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寛永寺も焼けつくした上野戦争

◇彰義隊立ち上がり
鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は大阪を見捨て江戸城へ,更に江戸城を明け渡し、上野の寛永寺の支院の大慈院に籠って旗本の混乱・刺激を避けようとした。しかし幕府の混乱は避けがたく秩序も治安も荒れた。この窮状に情けないと一ツ橋家の人たちが立ち上がり、賛同者を集め渋沢誠一郎、天野八郎らが中枢を担う彰義隊が結成された。彰義隊は謹慎の身である慶喜護衛を旗印に寛永寺を拠点とした。
これより先有栖川宮を総督とした東征軍が江戸へ迫ってきた。


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慶喜から密命を負った山岡鉄舟は西郷隆盛を駿府に訪ね、徳川家救済と江戸無血開城への道を開いた。
江戸城攻撃中止となりを慶喜命乞いは何とか通ったが、慶喜は水戸へ落ちた。
将軍江戸を去ることで柱を失い市中は混乱した。彰義隊も歯が抜けるように脱落者が増え渋沢も離れた。
それでも江戸城明け渡しで、血気にはやり生き残りの彰義隊が東征軍との対決姿勢が血気にはやった。幕府陸軍兵士等が盗賊と化し、幕府復興を名目に放火や強盗を働いた。
事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行ったが、説得に応じなかった。
江戸の治安悪化の要因は彰義隊と断定し、新政府から彰義隊討伐の布告が流された。

◇戦闘の火蓋が開かれる
慶応4年(1868)旧暦5月15日(新暦で7月3日)梅雨時の朝から雨が降る中此処に立て籠もった彰義隊に対して総監督大村益次郎の元、新政府軍が戦いを挑んだ。
東征軍、彰義隊が対座したまま、双方決めてを欠き、動かなかった。
こうした局面に長州陣大村益次郎が三条・岩倉具視らの支援を取り付け、西郷のもっていた指揮権を一時的に取り上げ、東下した。東征軍の指揮系統を含め実権は完全に長州側が握り、配下に薩摩がつくことになった。
江戸城の大下場(二重橋の外)に1万2千の兵が集結した。
上野、正面・黒門口は薩摩、因旛、肥後の三藩、搦手((からめて)城の裏門や敵陣の後ろ側)の根津、谷中は長州、佐賀、久留米、佐土原、大村諸藩、他の諸藩は神田川を第二の絶対防御圏として非戦闘地域に拡大を防いだ。
決戦日を5月17日と喧伝し、その策略に乗せられ前々日、彰義隊は暇乞いで山を降りてしまった。その隙を突いて15日東征軍は戦闘は黒門口小倉壮九郎の一番遊撃半隊と川路之進足軽隊で開戦となった

<戦闘、放火場所は地図上の寛永寺消失、神木隊戦闘、黒門表記された場所である>

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◇アームストロング砲火で状況一変
六つ半(午前7時)黒門口に向かった一番遊撃隊に対する足軽隊の発砲によって開戦となる。
 午前中の戦況は彰義隊有利に展開した。ところが午後になって山下、雁鍋に据えた東征軍のアームストロング砲が火を噴き威力を発揮することより、戦局は一変した。もっともこれには裏があって、大村が事前に長州の一隊を会津支援隊と偽って、上野に入れ、彰義隊は砲撃を中止して出迎えた。味方の砲声を合図に正体を表し、上野の山内がパ ニックになったのが真相で、完全に大村の作戦に騙された。
これがきっかけで彰義隊が崩れ、根本中堂は火に包まれる夕刻、彰義隊はちりじりになって会津方面這走した。
戦火を開いて、彰義隊は半日で壊滅した。

◇激戦の黒門周辺(黒門は現在圓通寺に移築)

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黒門は元々寛永寺の山門であった。ここの黒門口に薩摩藩と鳥取藩が居り、長州藩は谷中の方に居た。
南側に当時は呉服屋さんであった,松坂屋があり、其処に砲門が据えられた。
 一斉砲撃でこの周辺に彰義隊が多く立て籠もったので一番の激戦地であった。その黒門は現在箕輪の円通寺に移築されているが、当時の激しい戦いに無数の弾痕跡が残されている

