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幕末もコレラの洗礼

中国湖北省武漢から始まったコロナウイルスの感染はあっという間に世界各地に急速に広がっている。
根源地の防疫は元より人と人との接触避け、消毒の励行など行っており、国によっては封鎖効果で一時より、沈静化傾向に見られるが、世界レベルではどんどん広がり、収束の見通しが出来ない深刻な状況に陥っている。
9年前東北地震から原子力発電所の被災から停電。石油コンビナートの壊滅から石油の供給不足からライフラインの確保にガソリンスタンドに長蛇の列。噂デマもあって、買占めがあって米が消え、生活用品である、水、牛乳,パンETCが先読みで買いだめで商品棚から、消えていった。
そんな再来か、コロナ防疫からマスク、テイッシュパーパ、トイレットペーパーが消えていった。
近代文明化学が進んだ今日でも、難解な病に有効な手段を持てずひたすら沈静化を待つだけの深刻な状態にある。


◇幕末時の深刻な流行り病
こうした流行り病は今に始まっているわけでは無く、幕末には日野で起きており、今日のような防疫体制もなく、未成熟な医学もあって、甚大な被害をおこしている。
元亀元年(1570)~幕末(1860年代)まで大凡300年間は幕府の天領であった。日野は江戸を守るような要衛の地として、住民を手なづけるため年貢の割付も低く、幕府に対する忠誠心は強かった。
しかし天保の凶作からの飢餓から百姓一揆を生み、物価騰貴から庶民を追い詰め、寛永6年のペリー来航による対外防衛の幕府負担が困難にあり、献金の上納を領地の住民に強要した。
幕府の瓦解が目に見えるころ献金を巡る混乱が生まれ、一稼ぎしようとした輩もあり、やくざの流行る土壌でもあった。
幕府は天領には江戸に近い所は江戸で常駐し、支配しており、日野もその一つ現地不在もあって十分な取締が出来なかった。
各地に蜂起した百姓一揆や浪人に手を焼いた江川担庵の発想により『農兵隊』の組織化を採用をした。幕府の威信が掛かっていた兵農分離の建前も時代の流れは、最早崩れていた。


<『日野宿組合農兵隊』旗>>
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こうした状況から『日野宿組合農兵隊』が誕生する。名主佐藤彦五郎は幕府の役人があてにならず自らの自衛意識から剣術を稽古し、浪人の取締など警察機能も自前で備えこれに当たった。

こんな状況の中で、流行り病としてコレラが流行った。今日のような組織的な防疫体制も取れず、幕府も住民にお任せ、恐ろしい病魔の洗礼にあう。
数多くの犠牲者の中に明治4年(1871)4月1日流行り病の名で新選組井上源三郎の兄で千人同心井上松五郎が亡くなった。継いで28日妻が、5月9日長男定治郎20歳の若さで後を追い、瞬く間に身近な3人が病魔の災禍の前に命を失う。たった1か月余りに3人が亡くなったが、昨今では志村けんが掛かって間もなく亡くなり、危急の伝わり方は昔も今も変わらない。改めてその感染力の強さに思い知らされる。


< 恐ろしいコレラの災禍の渦に巻きこまれる。写真は三途の川の亡者の着物をはぎ取る「奪衣婆」 >
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◇当時の記録から(佐藤彦五郎日記)
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それぞれの時代で、悪病退散にひたすら祈祷と『芳香剤』を巻いたこと。特段の対策もないまま大量な犠牲者があった深刻な状況であったことを伝えて居る。それぞれ時代は異なるが、以下のように記録されている。

①安政5年(1858)9月
流行病にて人多く死去し、昨中旬より町内、御嶽山御神豹に社を建て、昼夜念仏を百万遍と唱え農業・家業忘れるほどの騒ぎ。世の中の不穏に付き、三日三晩、鎮守神において福島村神主親子が悪病退散を祈祷を就行した

江川代官所の公事方の加判役(大幹部)柏木総蔵が江戸宿植木屋藤兵衛方へ 今流行病の予防の裁きは『芳香剤』は奇特の病にこの上ないと推量、支配所名主へ『芳香剤』を施せと指示する。
『芳香剤』3斤の目方の袋、千袋を9日、13日施す。

②文久2年(1862)にはコレラは当時コロリと言った。日野にも激烈に蔓延し死去するもの実に百余人、仏棺が街道に列をなしたと云う。
この時私財米穀を救撫し、かつ薬剤を広く施与した為、将軍家より奇特の賞として前後二回白銀を賜った。
なお、当時かねて家に蔵してあった多数の大般若経巻が疫病除けの呪いになるとて望まれるまま、幾巻も貸し出したと云う。
(近年この経巻は大昌寺へ寄進してしまった)


◇コレラの庚申塔

こんな大きな災禍に後世に伝えようと庚申塔が立てられた。
その一角に歴史の意気証人の一つである、庚申塔が確かこの辺にあったと微かな記憶を頼りに訪ねて見たら、かなり風化した姿で残されていた。
場所は都道から一歩離れ日野警察裏側の脇道でかっては賑わいを見せていた旧甲州街道の一角である。以前は雪印があったが都市開発で周辺が一変してしまった。
周辺の土地開発が進んで居る様で、様子が一変してしまった。


<2020年3月現在の庚申塔>
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たまたま、以前に行った時の画像が手もとに残されておりその画像を含め載せてみる。
当時は庚申塔はもしっかりした台座に据えられ既に文字は読めないが脇に案内板があり全体を通して威厳は保っていた。
現在はその案内板の姿は無くなり庚申塔も激しく風化し、前面は剥離し崩れかかり、その文字も読み取りずらい状態に変わっていた。17年程でこんなに変わってしまうのであろうか、その痛々しい姿がとても残念であった。


<2003年当時の姿>
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蔓延1年(1860)に自然石で作られた庚申塔である。
 当時、悪性のコレラが流行ったが、この塔に日夜祈願したところ、1名の患者も出なかったとの言い伝えがある。

魔の手が地球上に襲いかかり、未だ根本対策を立てられず、見通しもたたない現状であるが、100年以上前から繰り返されている。こうした犠牲者を生んだ、生き証人が街の片隅にひっそり佇み、消えかかっている。

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