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大型台風で眠りから覚めた日野宿

令和を迎え未曾有の大型台風19号が関東から東北へ駆け抜けてゆき各地に爪痕を残していった。
江戸と甲州地域を結ぶ旅人の道として甲州街道は歴史的にも大事な役割を持ち、現代でも一大物流の輸送路の役割を担っている。
この甲州街道はどうしても多摩川を超えなければならない。大きな川幅に普段はそこそこの雨量では川幅に救われ、静かに流れている。
それが今回のような滝のような雨が長時間続くと、牙をむき出し、物凄い勢いを持った水流が、川筋の構造物を破壊に結びつけるエネルギー をもっている。

◇崩れた日野橋
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流れ込んだ雨水がどんどん増え水深が高くなり、水流も益々早くなりそのエネルギーに日野橋を支えていた橋桁が、基礎部分をも根こそぎ、はがし地底で擦れてしまった。橋桁の移動が、上部の橋の路面が引きずられ、別の橋桁に載せられた路面とずれが生じゆがんでしまった。

この基礎を固められたコンクリートの巨大な橋桁が、激流の前に敢えなく、移動してしまった

 

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このため本来にある路面がゆがみ、凹凸が出来しまっい、輸送路としての機能を失った。大変危険のため、橋は閉鎖された。

波打つ路面に被害の甚大さを物語る。幹線路を失い、復旧もかなり長期間予想される。この多摩川越えは並走する「立日橋」や「日野バイパス」で横断できるが、交通量の多いところで、日野橋不通で大渋滞が生じている

<至難の多摩川越え>

元々この甲州街道の多摩川越えは代々渡船であった。

江戸時代を通して渡船場は治安上の重要な役割を果たし、将棋で言われる有名な諺で「王手は日野の万願寺」と例えたように軍事上重要な役割を持っていた。
貞享元年(1684)渡船場の位置が万願寺から日野渡船場に移り、その経営は日野宿に任せられ宿役人の監督下で渡船が運行されるようになった。
◇宿の財政を担った
文政7年(1824)御定渡船賃は宿役人から提示され渡船賃は一人10文(約400円)であり。武家、住職、近在25か村は無賃、但し近隣25村は代わりに年々穀物を徴収し、渡船の管理運営費に充てた。
安政5年(1858)6年、の当時の記録から渡船も軌道にのり渡船の総収入から必要経費ひいた収益が宿場財政大きな部分を占めたといわれている


この渡船も安全走行のため、川が増水し、水深が1丈(約3m)から1丈2,3尺を超えると「川留め」と言われ、船は出せなかった。水深1丈以下で舟明け」となった。

◇魔の手は往時から

今回、日野橋陥没が起きた。

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水難事故は往時から度々起きたようで、その魔の手が今日まで続いているようである。
弘化3年(1846)今日同様、長雨が続き、「川留め」からようやく「舟明け」となった。

「川留め」で待機した旅人含め馬船に34人が一気に乗り込み満船、舟はかたむき、川の中程まで来たとき、突風が吹き、高波が船には入り、船は転覆、旅客は川に投げ込まれる。船頭2人以外は全員が激流に巻き込まれ、溺死する痛ましい事故事故が発生した。
増水した急流に流され死骸は多摩川の下流へ、遠く川崎あたりまで流れていったという。

この増水は広域におよび、多摩川、浅川の合流点付近は水没し、石田寺北にあった土方歳三の生家でも、物置、土蔵が押し流され、母屋まで流されそうになった。水難を聞きつけ近村の人々によって、西方の現在地に移築している。

◇明治維新以降
渡船場の経営は日野宿から日野町へと受け継がれる。
◇日野橋完成以降
大正15年(1926)この日野橋が完成し、歴史的な渡船の業務はこの橋の完成をもって終了した。

 ◇日野宿問屋役、佐藤彦五郎

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佐藤家は正保(1644、~48)頃から彦右衛門を襲名し日野宿問屋役を務めていた。
最後の寄せ場名主として幕末から維新にかけて治安維持とも併せこの渡船維持したのは佐藤彦五郎であった。
彦五郎は明治35年9月17日76歳ですでに深い眠りについているが、今回の多摩川の狂乱が呼んだに日野橋橋梁の事故にきっと驚いてるに違いない
「文明の発達した今日、強靭化された構造物も未だ未だ自然災害には弱い」改めて思い知らされた。

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