◇穴稲荷門(現花園稲荷神社)での戦い
敢然と戦った「榊原家」
榊原家は元々高田藩で徳川創業以来270年間使えてきた、徳川四天王(井伊、本多、酒井、榊原)と称される、 由緒ある家である。徳川慶喜が大政奉還し、藩主のいる国元では朝廷に恭順の意志を表したが、江戸詰め侍は脱藩して約86名が「神木隊」を結成し、旧幕軍に身を投じ、上野山で壮烈な死闘を演じた。
 神木隊の名は榊原の榊の字を二字に分けて付けられたものである。
神木隊は浩気隊と穴稲荷門(現花園稲荷神社)で大砲と小銃で構え、不忍池を小舟に乗って弁天の中島から来る倒幕軍を迎え撃った。
<不忍の池から、右側が弁天堂、向かい側が小舟に上陸図る討幕軍を迎え撃った神木隊が陣を張った穴稲荷門>
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<穴稲荷門(現花園稲荷神社)>
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しかし、要となる黒門口(現京成上野駅付近)が破られると穴稲荷門も皆破られた。
 弾丸を全身に受けながらも敵軍に立ち向かい山内の清水堂割腹したり、14、5名の敵に取り囲まれ落命し、死後 蹂躙されたり、なぶり殺しにされそうになった者など凄惨極めた戦いであったようだ。
 上野の山での戦いでは17名戦死したと言われている
因みに神木隊士の墓は 池袋の清慶山本立寺にある。境内の御本堂前に「神木隊戊辰戦死の碑」が建っており、上野の山の戦い、および 函館五稜郭の戦いで26名の戦死者の名前が載っている。


◇象徴的な寛永寺も焼き尽くされた
江戸時代、上野公園の地は寛永寺の境内で堂塔伽藍が立ち並んでいた。現在の噴水道一帯を廻廊がめぐら され勅額門を入ると根本中堂が建っていた。
 根本中堂は横45m、奥行42m、高さ30mの広大な中堂が建てられ、堂内は本尊の薬師如来が奉安してあった。
 瑠璃殿は中堂の別称で、坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。
 寛永寺堂塔伽藍は慶応4年(1868)彰義隊の戦争の時に焼かれてしまった。
<根本中堂があった現在の噴水道一帯>
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<消失直後の根本中堂>

戦闘中は建物はあったが、戦闘2日後、再び彰義隊が現れたら困ると、新政府軍が火をかけたと言われている。
 本堂は1625年博物館のある所に建てられていた放火直後の姿である。
寛永寺は完全に焼き尽くし、国法的な堂塔伽藍(がらん)など歴史的な遺産も消えてしまい一面の焼け野原、僅かに付帯設備の屋根と柱が寂しく残される。
江戸市民が此の焼けただれた山内に、失った遺産の惨状の姿見物に大挙押しかけ、失ったものの大きさを悲しみ悔やんだと思われる。
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◇彰義隊墓
▽遺体は放置された
 此処に彰義隊の遺体が大量にあった所である。新政府軍は寛永寺関係のお坊さんは上野の山から一切降りろ、 誰もここへ上がってきては駄目だと厳命した。
二つの墓があって、小さい墓石は戦い直後、寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された建てられた彰義隊の墓である
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上野の山に官軍の死体は片づけられているのに、彰義隊の死体はごろごろ放りぱなしに捨ておかれた。これを直 視した神田の三河屋の骨董屋を営む幸三郎はたまりかね、三ノ輪の円通寺「大禪佛磨大和尚」と相談し、官軍側に荼毘の許可を得た。幸三郎は若い集を動員し266の死体を集め、山王台の塵溜(ちりだめ)に入れ、荼毘にし、一 部は埋めた。
焼いた骨は円通寺で持ち帰り、墓石をたてて手厚く葬った。残る遺体は土中に埋められた。その跡地が、現在の上野公園にある彰義隊の墓であるとされる。
但し、墓標の文字まで制約が加えられ、墓標の文字が限定され、山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の刻み込まれた三文字が、苦衷の証として此処の墓石に残されている。
 三河屋の幸三郎の自費で一切をやったと言う、下町江戸っ子の美談として讃えられている。

上野戦争に絡み上野・谷中歴史散策  でも案内しています。こちらもご覧ください

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