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三浦休太郎あて近藤勇の「手紙」

新選組にかかわる大きな事件が当時重なり、当時の緊迫した一片を伝える近藤勇の手紙が発見された。
坂本竜馬のいろは丸沈没事件から竜馬殺害される。
折しも、新選組から離れた伊東甲太郎以下御陵衛士殺害事件が重なる。
手紙に関わる事件として、いろは丸事件から、油小路事件で起きた出来事を含め時系列に並べ、この手紙の背景を整理してみた

<慶応3年(1867年)>、
★4月23日海援隊は龍馬以下、海援隊士が乗り組み、物資を積み、いろは丸長崎を出港して大阪方面を目指した。
瀬戸内海、航行中の紀州和歌山藩の明光丸と衝突し、沈没する。

<瀬戸内海で沈没したいろは丸>

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竜馬のいろは丸沈没で紀州藩に賠償金8万両(164億)の支払いを請求する。
★11月7日に賠償金は長崎で紀州藩は土佐藩に支払われた。

◇伊東甲子太郎らが新選組が御陵衛士に分離、同行した斉藤一が御陵衛士が勇の暗殺計画を聞きつける。
◇11月10日斉藤一が新選組に帰隊し 勇の暗殺計画を報告する
それを聞き激怒した新選組は伊東をはじめとする御陵衛士の殺害を計画する。

★11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。

暗殺(近江屋事件)の黒幕が多額の弁償金の怨恨から佐幕論者で紀州藩士三浦休太郎を容疑者にされる。
海援隊士・陸援隊は三浦休太郎を討つことを計画する。
危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。三浦休太郎の護衛に急きょ新選組の斎藤一、大石鍬次郎ら7名がついた。

◇11月18日新選組は伊東甲太郎殺害し、伊東遺体引き取りで訪れた御陵衛士残党を襲撃する

<伊東甲子太郎が殺害された付近の本光寺>

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11月18日油小路事件で御陵衛士の中に二刀流の使い手で、凄腕の服部武雄がおり、近藤は戦える相手として斉藤一が必要と判断した。
斉藤は急遽三浦の警護を解いて油子路に向かわした

御陵衛士と新選組の大乱闘で服部武雄も亡くなった一人であった。
服部は油小路事件で伊東の屍骸を引き取りの際、ただ一人密かに鎖帷子を着ていた。
同志を逃がすために塀を背にして多勢の新選組を相手に討死覚悟で最期まで孤軍奮闘したと伝えられる。服部の身を挺しての奮闘で4人は逃走する。
この時の4人の中で、生き残った加納鷲雄であった。
後々、薩摩藩に入った加納は流山で捕まった勇の大久保大和の変名を見破り、勇を処刑に追い込んだ。

*事件当日、近藤勇から三浦休太郎あて詫びの手紙を書いている
新選組と御陵衛士との間では一旦御陵衛士に行ったものは返さないという約束から山口二郎とされている

★12月7日天満屋で三浦と新選組が宴会中に海援隊に襲撃される。(天満屋事件)

「ごめんね手紙」(勝手につけた名称)
油小路事件の当日、近藤勇が戻したことに対する三浦休太郎への詫び状である。
勇が書いた手紙が彦五郎に託されたが、五日市の羽生家に眠ったまま昭和63年(1988)羽生家から発見された。
慶応4年(1868)3月甲陽鎮部隊が勝沼で敗れ、後を追った彦五郎が厳しい探索の官軍に追われ、五日市まで逃走し、匿われたがその時に預け、120年間眠った「ごめんね手紙」であった。
当時の生々しい事件が重なり凝縮された中で、その一端の手紙が今日に伝えられ身震いを覚える2019年5月6日まで、佐藤新選組資料館で限定掲示された。

いろは丸事件から、油小路事件などの紹介記事はこちれでも掲載されています。ご覧ください

届かなかった近藤勇の「ごめん手紙」 

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