。
 長安の没後にその生前の振る舞いに怪しむ者がおり、訴えられた。
 家康は調査を開始すると、金銀5千貫、無数の金銀細工の道具類を私蔵していた事が発覚した。
 家康は、遺族七人を処刑し、一族は滅亡させられると言う厳しく凄惨な処分を行った。
この厳しい処分に後難を恐れ関係縁者が長安の関連するものは一切処分してしまったと言われている。

 

◇血梅の話
1)血梅の命名
この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現 在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという
2)千人頭「石坂」と新選組「近藤勇」が交わした約束
この血梅は、もと八王子千人町の千人頭「石坂弥次右衛門」の屋敷内に植えられてい た梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この「石坂弥次右衛門組」の世話役を勤めていた。
近藤勇が浪士組に入る前、石坂家を訪れ、庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞し,後日接木(つぎき)か取木(とりき)をして贈ることを約束した。
しかし、この約束が果たせないまま、二人は時代の波に呑まれてしまう。 
 慶応4年(1868)新選組は甲陽鎮撫隊として勝沼で破れ「近藤勇」は板橋刑場の露と消えてしまう。
一方、「弥次右衛門」は日光勤番、官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、抗戦派から日光で東征軍に恭順を示した責任を問われ、切腹する。
当時、介錯するはずの息子が不在で老父であったが、老齢で上手く行かず、のたうち回り、苦しんでの悲劇的な最期であった。
3)「弥次右衛門」の墓
甲州街道の喧騒から離れた住宅氏の一角に「興岳寺」がある。墓域は住宅地の中、周囲の高層住宅から見下ろされている。
多数の墓石群のほぼ中央に小屋にある「弥次右衛門」の墓石がある。墓石の手前左右に、2基の灯籠と水盤が並んでいる。死を悼む石坂組の隊士達が寄進し、灯籠台座には「弥次右衛門」に従って、帰国した「松崎和多伍郎」を始めとする日光勤番隊士45名の名が刻まれ ている。
 日光市から送られた香台には「日光市」が刻まれ、熱い絆を読み取れる。

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日光の社寺は国の誇れる遺産として国を越えて世界文化遺産に登録されている。
 墓石・灯籠共かなり風化しており、崩れている姿が年の経過を物語る。
4)残った梅
時は経ち石坂家も八王子を離れてしまい、梅の木も絶えてしまった。
 両士が愛し、また激賞したというこの血梅は千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。
日野宿本陣の裏側に谷さんが育て、その枝を石坂家の末裔の方が菩提寺にそっと植えられた。

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「弥次右衛門」の墓に植えられ、形の上で先祖帰り出来た。「弥次右衛門」の傍で、慎ましく、咲き、血梅を語り伝えてくれるだろう


◇旅巡りも無事に
八王子郷土資料館を皮切りに、最後は宋格院で、この旅は何とか終わった。
 八王子史跡は戦国時代から始まって、幕末まで、あそこも此処も、地域に残された文化として武田遺臣が深く関わってくる。
武田信玄の影響力の大きさを八王子史跡を通して思い知らされた。

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三浦休太郎あて近藤勇の「手紙」

新選組にかかわる大きな事件が当時重なり、当時の緊迫した一片を伝える近藤勇の手紙が発見された。
坂本竜馬のいろは丸沈没事件から竜馬殺害される。
折しも、新選組から離れた伊東甲太郎以下御陵衛士殺害事件が重なる。
手紙に関わる事件として、いろは丸事件から、油小路事件で起きた出来事を含め時系列に並べ、この手紙の背景を整理してみた

<慶応3年(1867年)>、
★4月23日海援隊は龍馬以下、海援隊士が乗り組み、物資を積み、いろは丸長崎を出港して大阪方面を目指した。
瀬戸内海、航行中の紀州和歌山藩の明光丸と衝突し、沈没する。

<瀬戸内海で沈没したいろは丸>

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竜馬のいろは丸沈没で紀州藩に賠償金8万両(164億)の支払いを請求する。
★11月7日に賠償金は長崎で紀州藩は土佐藩に支払われた。

◇伊東甲子太郎らが新選組が御陵衛士に分離、同行した斉藤一が御陵衛士が勇の暗殺計画を聞きつける。
◇11月10日斉藤一が新選組に帰隊し 勇の暗殺計画を報告する
それを聞き激怒した新選組は伊東をはじめとする御陵衛士の殺害を計画する。

★11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。

暗殺(近江屋事件)の黒幕が多額の弁償金の怨恨から佐幕論者で紀州藩士三浦休太郎を容疑者にされる。
海援隊士・陸援隊は三浦休太郎を討つことを計画する。
危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。三浦休太郎の護衛に急きょ新選組の斎藤一、大石鍬次郎ら7名がついた。

◇11月18日新選組は伊東甲太郎殺害し、伊東遺体引き取りで訪れた御陵衛士残党を襲撃する

<伊東甲子太郎が殺害された付近の本光寺>

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11月18日油小路事件で御陵衛士の中に二刀流の使い手で、凄腕の服部武雄がおり、近藤は戦える相手として斉藤一が必要と判断した。
斉藤は急遽三浦の警護を解いて油子路に向かわした

御陵衛士と新選組の大乱闘で服部武雄も亡くなった一人であった。
服部は油小路事件で伊東の屍骸を引き取りの際、ただ一人密かに鎖帷子を着ていた。
同志を逃がすために塀を背にして多勢の新選組を相手に討死覚悟で最期まで孤軍奮闘したと伝えられる。服部の身を挺しての奮闘で4人は逃走する。
この時の4人の中で、生き残った加納鷲雄であった。
後々、薩摩藩に入った加納は流山で捕まった勇の大久保大和の変名を見破り、勇を処刑に追い込んだ。

*事件当日、近藤勇から三浦休太郎あて詫びの手紙を書いている
新選組と御陵衛士との間では一旦御陵衛士に行ったものは返さないという約束から山口二郎とされている

★12月7日天満屋で三浦と新選組が宴会中に海援隊に襲撃される。(天満屋事件)

「ごめんね手紙」(勝手につけた名称)
油小路事件の当日、近藤勇が戻したことに対する三浦休太郎への詫び状である。
勇が書いた手紙が彦五郎に託されたが、五日市の羽生家に眠ったまま昭和63年(1988)羽生家から発見された。
慶応4年(1868)3月甲陽鎮部隊が勝沼で敗れ、後を追った彦五郎が厳しい探索の官軍に追われ、五日市まで逃走し、匿われたがその時に預け、120年間眠った「ごめんね手紙」であった。
当時の生々しい事件が重なり凝縮された中で、その一端の手紙が今日に伝えられ身震いを覚える2019年5月6日まで、佐藤新選組資料館で限定掲示された。

いろは丸事件から、油小路事件などの紹介記事はこちれでも掲載されています。ご覧ください

届かなかった近藤勇の「ごめん手紙」 

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