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佐幕思想を追った近藤、土方

平成から令和へ迎え、明治維新から150年の節目の年であった。
この明治維新に崩壊寸前の幕府の矢面に立ち、新選組が戦い散っていった。
『殉節両雄碑』が高幡不動の境内に立ち、戦い集団を引っ張った近藤勇・土方歳三両雄を称えている。
彼等がその支えとなったのが強烈な佐幕思想から成り立っている。
 普段、何気なく目にする日野宿から、佐幕思想との繋がりを辿ってみた。

◇幕府支える武士への憧れ

1)その代表格の一人が日野誕生の「土方歳三」でもあった。
豪農層から出て、天然理心流の剣術を身につけ、激動期に武士の世界に入ることが、近藤勇や土方歳三始め新選組の隊士が抱く、ある種のステータスであった。
 農民から武士への道は、折しも崩壊しかかる徳川幕府を支えようとすることは、多摩地域での幕府の報恩に報い るための宿命でもあった。
その源を辿れば八王子・日野など地域の千人同心が武田遺臣であり、徳川家への報恩思想が根強く脈々と受け継がれている。
その影響下にある近藤や土方にも共通の報恩思想が息づいているものと考えられる。
一方では地域は幕府の主要な財源となる年貢収取の対象となる田畑を持つ天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称であった。

2)お侍になりたい願望を具体化。

<『乃武乃文』(すなわちぶすなわちぶん)正斎老人貞亮書の扁額>
Sabaku2011 。
近藤や土方、そして新選組隊士の大半が農家出身で、武士になりたいとその思いを今日に伝え残されるものは日野 宿本陣の玄関口に飾られる四字銘扁額なのであろう。
 『乃武乃文』正斎老人貞亮書の扁額である。
この四文字の先である、武士を追っかけ華々しく散っていった。

これを書いた『柳田正斎(やなぎだしょうさい)』は寛政9年(1797)~明治21年(1888)下総国佐原(千葉県佐原市)生まれの書家・漢学者・漢詩人。
名乗は貞亮。 若くして昌平黌学問所に学び、剣道を通じて千葉周作と親交する。
 柳田家は江戸時代の儒学者正斎そして泰麓、泰雲と受け継がれ、現代は八ヶ岳泰雲書道美術館で柳田書法が展示されている。

3)『乃武』で歳三が習った天然理心流
江戸中期に天明や天保の飢餓を生み出し、農村も荒廃させ治安が乱れた。幕府は関東取締出役の設置や改革組合村の設置で農村の取締の強化を図った。
浪人や無宿者の横行は、宿場内に自ら剣術の稽古がなどの自衛策が自然と生まれた。
このような背景から、剣術が流行り、その一つである天然理心流が日野に浸透した。
土方歳三は安政6年3月に日野新井村土方勇太郎他4名と一緒に天然理心流に入門している。
土方の剣術の書状は残されていない為、どの程度の腕前であったのだろうか、良く判っていない。
しかし万延元年(1860)府中六所宮の天然理心流の奉額式には納額式には刃引の形を披露しており、同年に発行された『武術英名録』に天然理心流、歳三の名前が載せてあり、一流の剣客と評価されている。


4)『乃文』で歳三が学んだ本田覚庵
本田覚庵と言えば幕末の”三筆”の一人である書家の市河米庵の弟子で土方家とは親戚関係で覚庵より書を習ったと言われている。
 土方家から本田家まで約5キロの距離、徒歩で1時間余である。歳三はこの覚庵に書道を習い、万延元年に9回、 文久元年に3回、文久2年に3回、合計15回本田家を訪れている。
 土方の書簡は小島家には京都へ行く、以前のものと、以後のものが残っているが、その書簡は上洛 以前のものは字が小さく、筆跡は女性のように優しいと言われている。
本田家には近藤勇も7回も通っており、上洛する前に剣術稽古の傍ら、本田家に足繁く通い、書や学問を学び、知性と教養を深め、近藤・土方の武士集団としての人格形成に擦り込まれていく。

(現在でも残る本田家)
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江戸時代初期から約350年間続く下谷保村の名家で母屋は慶安年間(1648~51)の建築と言う。
代々著名な文人を迎える当家の家風が守られ著名な漢詩人との交流もあり地域文化の拠点でもあった 一個人住宅が今なお、住まいとして使われている大変貴重な文化資産である。
母屋は茅葺きの屋根はそっくり、現状維持のままトタンで覆っているようである。
トタン下は分厚い厚みの屋根にすっぽり覆われていた。土間から囲炉裏、歳三が尋ねた面影など当時の姿、そのままの家の中を拝見した。

◇粛清の厳しい戦闘集団
1)浪人集団から組織集団「新選組」へ
時あたかも尊王攘夷(天皇を尊び、外国人を排除)が水戸学で生まれ、桜田門外の変が起きた。井伊大老が倒され弱体化された幕府の再建が急務であった。
幕府再建の一策として清川八郎が在野の有志を、浪士組として取り立てるが、近藤、土方も幕府の浪士組に参加し上洛する。
しかし清川は攘夷決行で江戸に引き上げる。これに反発し公武合体までは京都の天皇・将軍警護すべきと、芹沢鴨・近藤・土方らが京に残り清川から離れ、壬生浪士が生まれる。
その間、将軍警護の会津藩・薩摩藩のクーデターで討幕を目論む長州を京から追い出し、会津藩の配下で活躍する。
一方では組織の中核でもあったが粗暴な振る舞いをする芹沢一派は排除する。
武士ありきで単なる浪人集団から組織集団への羽ばたきは厳しい規律も備え、浪士組から新選組へと変わりその実績から、周りの目も変わってくる。

2)武士以上の厳しい『軍中法度』

歳三が着用した鎖帷子(くさりかたびら)と手甲である。
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池田屋騒動や禁門の変では隊士らは重装備で戦いに臨んだ。戦闘集団として変わっていく象徴的な武装姿である。

近藤勇が一番熱い夏の真っ盛りの池田屋事件で着用して戦った鎖着こみはで重さが6キロある。
鎖で出来ているので刀で切れず、護身用となったが、汗まみれの苦闘の中の戦いであった。

新選組は京の町に火を放ち、長州のクーデターを未遂に留めた池田屋騒動では討幕派志士を倒した。
池田屋の報復を背景に長州藩の京都攻撃の『禁門の変』の戦いがあり、新選組も活躍する。新選組の活動は激動の嵐の渦の中に自ら突き進んでゆく。
文久3年池田屋事件の功績で幕府から幕臣取り立ての申し出があったが、身軽な道を選び辞退する。
その功績から入隊希望で隊士総数は一気に140人ほどになり1番から10番組に組織に編成されている。 歳三の組織論がより厳しく隊規を造り筋金入りの組織が生まれている。
 『軍中法度』で具体的に①武士道に背くこと②局を脱すること③勝手に金策いたすこと④勝手に訴訟を取り扱うこと、この4か条を背く時は切腹を申しつくること。この厳罰主義が歳三の姿勢を伝えて居る。
 池田屋事件の以前に『壬生浪士掟』の隊規があり脱走者は発見したら殺害するということが既に決めら れていた。

3)粛清の嵐
動乱の京に忽然と現れ尊攘派浪士達を震撼させた新選組。元々浪人集団であったが、会津藩預かりの幕府公認の組織としてまとめ上げるには「血の粛清」が必要であった。
新見錦、芹沢鴨、平山五郎、野口健司,山南啓介、河合喜三郎、武田観柳斎、伊東甲子太郎、藤堂平助等々30名以上が粛清の嵐に消えていった。
中でも派閥争いで壬生浪士組の筆頭であった芹沢含めた一派。新選組史を刻んだ油小路事件の伊東以下の御陵衛士の一派。多摩以来の朋友で副長の山南など、新選組が粛清の繰り返してまでも守らなければならないのが「体制」であった。

<浪士組を脱退し、そのまま壬生に留まり新選組が結成される。その新選組の屯所となった八木邸当初は母屋の東の離れだけであったが、母屋まで占拠された。平時は宿舎であったが芹沢とその一派の襲撃もここであった>

<新選組の屯所となった八木邸>
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4)悲願の武士、取り立て
 慶応3年6月新選組を幕臣に取り立てられる。総員105人の隊士のうち、近藤が御目見得以上の身分となって見廻 組与頭、歳三は見廻組肝煎、,副長助勤は見廻組の格式が与えられる。
しかし、それ以前に新選組を離れ伊東甲子太郎以下の御陵衛士は幕府取り立てを受け入れなかった。
御陵衛士になびき新選組から離れようとした隊士7,8名が切腹、処刑されている。
尊攘思想の色合いから討幕に傾注し、勇殺害計画した伊東甲子太郎以下の御陵衛士が暗殺される。

◇戊辰戦争へ 新選組も渦の中
日米修好条約の締結など強権から薩長が反発し武力討幕を画策する。徳川慶喜は立て直しを務めたが成果が得られず大政奉還を朝廷に申し出、265年続いた幕府が滅びる。
慶応4年1月 『鳥羽伏見』開戦 する。
 薩長は薩英戦争・下関戦争で外国軍と戦った経験を踏まえ,洋式の軍備で旧幕軍を圧倒し、撃破した。
 旧幕軍は反撃したが、錦の御旗を掲げた征討軍の前に朝敵とされてしまい、戦意を喪失 し 新選組も含め京都から大阪へ撤退する。
徳川慶喜江戸へ 新選組も富士山丸で江戸へそれぞれ撤収を図る
戊辰戦争も西から東へ甲州勝沼~流山~宇都宮~会津~仙台へ転戦する。
幕軍の敗戦に新選組も当初の仲間が離れ、離合集散を繰り返す中、敗報が続く幕軍と共に更に北へ向かう。
4月流山で勇は東山道軍に掴まり板橋で処刑され、新選組史に大きな転機を迎える。

◇歳三、北の大地、函館で散る
歳三、宇都宮城の攻防戦で負傷し、会津城下で療養し2か月余前線離脱する。
新政府に抵抗する奥羽越列藩同盟が誕生したが米沢藩・仙台藩が離脱し崩れる。最後の砦、会津城も1か月籠城戦で堕ちる。
歳三は榎本武揚率いる艦隊で仙台を離れ新天地蝦夷地に向かう。仙台残留に歳三の生来の仲間であった斎藤一が離れる。
蝦夷で上陸後い箱館五稜郭を落とし箱館政府をを樹立する。
歳三はこれまでの実績を踏まえ『陸軍奉行並』に上り詰め、幕軍の最前線で新政府軍に向き合い戦ったが、明治2年5月11日、一本木関門で戦死、華々しい生涯を閉じる。

『殉節両雄碑』

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『近藤・土方の二人は時代の変革の中、最後まで徳川幕府に対する節義を守り、朝敵の名を冠せられたまま激流の中に没していった。』
と称えた『殉節両雄碑』 。
没後、両雄を称える顕彰する『殉節両雄碑』が篆額は松平容保、撰文は大月盤渓、書は松本順により、明治21年高幡不動の境内に建立される

何故、佐幕思想かを含め、以下HPで書いてみた。併せて御覧ください
日野宿と佐幕思想の繋がり

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